残されたものは 何をしてやればいいの?
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提案者基調
残されたものは 何をしてやればいいの?

発言番号:1
名前:りかぼん
35歳
2004年05月09日12時10分

子供が病気で亡くなってしまいました。ただ ただ 成仏しますようにと、てをあわせてやるだけでいいのでしょうか?どうすれば、成仏できるのでしょうか?どなたか、教えてください。

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こんばんは

発言番号:2
名前:想い出
55歳
2004年05月09日23時34分

私ね、りかぼんさんが何かを書くのを待っていました。
でも・・やはりこういう形になりましたか。うーん、そうだよね、やっぱりね。

>ただ ただ 成仏しますようにと、てをあわせてやるだけでいいのでし
 ょうか?

そうですね、毎日思い出して手を合わせ、成仏を祈ってあげる事は大切でしょう。
私は宗教家では無いので偉そうなことは言えませんが、りかぼんさんの言葉を
見ているとご夫婦の立ち直りと、笑顔が出るようにならないと亡くなった
息子さんも「思い」を残して成仏(幽界から霊界って言うのかな?)へ
安心して行けないのでは?
亡くなった人が思いを残すと、いつまでも成仏できないって・・確か。
忘れないって大切なことだとは思いますけど。毎日を泣いて暮らしていると
息子さんは安心できないかも知れないね。
残ったご夫婦がしっかりとする事が、一番の供養になるんじゃないかと。
だから月命日と、お盆お彼岸にちゃんとお参りして「私達はお前を忘れ
ないよ。でも大丈夫だからね」とお話をしてあげれば伝わりますよ。きっと。
では、また。


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悩んでいます。

発言番号:3
名前:りかぼん
35歳
2004年05月10日12時00分

想い出さん気にかけてくださって、ありがとうございます。主人は何もかも、ノータッチで、全部私に、任せっぱなしなんです。私はすがるものも、頼る人もなく、どーしたらいいのかわからないことばかりで・・。私の思っていることを読んでくれる人が居ると思うだけで、ほっとします(^−^)ありがたいです。四十九日がすんでもうすぐ、百日がきます。そのときに納骨になるんですが、家のまん前がお寺で、七日、七日のお経は、そこであげてもらっていました。百日の時に そこの 納骨堂にお世話になろうと思ってたんですが、主人のお母さんがご先祖様のお墓に一緒に、と今になって言ってきました。お母さんは細木数子さんにはまってて、そのとおりにしないといけないらしく、ちょっとこまっています。筋としては、(ご先祖様といっしょに)お墓に・・というのは、わかるんですが・・。お墓は遠くて、なかなかいってやれない距離にあります。お盆は来るし、次々としないといけないことばかりで・・。(あんたはどうしてほしい?)お仏壇の前で聞いてみるんですが、返事はないし・・。そんなことでもめないで・・言ってるでしょうね。グチってごめんなさい。

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何もできませんが・・・

発言番号:4
名前:とんぼ
40歳
2004年05月11日10時13分

投稿拝見させて頂きました。
どんな慰めや励ましの言葉も今のりかぼんさんには空虚に響くだけでしょう。
ただ、拝見させていただいて、そして心が痛んだということだけお伝えしておきます。

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RとRの子へ

発言番号:5
名前:ありんこ
50歳
2004年05月12日07時40分

死んだらどうなる、本来の姿に帰ります自由な存在です
なくなられたお子さんはあなたに何を望みますか、あなたが明るく輝く事を望みます
墓の中に亡くなった方は眠るのでしょうか、この考えは体に執着する人の考えです、仏壇の中でしょうか、自由な人はそんな所にいません、この世もあの世も同じです
あなたが気持ちを落ち着かせお子さんのためにジュースを用意し「さあじゅーす飲まんかね」と言えば喜んで飲むでしょう、しばらくしてあなたが私も飲むねと言って飲むとその味が優しくなっている事に気付くでしょう。今日はいっしょに寝ようね、といえば寄り添ってくるでしょう。しかし執着しないことです困らせてしまいます
  
 母と子は一心同体 それは私の分身だから
 たとえ体は別れてもいつも一緒 なぜならお母さんに貰った永遠のいのち
 いつでも逢える ゆったりとその心を静めれば 話も出来る
 何も気づかうことはありません
 わたしはいつでもお母さんの心さえみえています
 おとうさんは なんとか哀しみを忘れようとしています
 おとうさんと一緒に仲良く わたしの一番のねがいです

 これを登録するかしないかためらったのですが。

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ありがとうございます。

発言番号:6
名前:りかぼん
35歳
2004年05月12日12時32分

とんぼさん、ありんこさんありがとうございました。こんな、どこの誰かもわからない私にきちんとお返事くださってうれしいいです。ありがたく読ませていただきました。涙がボロボロと、あふれてきました。いろんな形があってもいいんだな−と思えるようになりました。まだまだ話し合わないといけない事山積みなんですが、どちらに納骨することになっても、息子のこと忘れることはないんですもの。私がしっかりしないといけなと思っています。下にまだ3人子供がいます。私は、この3人の子供たちの母親でもあるんですものね。

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がんばりーよ

発言番号:7
名前:博坊
50歳
2004年05月30日22時57分

心配性なひとだ、お骨のことで悩まなくても。分骨という事も出来ます、私の地方ではお骨を望む人には分けます。
 悩んだり心配する事は自分にとっても家族にしてもあまりよくない、まして小さな子供にとってとても大事な時期なのだから、親の不安な心を敏感に感じ取った子供はゆったりとくつろいだ気持ちを忘れてしまう。
 ゆったりと運動してごらんなさい全身で息ではなく気を吸いおなかの底に溜めてゆっくり全身から出してゆく、楽器の演奏もとてもいいその音色は気持ちを癒してくれる、私は木管のやわらかな音を楽しんでいます。
 いつか楽しいあなたのお話を見かけることを楽しみにしています

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祈るということ

発言番号:8
名前:こんち
50歳
2004年08月17日12時12分

祈りとは心の奥、心ではなくもっと奥、あなた達が転びそうになったり後ろに倒れそうになった瞬間いわゆる無、虚、の状態で感謝すること。
 ある人たちは無になろうとして゛ワタシハナニモミエナイ、ナニモキコエナイ゛と祈ってしまい、目が見えなくなり、何も聞こえなくなってしまう人たちがいます。流れ星に祈ると祈りがかなうと言うのは、とっさの瞬間に心の奥の意識に祈るからです。
 一生懸命祈るなら祈りは通じるでしょう、自分の中の神にです。数え切れないほどの聖人たちが神を説いてきたのです、信じなさい。神を知る人は○○教の神とは言いません、キリスト教の神とは言いません

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お伝えしたいことがあります

発言番号:9
名前:ある仏教徒
35歳
2005年04月19日06時22分

はじめまして。私は仏教系のある宗教団体の一会員です。あなたにとって、これが参考になるかどうかわかりませんが、以下はその二代の会長とある会員との会話です。

「ある夫婦がありまして、半年ほど前に入信したのですが、先月のはじめに、四歳になる子が交通事故で亡くなりました。夫婦とも、あまり嘆き悲しんでいるので、励ましに行ったところ、誰から聞いたか、この信心をしていると、死んだ子と親子の縁を、今世でまた結ぶことができるというが、ほんとかと訊かれました。私としては確答もできないので、指導を受けてくるといってあります。この点についてお願いします」
「その人たちは、どんな信心状態かね?」
「きわめて普通の信心です。可もなく不可もないといったところです」
「まだ若いね」
「はい、三十前後かと思います」
「これは厄介な問題だ。信心がどれだけ到達しているか、という感得の問題になってくるからです。ともかく、その人には、それはわれわれにはわかりません、と言ったほうがよいようだ。今世で会うというのも、来世で会うというのも、自らの信心の感得によってしかわからない……」
「先生、御本尊にひたすら願えば、必ず会えるわけですか?」
「そうとも一概にいえないので困るのだ。僕も二十四の年に『ヤスヨ』という、子供を亡くした。女の子でした。僕は悲しかった。まだ御本尊を拝まない頃だったので、ただもう悲しくて、冷たい死骸を一晩抱いて寝て、泣きました。
その子に、その時わかれて、僕はこの年になった。当時はまだ赤子であったが、今、生きておれば、かなり立派な婦人になっていると思う。死んだその子に今世で出会ったといえるか、いえないか……。ここで信心の感得の問題なってくる。私は、その子に会っているような気がします。
人間ひとりの生涯にわたって、生死の問題はもっとも重大で、また深刻な問題です。子供に死なれたときぐらい、この世で悲しいことはなかった。そして、若し妻が死んだら、どうだろうと私は恐ろしかった。ところが、その妻もしばらくして死んだのです。その時、もし母親が死んだらどうしようと、辛い思いをしました。そしてさらに、僕自身が死ななければならなくなったらと考えたら、体がふるえてしまった。生死の問題が、なにもわからない時には、真剣に人生を考えている人は、誰でもそうなるだろうと思う。
そんな私が、戦争中、牢にはいらなくてはならなくなって、少しばかり法華経を読ませてもらって、『ああ、やっとわかった』と、生死の問題を解決するにいたったのです。私にとって、死の問題は、二十数何年間かかった。子供に死なれては泣き明かしながら、妻の死も自分自身の死も、こわかった。これがようやく解決できたればこそ、私はこの会の会長になったのです。
その夫婦が、死んだ子に、今世で会えるか、会えないかは、私から言うわけにはいきません。その人たち自身の感得の問題だと思う。会えるということもおかしいし、会えないということもおかしいし、それはその人たち自身の信心にかかわるものだから、私の力のおよばぬところです。自分の力でおやりなさい、といってあげなさい」
ちなみに、現在の第三代会長も、次男を亡くされています。

以上、取り急ぎお知らせいたしました。

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