本当に正しい宗教とは
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提案者基調
本当に正しい宗教とは

発言番号:1
名前:ホトトギス
30歳
2005年07月08日15時33分

世の中には様々な宗教があります。テレビならP社のテレビ、パソコンならF社のパソコンがいいと、個人の好みで決めればいいでしょうが、はたして宗教も同じ感覚で選んでいいものでしょうか?
実践しても利益のない宗教もあれば、利益どころか人生を狂わしてしまう宗教もあります。実践する宗教の選択にあたっては慎重であるべきです。
ちなみに私は、正しい宗教は仏教(法華経)であると考えます。

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宗教疑っても罰はあたるまいて

発言番号:2
名前:薄坊
51歳
2005年07月09日23時09分

あなたは宗教に何を求めますか
どの宗教を選ぶかという理由は何ですか
宗教とはどういうものでしょうか

あなたは何冊本を読みましたか、宗教人とどれほど関わりましたか。
私は、雑誌も、難しい本も読みません、テレビはほとんど見ません。毎日10数時間食事もせず、休憩もせず働く毎日です。法華経がどんなものか知りません。前述の問いに答えなくてもかまいません、どうだろうかと思っただけです


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薄坊様へ

発言番号:3
名前:ホトトギス
30歳
2005年07月26日14時54分

さっそくの書き込み、御礼申し上げます。また、ご返事が遅れて申し訳ありませんでした。

>あなたは宗教に何を求めますか

私は、宗教を通して、「自分の生命の変革」をしたいのです。例えば、ちょっとしたことですぐ臆病になり、何もする気が起きなくなる。こういう自分の悪しき生命の傾向性を変革し、自分を価値ある方向へと高めていく。正しい宗教には、こうした人間変革の力があるのです。

>どの宗教を選ぶかという理由は何ですか

たいていの新興宗教は、神や教祖におすがりして、多額のお金をお布施すれば救われると説きます。貴方もご存知と思いますが、「足裏診断」と称していい加減なことを言って信者を不安に陥れて金を騙し取り、詐欺罪で摘発された宗教団体があります。また徹底的に信者からお布施を絞り取り、集団出家をさせ、教団ぐるみで凶悪な犯罪を犯した某カルト教団もあります。こんな宗教で、人が幸せになれるわけがありません。
宗教を選ぶには、このような「宗教のための人間」を説く宗教ではなく、あくまで「人間のための宗教」を選ぶべきです。実際に一人の個人が幸せになれるのでなければ、宗教の存在価値はないからです。

>宗教とはどういうものでしょうか

正しい宗教とは、「自分自身に内在する無限の可能性を引き出す」ものです。教祖とか絶対者といった「外部のもの」に頼るのではなく、誰の内面にも秘められている、限りない知恵と生命力を開発していくものです。
そしてその引き出した「知恵や生命力」があれば、目前の課題や困難があっても、それらに立ち向かい、乗り越えていくことができるのです。あたかも山登りで、体力、脚力が弱ければ、登ること自体大変で、辛く感じられますが、体力も脚力も強ければ、周りの景色を悠々と楽しみながら登っていくことができるように。私は、それが可能になるのは、「法華経」の信仰の中にあると考えるのです。

>あなたは何冊本を読みましたか、宗教人とどれほど関わりましたか。

私は、この法華経の教えを実践する、仏教系の某団体の会員です。読んでいる本としては、この会の機関紙や、会長の著作などです。

>私は、雑誌も、難しい本も読みません、テレビはほとんど見ません。毎日10数時間食事もせず、休憩もせず働く毎日です。法華経がどんなものか知りません。前述の問いに答えなくてもかまいません、どうだろうかと思っただけです

そうですか。大変な日々ですね。仏教のある聖哲の言葉に「まず、臨終(死の問題)のことを習ってから、他の事を習いなさい」という言葉があります。貴方も、もし暇があれば、正しい宗教に触れてみてはいかがでしょうか。

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正しい宗教

発言番号:4
名前:早朝
29歳
2005年07月30日01時03分

正しいかどうかは、世のルールに則しているかどうかだと思います。
個々の「正しさ」ならばカルトの中にも、テロリストの中にもあります。

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ゆっくり続けようか

発言番号:5
名前:はくぼう
50歳
2005年07月30日06時09分

類は友を呼ぶという言葉がありますね。人は自分と同じ波動に惹かれるんですな
 自分の居る団体が最高、一番正しいという考えは、とても未熟な考えだと思いませんか、教祖、あるいは師がそう教えるなら、その団体から離れる事をすすめる。某本願寺の理事長、(動物の名前の付く人)は、親の理事長の威光の下で教師だった若い頃、弱い学生をいたぶるのが好きだった、思いっきり顔面を殴るんですな、一度に歯を何本も折ますな。女癖も悪くてね。どこかの上人様は夜な夜な遊興三昧でっせ。
 まず死について学ぶとは、この考えはおそまつだよん、

宗教法人とは困った団体だ、郵政の次は宗教法人だね

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ご返答ありがとうございます

発言番号:6
名前:ホトトギス
30歳
2005年08月04日07時10分

早朝さん、文字通り“早朝”からのご参加、ありがとうございます。
そうですね。確かに、世のルールに則することができてこそ、正しい宗教を名乗る資格があります。カルト教団の信徒やテロリスト等は、結局教祖や首謀者という人間そのものを「神」と考え、「宗教」と考えてしまった。その思想が道徳に反していようがいまいが関係なく。要するに「洗脳」です。
ですから、正しい宗教を選択するにあたっては、一人の人間を幸福にすることができ、社会に貢献できる宗教なのか否かといった観点が重要です。


次に「はくぼう」様。
宗教を実践するために団体や組織に所属することが、どうして未熟な考えなのでしょうか? 団体や組織に入ると自由がなくなり、自分を見失うということでしょうか。一人でいれば自由であり、自分を見失わないとは、必ずしも言えないと思います。
スポーツでも、芸の道でも、一人で練習したり、修行に励んでいても、実力がついたかどうかは、思うようには分からない。たくさんの人の中でもまれることによって成長があり、磨かれるものです。一人でいるのは気楽ですが、結局、自分だけの世界という殻に閉じこもってしまい、成長できないものです。
同時に、師匠(「正しい」ということを前提に)というものもまた必要です。師匠がいないということは、生き方の具体的な規範がないことを意味します。弟子を心から思い、懇切丁寧に物事を教える。時には厳しい慈愛の叱咤がある。それでも随順する。こうした師匠がいてこそ、人は向上し、成長できるのです。正しい宗教の団体には、こうした師匠が存在するのです。
堕落した僧侶の実例を示して下さいましたが、私も仏教系のある宗派の、堕落した法主を知っています。実にウリ二つですね。「だから宗教なんてものは信用できないんだよ」とおっしゃりたいのでしょう?
マルクスがキリスト教だけを見て「すべての宗教は阿片」「悩める者のため息」と断じたように、「木を見て森を見ず」で、すべての宗教を十把一絡げに「こんなものだ」と決め付けず、宗教には正邪があるということを理解してください。
死について学ぶのがおそまつとは、理解に苦しみます。他のトピックで「死後の世界観を明確に解き明かしている宗教があるのなら肯定しますが、今のところ皆無です」という書き込みをした人がいましたが、私の実践している法華経の教えでは、生死の問題がきちんと解決できるのです。それができてこそ、正しい宗教を名乗る資格があろうというものです。貴方はどういう死を望みますか? 真っ赤な夕陽が、地平線を美しく染めながら沈みつつあるような中での死がいいですか? それとも真っ暗闇の夜の、暴風雨が吹き荒れるような中での死を望みますか? どちらを選ぶかは、貴方の自由意思ですが。

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はいです

発言番号:7
名前:はくぼう
51歳
2005年08月05日22時36分

私は信仰というものは絶賛する。もちろん神仏への信仰で、お金や富名声への信仰ではありません。信仰の仕方というものは人により実にさまざまなもんだ。あるひとはスポーツで、あるひとは農作業のなかで、というように、私は全ての人の中に信仰心を観る。そう、殺人鬼の中にもです。寺院の中で読経をするだけが信仰の道ではありません。
 あなたの師は、あなたの過去や未来を見ていますか。人を導くには、それなりの悟りをもつべきでしょう。悟りとは便宜上の言葉ですが、貴方のグルにも出てきてもらったらどうですかな、一人でも多くの人を導くつもりがあったらですが。
 まだまだ貴方は死について、どうこう語るものはありません。考える段階ではありません。慈悲、愛、ということを深く観た方がいいと想うのだが。  1時は早朝ではなく深夜です、時間にもその時間の性格というものがあります

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宗教とは

発言番号:8
名前:TK
52歳
2005年08月12日20時47分

宗教とは、生きていく中で多くのことに出会います。
楽しいことや嬉しいことばかりですと、宗教は必要ありません。
しかし、悲しいことや辛いこと悲しいことなど、マイナスの出来事に出会うことも多いですね。
そのとき、そのことに対してどうのように捉えるかです。
マイナスの捉え方をしていては、辛く悲しく大変で落ち込むばかりです。
しかし、それが、神や仏や教祖などによって、上の世界や上の領域に自己を導くための試練だと考えれば、そのことが時には喜びにさえも感じられるのです。
これが宗教の力です。
これが、全ての宗教に共通することです。

従って、どれが正しい宗教なのかは人によって異なります。
ですから、世界中の無数とも言える数多くの宗教が存在し、発生し消滅しています。
みんなが正しいと思える宗教があれば、その以外の宗教は消滅しているでしょう。
どれが正しい宗教なのかは、各自が共感できるかどうかだと思います。

ちなみに、私は、どの宗教も共感できませんから、支持する宗教はありません。
なぜならば、私は、死に対する恐怖がないからです。
必要ならばいつ死んでもかまわないと思っております。

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お久しぶりです

発言番号:9
名前:ホトトギス
30歳
2005年08月13日08時52分

ですから、何を信仰の根本とすべきかが重大なのです。聖哲は仰せです。「法に依って人に依らざれ」「心の師とはなるとも心を師とせざれ」と。根本とすべきものは、移ろいやすい他人や自分の心などではなく、正しい法(私の場合は仏法)であるべきです。
「寺院の中で読経をするだけが信仰の道ではありません」。まったくその通りです。私の会では、信仰活動の他、核廃絶運動や国連への提言、その他の平和運動を推し進めていますし、芸術や教育、政治の面でも多彩な活動をしています。正しい宗教を名乗るならば、信仰の世界に閉じこもっているのではなく、社会に積極的にかかわるべきです。そうでなければ、信心をしていない人たちの共感を得ることなどできないからです。
我々の会長(師)は「この仏法をどのように実践すれば幸福になれるのか、どうすれば人々に過たずそれを教えることができるか」といった、いわば「悟り」ならば、しっかりともたれています。でなければ、大勢の人々を導くべき宗教団体の指導者など務まりません。会長は、就任以来45年になりますが、その間、国内・海外のあらゆる地域で、苦悩に沈む会員を励まし、勇気づけてきました。会員でない人にも分け隔てなく接するなど、友好的な態度を徹底的に貫かれています。
死について考えるのに、早いも遅いもありません。あっという間に人生は終わります。我が会長は仰せです。

大切なことは、「自分も必ず死ぬ」という自覚である。
死ぬのが自然の摂理である。死ななければ、人口は増え、食べ物もなくなってしまう。
問題は「どのように死んでいくか」である。
自分が、どういう「死」を迎えるか。それによって「永遠」が決まる。
この「生死」の解決にこそ、仏法の要がある。
死に方など、どうでもいい、来世も関係ない――それなら信仰は必要ないかもしれない。
しかし、真実は「生命は永遠」なのである。この「わが生命」が死後も続いていくのである。
しかも死後は、自分で自分の生命を変えられない。仏道修行ができない。
修行ができるのは生きている間だけである。だから「今世を頑張りなさい」というのである。

聖哲の言葉に「教主釈尊がこの世に出現した目的は、人の振る舞いを説くことにあったのです」とあります。我々の信仰には、「慈悲、愛」といったものはしっかりと包含されています。
「1時は早朝ではなく深夜です、時間にもその時間の性格というものがあります」。はい、厳しきご指摘、承っておきます。

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信仰と宗教

発言番号:10
名前:ねこじい
43歳
2005年08月13日13時21分

ある意味、宗教とは、団体の事であり、信仰とは、個人の事である。

個人が人生における、拠って立つ存在、それが、信仰心だと思っている。 信仰とは、信じ、祈る事だろうと。
それは、愛であり、友情であり、正義だと思う。

一方、宗教は、人に説くものであり、個人の存在を否定する部分を
たぶんに含む。

現世における、最大のビジネス、それが、宗教。

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盆休み欲しい

発言番号:11
名前:はくぼう
51歳
2005年08月14日06時41分

今仕事が終わったところです、少し疲れました。
 愛とは何でしょう。それは全てです、見えるもの見えないもの、きこえるもの聞こえないもの、未知なるもの、全てです。死とは、その慈悲の1部分です、死後は愛のひとつの世界です。だから愛をよく見なさいといったのです。慈悲を深く深く観ればすべてがあるのです、だから慈悲をさぐりなさいといったんです。
 死を見るというのは、形があるだけに見やすいですね、納得させやすいですね。死んでから仏道修行が出来ないというのは、あほな想像だな。死後というものを想像で説明しないように。特に大勢の信者に影響を及ぼす教祖は。カルマを増やすだけじゃぞ。
 しかしホトトギスさんとこの教団の目的はなんだろうね、やっぱ富と名声ですかね
もひとつ、物事に優劣の順番をつけないように、神仏に順番はないど

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前提ではなく、それが全てなのです

発言番号:12
名前:早朝
29歳
2005年08月14日19時03分

ホトトギスさんは個人の「正しさ」と、社会的な「正しさ」を混合して話してませんか?
宗教が社会的に正しいかどうかは、世のルールに則しているかどうかが全てでしょう?
個人の正しさを集約して調整したものが、世のルールですから。
ホトトギスさん自身(または属する宗教団体)の「正しさ」と合わない宗教は、それだけで正しい宗教を名乗る資格がないのですか?
自分の価値観と合わないというだけで他者の思想を否定し、批判するのは、世のルールでは間違った行為なのではないんですか?
個の正しさを言い出したらキリがないし、他人の正しさを否定・批判をすると争いが起こります。
僕の友人の牧師は、他の宗教も同じく山の頂上を目指していて、ただその道のりが違うだけだ、と言ってましたよ。
ホトトギスさんが自分の信じる価値観が一番正しいと考えるのは当然だと思いますが、それはホトトギスさんに合った道のりを進んでいるというだけであって、他の人には他の人に合った道のりがあります。

P.S 僕の名前が誤解を与えてしまったのであれば、すみません。昔使っていた名前を短くしたものです。

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Re:宗教とは

発言番号:13
名前:ホトトギス
30歳
2005年08月16日06時07分

ご参加、感謝いたします。
貴方の仰るとおり、人間の一生においては、悲しいことや辛いことなど、マイナスの出来事(我々は「宿命」と呼んでいます)に出会うことが多いですね。 そのたびに人は、何とかそれらを解決したいと苦しみもがきます。しかし、我々の実践している法華経の教え(妙法)においては、これらは悲観すべきものではなく、すべては信心の偉大さを証明するための仮の姿であり、幸福へと転換するチャンスである、と捉えます。これを宿命転換と言います。我々の信仰には、このような力が厳然とあります。
我々の会長は、次のような指導をされています。

人生において、さまざまな悩みにぶつかることもあるだろう。
どうにもならない現実に直面することもあるに違いない。
しかし、同じ状況にあっても、ある人は、生き生きと進む。ある人は、嘆き、悲しむ。
喜びというのは、心が感じるものだからだ。
この人生を、喜んで、楽しんでいければ、その人は「勝ち」である。
ゆえに、大事なのは、心を変革することだ。これが仏法である。
……
私たちの運動は、この幸福の根本の軌道を教えているのである。
信心に生き抜くならば、「生も歓喜」「死も歓喜」の人生となる。
いかなる山々も悠々と乗り越えて、楽しく、にぎやかに進んでまいりたい。

これが本当の宗教の力です。我々の会は、各自が「正しい宗教」と共感できるものです。だからこそ、我々の会は、国内において約900万世帯の会員がおり、 世界においても190カ国・地域にまで広がっているのです。貴方は、宗教に関しては虚無主義者ですか。宗教なんて、信じられないと。貴方はまだ真の正しい宗教の真髄には触れていない。理論だけでそう決め付けるのはどうかと思います。
「弱い希望しか持たない人の落ち着くところは太平楽か暴力である。強い希望を持つ人は新しい生命のあらゆる兆候を見つけて、それを大切に守り、まさに生れようとするものの誕生を助けようと、いつでも準備をととのえている」(E・フロム『希望の革命』)
「希望」こそ、人生や社会における最大の活力です。貴方も、いつ死んでもいい、などと投げやりなことを仰らず、何かに希望を見出し、貴方にもあるであろう、この世で果たすべき使命というものを自覚されんことを望みます。

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宗教人は、質問を嫌う、貧しい知識を振りかざす

発言番号:14
名前:はくぼう
51歳
2005年08月21日21時28分

この教団の目的は自分の心を満足させるためのものでしょうか。人生を喜ぶ人は「勝ちだ」、というのは優越感を満足させる為ですか。この会長さん経営者であり、政治家であり、やはり実業家ですね。話に光が無い。神を知らぬ者がなぜ神への道を説く、本当の喜びを知らないものがなぜ喜びを説く、お金儲けの為ですか
 釈迦は森羅万象のすべてを見つめその根源と一体化していたのですが、その釈迦は宗教を説いたのではない。という事で宗教は道を少し本道からそらしている。 死は喜びならば何故喜びなのかを説明した方がいい
 わたしは誰かいい人が出てきてくれたなら、ここから去りたいと思っているのですが、全国900万人の信者のうち何人か出てきてくれませんかね

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やはり出てこんね

発言番号:15
名前:はくぼう
51歳
2005年08月28日20時26分

人生の目的とは人を本来の神の子として目覚めさせ、その純粋な愛をこの世界で表現する事にある。だが宗教は、人を、あらゆるものを神と認めようとはしない。900万世帯の迷い人を作っているだけだ。この会長の言葉に真実は少ない。
 あちらこちらに気功を売り物にした教団もある、気功というものは、太古の昔からあり、教団をつくるほどのものではない。アマチュアの気功愛好家のほうがずっとレベルが高く純粋な気を送れる。気とは意識を持ち自由に変化する神のエネルギ−だから。たとえば、格闘家がこの気を少し出せばどんな相手もさわる事は出来ない、邪心を持って気に向かうならその邪心は出した人の所へ変化した気とともに帰っていく。
 宗教の目的は、それぞれの個性に応じて覚醒へと導くものであってもらいたい
 

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提案者さんへ

発言番号:16
名前:D.A
44歳
2005年08月29日21時53分

難しいことは分かりませんが、あまり「正しい」とか「正しくない」とかいうことにこだわりすぎない方がいいと思うよ。こだわり過ぎると争いのもとになっちゃうからね。それこそ本末転倒になってしまうから。(^^)

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まとめて返答

発言番号:17
名前:ツグミ(旧名「ホトトギス」)
30歳
2005年09月02日21時16分

なぜなら、夏の渡り鳥である「ホトトギス」では、これからの季節にふさわしくありませんからね。


新たに書き込みをしてくださった方、御礼申し上げます。


はくぼう様、ねこじい様への返答

はくぼう様、少しはお休みになられますように(掲示板ではなく、仕事の方をね)。
貴方達は「宗教」と言えば「金儲け・売名」と、短絡的思考がお好きのようですね。そういうのを「パブロフの犬」的思考というのです。「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という言葉がありますが、宗教に関してそのような考えしか持てないのは、貴方達の素質がそういうものに過ぎないということでしょうか。あまり宗教というものをバカにすべきではないと思いますが、いかがでしょうか?


早朝様、D.A様への返答

>宗教が社会的に正しいかどうかは、世のルールに則しているかどうかが全てでしょう?
「世のルールに則している」ことが正しい宗教の要件であることには異論の余地がありませんが、それだけでは必要条件は満たしても、必要十分条件は満たしません。
そもそも人は何のために宗教を実践するのでしょうか? それは幸せになりたいからでしょう? 単なる気休めでは意味がありません。気休めでいいのなら、そこらの社交クラブか、サークルに所属すればいいのです。
正しい宗教かどうかを判断する基準として、「文証」、「理証」、「現証」の三証という考えがあります。
文証とは、ある教義・主張が、経文等の文献上の裏付けをもっているかどうかという基準。
理証とは、その教義が道理に適っているかどうか、理性の上から普遍妥当性があるかどうかという基準。
現証とは、教えを実践した場合、現実の上でその通りの結果が現れるかどうかという基準。つまり、その宗教を実践して幸せになれるかどうかです。
この中で、最も重要なのは「現証」です。この三つの基準が揃ってこそ、その宗教は正しいと言えるのです。
だから私は、この三つが揃わない宗教は正しくないと主張しているのです。



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台風のおかげで書けた

発言番号:18
名前:はくぼう
51歳
2005年09月06日22時49分

私に仕事を休めとは、余計なお節介と言うもんさ。他人のプライバシーについてとやかく言えるほどのものはなかろうに。あなたの所属する金持ち教団が家族を養ってくれるのかね。
 全く余計なおせっかいと言う言葉は、私の地方では、「いらん、せんばら」といいます。せんばらとは、せんさくの腹ということでしょうか。この言葉、寛平ちゃんに使って欲しいね。「アヘーいらんせんばらじゃぁー」とね
 あなたは、宗教について初歩的な勘違いをしている。安っぽい宗教雑誌から切り取ってきたような三証というのはいただけない。全ての信者は当然そう思っている。
 イスラムの社会では、小学校で「ブタを食べてはいけない、人間は昔ぶただった」と教えるんだよ。笑えない。あなたたちも同じようなことを考えている。

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ほう、そうですか

発言番号:19
名前:ツグミ
30歳
2005年09月08日20時55分

そうすっと、ヒンドゥーの社会では、小学校で「牛を食べてはいけない、人間は昔牛だった」と教え、ベジタリアンの社会では「肉を食べてはいけない、人間は昔肉だった」と教えるということになりますか。確かに笑えませんね。(ちなみに、ブタを食べてはいけないという教えは、ユダヤ教にもあります)
それはともかく、私たちの会が、なぜこれと同じことを考えているということになるのか、意味がわかりません。感情的な論難はお慎みください。貴方にとって、宗教とは一体何ですか? 生活の上に、幸福になる結果(実証)が実際に現れるのでなければ、その宗教は、宗教たる意味を成さないと思いますが、どうですか?

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難しいですね^^

発言番号:20
名前:KR
45歳
2005年09月09日01時14分

 本来の宗教の原型は自然崇拝(未知なる物への恐怖と敬意)と考えますね。そして人間が社会の原型である家族、そして集落などを形成していく中で、その自然崇拝は、人間社会の生活を行なうための方向性・またルールのように成熟して、成熟過程おいて進化した人間の様様な価値観・思想が加味されてきたと考えます。
 宗教自体、その本質を捉えようとしたら、最終的には「調和」じゃないですか?何をもって「調和」とするのかは、各々宗教によってその答えは違うようですね。人間を主体とした調和・自然を主体とした調和・善悪を主体とした調和等など。
 しかし、「調和」とは「無(プラスもマイナスも無い)」じゃないですか?宗教とは玉葱のようなもので、剥いていけば(学べば)核心に突き当たると考えてるようですが・・そんなものは無いと思います。剥いていけば・・最後は何も無い。般若心経の世界かも知れませんね。
 釈迦は色んな教えを唱えておりましたが・・結局、人間の煩悩は限りが無い事を悟り、「無」の境地がそれを救うと考えてんじゃないですかね?

 仮に神が存在してるとしたら(偶像的な神ではなく)、それはこの宇宙を創造した方程式でしょうね。それどのようなものなのは、私にはわかりませんが、人間の身体もその方程式によって作られているわけですし、言い換えれば
我々の中に宇宙も存在し、神も居るんじゃないですか?
 
議題提案者の方は●●学会の方のようですけど・・・^^

>人生において、さまざまな悩みにぶつかることもあるだろう。
どうにもならない現実に直面することもあるに違いない。
しかし、同じ状況にあっても、ある人は、生き生きと進む。ある人は、嘆き、悲しむ。喜びというのは、心が感じるものだからだ。
この人生を、喜んで、楽しんでいければ、その人は「勝ち」である。
ゆえに、大事なのは、心を変革することだ。これが仏法である。

●これが仏法と言うより人間の欲望をコントロールするための倫理観だと思いますね。それも人間社会の中において如何に人間として人生を生きるかと言う。

宗教とは最終的には個人的な信仰であるわけだし、集団化して同じ方向性に走り、それを宣伝・勧誘する事は宗教の本質から外れてると個人的には思いますね。ただそう言う形でも、信じる人が救われたと思えるのであれば、それはそれでいいと思いますね。宗教もいい形で人間生活と社会の中で活用できれば良い事であり、それを集団化して何かを行なうと言う、覇権的な行動にならなければOKじゃないですか?(まっそう言う覇権主義宗教団体は多いですけどね)
ちなみ私は無宗教です。



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はいはいはい。運動会の応援でこんなのやってました

発言番号:21
名前:掃く坊
51歳
2005年09月12日22時49分

キリストや釈迦はどこかの教団に居たのですか。彼らは神の愛を伝え、仏の慈悲を伝え、その大いなるものへの道を示したのです。神は無だとは言わない。全てだといったはずです。
私達の居る[物]の世界は太陽系が何百億と集まり銀河を造り、銀河が何百億あつまり一つの宇宙を作り、その宇宙が何百億あつまり大宇宙を造る。そして精密な世界は粗雑な世界よりさらに広く、さらに精密な世界はさらに広く、さらに、さあらに広くなって行き、大本の神、は無限となる。これは人間の様でもある。
 で、法華経の話はどうなったのだろう、貴方が法華経を理解しているとは思えないのだが。
 あるひとりの老人が居る。かれは雨の日も、雪の日も、毎日、何十年間、2時間かかって仕事場へ歩いて通う、帰りも2時間、あるく、彼は車や、バイクという楽な方法を選ばなかった。この薄汚れた老人は貴方より先を行く案内人だ。
 賢者達は全てを持っている。だから何も持つ必要がない、これは貴方達の豊かさとはレベルが違う。


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いくつか質問がありますが・・提案者さんに^^

発言番号:22
名前:KR
45歳
2005年09月13日03時49分

貴殿の提唱議題と発言の中で「おや?」と思う箇所があり、小生未熟者ゆえ
ご説明願いたく、下記の如く羅列いたしました。(多少のコメントを付け加え)・・宜しければお答えください。

>実践しても利益のない宗教もあれば、利益どころか人生を狂わしてしまう宗教もあります。
●宗教とは、利益を求めて行なうものなのでしょうか?利益を求めると言う行為そのものが、煩悩ではないですか?

>正しい宗教に触れてみてはいかがでしょうか。
●正しい宗教(この議題の核心ですが)とは貴方が所属する会の価値観での判断でしょうか?それともこの世の宗教を比較検討してこれが正しいと言う結論なのでしょうか?
 普遍的な正当性は自然の摂理(宇宙の法則)のみ・・と考えてます。その普遍的な正当性を反映した宗教と言う意味ですか?もしそうであるならば、その宗教は自然の中の全ての生態系や現象も千差万別等無く、その中に組み入れているのではないでしょうか?現代社会に生きるという事は、その自然の摂理に反しているという事なんですが?・・・この点などはどう考えられますか?

それでは・・・お考えをお聞かせください。

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ツグミさんへ

発言番号:23
名前:早朝
29歳
2005年09月13日14時10分

世のルールに則していることが、正しさの十分条件を満たさないのは、「社会的な正しさ」ではなくて「個人的な正しさ」においてでしょう?
社会においては、世のルールに則しているかどうかが必要にして十分な条件です。
あなたが個人的な正しさの判断基準をどこに置くかは自由です。
でも他人がその基準をどこに置くかも自由です。
繰り返しになりますが、個人的な正しさを言い出したらキリがないし、他人の正しさを否定すると争いが起こります。
その争いを起こさないためにあるのが世のルールであり、社会的な正しさでしょう?
世のルールに則しているならば、あとは単に「合う・合わない」「好き・嫌い」の問題です。
現世利益の有無もそうで、個人的な正しさの判断基準にはなっても、社会的には合う・合わない、好き・嫌いの問題でしかなく、正しさとは関係ありません。

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興味深く読んでいます

発言番号:24
名前:じゅん
30歳
2005年09月14日08時55分

皆さん、はじめまして。じゅんと申します。

宗教に関する皆さんの意見を、興味深く読ませてもらいまいた。
私は少なからず、宗教に関わっている人間です。

多少気になった点がありましたので、しゃしゃり出てきた次第です。

まず、私の宗教の捉え方ですが、「宗教とは、狂信である」という
呉智英の見解に影響されています。社会的にどうこう、というやり取りがありましたが、極論すれば、宗教にとって社会的に正しいがどうかは問題ではないと思うのです。
さらに、誤解を恐れずに言うならば、某真理教も宗教の1形態として認めざるを得ない部分が確かにあると思うのです。

例えば、今の中東のイスラム教や以前のキリスト教や一部地域の仏教などは、自分の信仰を守るためには人殺しも行います。

これは異常なことではなく、宗教の中ではむしろ当然のことと思うのです。このような怖さを宗教は内包しているのだ、という認識がないとタガがはずれてしまうのではないでしょうか。

法華経に関してですが、

ツグミさんが、なぜ法華経が一番だ、と思っているのかがいまいち見えてきません。
法華経は、ある意味非常に攻撃的な経典です。
個人の信仰として大事にされている分にはまだいいのですが、それを一般論にまで敷衍してしまうと、危険な要素がわんさとあります。


なぜ法華経なのか?よろしければその理由を教えてください。


初投稿にも関わらず長々と失礼しました。

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KR様へ

発言番号:25
名前:ツグミ
30歳
2005年09月16日15時32分

新規ご参加、ありがとうございます。

>小生未熟者ゆえ
そんなご謙遜を。貴兄は社会や政治のトピックで鋭い論点を提供されているではありませんか。私はそこまでの知識はありません。

貴方の仰る通り、いかにも私は“○○学会”の一員です。会長というのはご存知の通り、例のお方です(厳密には「名誉会長」なのですが、当会の実質的な最高指導者なので、「会長」とさせていただいています)。聖哲というのは、当会が根本とする宗祖(日蓮聖人)のことです。別に隠し立てすることもないのですが、ここは“○○学会”の宣伝の場でもなければ、ましてや勧誘の場でもありませんから。あくまでも当会の教義について討論したいとういうことで、会名は伏せさせていただいています。

貴方は宗教について、貴方なりの意見をお述べ下さいましたが、
>仮に神が存在してるとしたら(偶像的な神ではなく)、それはこの宇宙を創造した方程式でしょうね。(中略)人間の身体もその方程式によって作られているわけですし、言い換えれば我々の中に宇宙も存在し、神も居るんじゃないですか?
のくだりは、まさしく当会の教義に通じるものです(「神」というのはちょっと違いますが……)。

さて、貴方は私に質問を下さいました。私なりに回答を試みたいと思います。

@宗教とは、利益を求めて行なうものなのでしょうか?利益を求めると言う行為そのものが、煩悩ではないですか?

利益といえば、僧侶や教祖に授けてもらうという他力本願的な、マイナスイメージがあるのは確かですね。しかし私がここで「実践しても利益」云々と言ったのは、発言番号17でも述べたように、宗教を実践した場合、「現証」が現れるかどうか、平たく言えば「効果」があるかどうか、ということです。そういう意味で私は「利益」と言ったのです。これも発言番号17の繰り返しになりますが、宗教を実践して、その人に人間性や生活において何の向上もなければ、つまり「利益」がなければ、全然意味がないと思いますが。人間は誰だって、苦しみや困難に直面した時、何とか解決したいと切実な思いに駆られます。宗教にそれを託したいという思いが、必ずしも煩悩とは言えないのではないですか?。

A正しい宗教(この議題の核心ですが)とは貴方が所属する会の価値観での判断でしょうか?それともこの世の宗教を比較検討してこれが正しいと言う結論なのでしょうか? ……

我々の会の教義が正しいというのは、我々の会の一方的価値観ではなく、まさに「この世の宗教を比較検討してこれが正しいと言う」結論を出したということです。
仏法において、宗教を比較検討して、正しい教えを判別する法理に「五重の相対」というのがあります。すなわち、内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、種脱相対の五つの相対(比較)です。これは、一切の思想・宗教を比較検討して、その浅深、高低を五段階に判定していくものです。簡単に言えば、以下の通りです。

内外相対……人間の幸・不幸の原因を自分の中に求める仏法(内道)と、神など自分の外に求める仏法以外のすべての教え(外道)を比較して、内道たる仏法が勝ることを示したもの。
大小相対……仏法を、自分だけ悟りを得られればいいとする小乗教と、自分も他の人も一緒に幸せになっていくとする大乗教とに分け、これらを比較して、大乗教が勝ることを示したもの。
権実相対……大乗教を、仏の真実の悟りの法を明かした実大乗教(法華経)と、真実を明かすための準備、方便として説かれた権大乗教とに分け、これらを比較して、権大乗教よりも実大乗教が勝ることを示したもの。
本迹相対……法華経二十八品を前半十四品の迹門と後半十四品の本門に立て分け、両者を比較して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したもの。
種脱相対……釈尊(釈迦)の説いた本門と日蓮聖人が説いた文底独一本門を比較し、日蓮聖人の文底独一本門が勝ることを示したもの。釈尊の法華経本門を脱益の仏法、日蓮聖人の文底独一本門を下種益の仏法と言います。
末法今時においては、下種益の仏法でなければ利益(功徳)はありません。だから下種益の仏法を実践する我々の会の教義は正しいと主張するのです。

>普遍的な正当性は自然の摂理(宇宙の法則)のみ・・と考えてます。その普遍的な正当性を反映した宗教と言う意味ですか?……

まさにその通りです。仏法では宇宙を生命体と説きます。我々人間もまた「小宇宙」であると説きます。その宇宙を動かす根本の力、それを南無妙法蓮華経(妙法)と言います。日蓮聖人によってしたためられた当会の本尊は、大宇宙の力を秘めております。さらに「小宇宙」たる我々の生命のなかにもこの本尊があると説きます。南無妙法蓮華経とこの本尊に向かって唱えれば、大宇宙たる本尊と、小宇宙たる我々の本尊が感応し、我々は大宇宙の力を得ることができます。それにより知恵や生命力を引き出し、生活上のさまざまな困難を克服していけるのです。以上が当会の教義の根本です。

>現代社会に生きるという事は、その自然の摂理に反しているという事なんですか?・・・

そんなことはありません。日蓮聖人が御文の中でよく引用される天台大師の言葉に「一切世間の治生産業(ちせいさんぎょう)は皆実相(みなじっそう)と相違背(あいいはい)せず」というのがあります。「一切世間の治生産業」とは、社会のあらゆる営みのことです。「実相」とは妙法のことです。つまり、私たちにとって、現実生活のなかにこそ、仏法はあるのだということを示しているのです。

やや難しい点もあると思いますが、以上をもって回答とします。

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掃く坊様へ

発言番号:26
名前:ツグミ
30歳
2005年09月17日06時22分

>で、法華経の話はどうなったのだろう、貴方が法華経を理解しているとは思えないのだが。

ごめんなさい。貴方の“とんちんかん”な“とんち”(単なる駄じゃれです。お気を悪くしませんように)に引きずられて、ついつい本題を忘れてしまいました。
貴方は、私が「法華経を理解していない」と馬鹿にして下さいますが、私だって、議題を提案した以上、それなりの知識はあります。
とりあえず申し上げたいのは、(核心に入ってきますが)釈迦が説いた法華経そのものは、現代においては意味がなく、いわば法華経から抽出された「南無妙法蓮華経」でなければ利益(功徳)はない、ということです。釈迦の法華経は、建物を建てる時に使う「足場」、南無妙法蓮華経の題目は、その「建物」に譬えられます。建物が建てば、足場はもはや不要ですね。

>あるひとりの老人が居る。かれは雨の日も、雪の日も、毎日、何十年間、2時間かかって仕事場へ歩いて通う、帰りも2時間、あるく、彼は車や、バイクという楽な方法を選ばなかった。この薄汚れた老人は貴方より先を行く案内人だ。賢者達は全てを持っている。だから何も持つ必要がない、これは貴方達の豊かさとはレベルが違う

我々の会の会員にも、涙ぐましい蘇生のドラマがあります。貴方はそれを知らないだけです。

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「宗教とは何か?」は考えないのですか

発言番号:27
名前:ツグミ
30歳
2005年09月19日06時28分

早朝様へ

そうですか。では貴方は、社会に迷惑をかけさえしなければ、実践して利益(功徳)がなくても、その宗教は社会的に正しい、何の問題もないと仰りたいのですね。率直に言ってこの考えは、一体何のために宗教は存在するのか、といった視点が欠落しています。「宗教とは、何か?」という思考の放棄をしていると言えます。実践しても功徳がない宗教など、宗教の名に値せず、社会的にも有害であり、正しくないと私は思うのですが。
日本国憲法第20条には、信教の自由が規定されていますね。この「信教の自由」には、「選択の自由」「正邪論争の自由」「布教の自由」も含むのです。憲法という立派な社会的ルールに則って、“自分の宗教は正しい”と主張することが、果たして世のルールから逸脱しているのでしょうか? どう考えられますか?

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なぜ、法華経は攻撃的な経典なのでしょうか?

発言番号:28
名前:ツグミ
30歳
2005年09月19日06時44分

じゅん様へ

ご参加ありがとうございます。

貴方もまた、「宗教とはこんなもの」という、十把一絡げ論者ですか。これもまた「本当の正しい宗教とは何ぞや」という真理の追究が欠落した考えです。
本当の宗教とは、異なる民族・文化と摩擦を生ずることなく多様性を尊重し、社会的に開かれ、なおかつ一人の個人を現実に幸福にできるものです。このような哲学がないものは、外観は宗教であっても宗教とは呼べない。単なるサークルであり、烏合の衆であり、あるいはカルトです。確かに、こういう集いであるなら、首謀者の胸先三寸・恣意で、いくらでも恐ろしい集団になるでしょう。「人間のための宗教」であることを忘れ去っているからです。

法華経がなぜ一番優れているのかと言うと、法華経が釈尊(釈迦)の出世の本懐(この世に出現した根本の目的)の教えだからです。釈尊はその在世、様々な教えを説きましたが、これらの教え(爾前経)は、簡単に言えば、生命の部分観しか説いていないのに対して、法華経は生命の全体観を説いているからです。また、「種脱相対……釈尊(釈迦)の説いた本門と日蓮聖人が説いた文底独一本門を比較し、日蓮聖人の文底独一本門が勝ることを示したもの。釈尊の法華経本門を脱益の仏法、日蓮聖人の文底独一本門を下種益の仏法と言います。末法今時においては、下種益の仏法でなければ利益(功徳)はありません」と、発言番号25で述べたように、法華経はこの下種益の仏法たる「南無妙法蓮華経」の母体だからです。この「南無妙法蓮華経」を「末法の法華経」と言います。

>法華経は、ある意味非常に攻撃的な経典です。個人の信仰として大事にされている分にはまだいいのですが、それを一般論にまで敷衍してしまうと、危険な要素がわんさとあります。

その理由はどういうものでしょうか? もしよければ、ご説明願います。

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お返事ありがとうございます。

発言番号:29
名前:じゅん
30歳
2005年09月26日09時44分

遅くなってしまってすみません。

早速本題に。
「法華経がなぜ一番優れているのかと言うと、」
と、いろいろご説明いただきましたが、やはり、「なぜ法華経なのか?」が良く分かりません。
「釈迦の出世の本懐」とは何なのですか?
「生命の部分観」とは?
「生命の全体観」とは?
その後、難解な語の羅列になってしまい、抽象的な見解になっているように感じました。
そもそも、「法華経」が最も優れた経典である、と定義したのは、中国天台宗の祖、智(ちぎ)の説によっています。
なぜ、智が「法華経」を最高位に位置づけたのか。それには二つの理由があります。
@経典に伝来と翻訳の時期の問題
 本来、経典は年代を追って、ある時には一方が他方を批判しながら成立していった歴史があります。その順番にしたがって読んでいけば、仏教がそのような思想的変遷を辿っていくことができます。
 しかし、中国においては、多くの経典が、順不同で紹介されていったために、互いの経典、つまり釈迦の言説に矛盾が生じてしまったのです。これを解消するために、どれが「本当の」釈迦の言葉なのかを取捨選択する必要性が生まれてしまったのです。
 事実、天台宗以外の宗派でも同様の研究が行われました。当時の中国の「流行」だったんです。これが、第一の理由。
A智の学問的研究の成果
 そこで智は、自分の宗派の教えに「より近い」経典を最高位につけることで、「正当化」しようとしたんです。これが第二の理由です。
つまり、「法華経」が最高になるのは、中国においてであって、それまでは多くの経典の中の一つだった、ということができます。

次に、「法華経」が攻撃的な理由ですが、
それは、失礼ながらツグミさんのこれまでのやり取りが証明しています。
タイトルの「本当に正しい宗教とは」自体が攻撃的なのです。
「宗教とは」だけでもいいはずなのに、なぜわざわざ「本当に」「正しい」という言葉をつける必要があるのでしょうか。ここには「本当は正しくない宗教」が前提とされているからです。つまり、「本当に正しい宗教」で「本当は正しくない宗教」を攻撃しようとしているのが(意識的にか無意識的にかは分かりませんが)ツグミさんの狙いとも読めるのです。
さらに、「法華経」の中には
「法華経のことを理解できない人間は、救われない人間だ」
「法華経を広める者が、たとえ迫害に遭おうとも恐れることはない」
「法華経を信じていれば、幸せになれる」
等々の言葉がよく見られます。
ここには、攻撃性とルサンチマン的な発想があります。
これは、これまでのツグミさんの言説と一致するものです。
「法華経を実践」しているのですから、当然といえば当然なのですが。

最後に、
「仏教は近年では、社会活動に貴方もまた、「宗教とはこんなもの」という、十把一絡げ論者ですか。これもまた「本当の正しい宗教とは何ぞや」という真理の追究が欠落した考えです。 」
とのご指摘を受けました。
宗教に対して疑問を持ちながら、それでも宗教を考えていこうとする者と、確固たる信仰を持ちながら宗教を考えていこうとする者とは、単純に視点の違いであって、どちらも真理の追究を志していると私は考えています。このような言い方もまた、ツグミさんの実践=「法華経」の攻撃性の一端ではないでしょうか。


長々と失礼いたしました。



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訂正です

発言番号:30
名前:じゅん
30歳
2005年09月26日09時47分

最後の引用部分がごちゃごちゃになってしまいました。
下記のように訂正いたします。

最後に、
「貴方もまた、「宗教とはこんなもの」という、十把一絡げ論者ですか。これもまた「本当の正しい宗教とは何ぞや」という真理の追究が欠落した考えです。 」


ツグミさん、大変失礼いたしました。

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ほーほけっきょうきょう

発言番号:31
名前:はくぼう
51歳
2005年09月30日23時11分

私はやさしく、教団といいましたが、あそこの門徒会は特に外国では宗教団体とは見られていません。国内では忌み嫌われています。何故でしょうかね。純粋培養の人には分からないでしょう。
 ご神体とは何ぞや
妙ホウレんげっ今日、私の機械ではこんな言葉は出てこん。妙、法、連ゲッ経、辞書に無い言葉が含まれています。。このお経は風が吹けば飛んでいく、絶えず修理をしなければいけない家みたいなものか。私は、神の声を聞け、仏の光を見よ、慈悲の世界をみよ、いつも神と居よ。そういうものかと思っていたんだったんだ。説明してくれないのはもったいぶっているのか。わたしゃウグイスに聞いたんだ実際にホウホケキョというこえのなかに慈悲の声が聞こえたんだ、私の問いかけに直ぐにウグイスが目の前に飛んできてね。
 小乗と大乗は同じものだじ、すべては関わり合っているからね、一人だけなんてありえないことさ。誰かの気ずきは、他の人からの光を受け取ったからさ

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多様性

発言番号:32
名前:早朝
29歳
2005年10月01日12時27分

世のルールが法だけではないのはツグミさん自身もご存知でしょう?
当然、マナーや慣習などの不文律も含みます。
僕は、ツグミさんが「自分の宗教は正しい」と述べることに、意義を唱えたことはありません。
しかし、あなたは他の宗教や考え方を「社会的に間違っている」と述べています。
そのような自分と価値観が合わないというだけで、他者の価値観を否定する発言に、僕は不快感を覚えているのです。
(おそらくあなたの発言に反発されている他の方々も)
僕も、僕の価値観をもって「宗教とは何か」を考えています。
ツグミさんと同じ考えを持てなければ「思考の放棄」になりますか?
日本で宗教が眉をひそめられる存在なのは、上述したような自分の属する宗教の価値観しか認めない閉鎖性だと思いますよ。
ツグミさんは他の宗教との違いを強調しながら、結果的にそれらの宗教と同じ行為をしている訳です。
「異なる文化の多様性」は、その宗教と同じ宗教観を持つ場合にしか尊重されませんか?



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お答えします

発言番号:33
名前:ツグミ
30歳
2005年10月04日13時39分

じゅん様

私のほうも、ご返事が遅れましたこと、お詫びします。

いろいろと疑問がおありのようですね。お答えしたいと思います。

>「釈迦の出世の本懐」とは何なのですか?
説明したはずですが。「この世に出現した根本の目的」であると。つまり、法華経を説くためにこの世に出現した、ということです。

>「生命の部分観」とは?
>「生命の全体観」とは?

法華経では、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十種類の生命が、私たちの生命にもそなわっていると説きます。これらを「十界」といいます。たとえば、今は地獄(絶えず苦しみを感じる、最低の境涯)の生命の人にも、最高の境涯である仏の生命が存在します。残りの餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の生命も同時に。逆に、仏の生命の人にも、地獄の生命ならびに他のすべての生命を含むのです。地獄の生命の人も、縁に触れて餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の生命が現れ、仏の生命の人も、縁に触れて地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の命が現れるのです。このように十界の各々の生命に十界が具していることを「十界互具」といいます。ゆえに法華経は「生命の全体観」を説いた教えなのです。
これに対し、法華経以外の釈迦の教えでは、地獄の生命の人に存在するのはあくまで地獄の生命のみで、仏の命など存在しないとします。同じく、餓鬼なら餓鬼の、人なら人の命しか存在しないと説くのです。つまり、各生命を個別に説き、全体的に説いていないのです。ゆえに法華経以外の教えは、「生命の部分観」しか説いていないのです。

「経典に伝来と翻訳の時期の問題」「智の学問的研究の成果 」について。

> 中国においては、多くの経典が、順不同で紹介されていったために、互いの経典、つまり釈迦の言説に矛盾が生じてしまったのです。これを解消するために、どれが「本当の」釈迦の言葉なのかを取捨選択する必要性が生まれてしまったのです。
 事実、天台宗以外の宗派でも同様の研究が行われました。当時の中国の「流行」だったんです。

天台大師(智)在世当時の中国仏教界には、南三七北といい、十の宗派がありました。しかし釈迦の説いた一切経の位置づけについては、華厳経が第一だとか涅槃経が最高であるといって、法華経こそ釈迦の最第一の教えであるという点に背くことでは同じだったのです。そこで、天台大師は五時八教という教判(教相判釈)を立てて、一切経の中で法華経が最第一の教えであることを明らかにしました。
ここでは詳しく述べませんが、「五時」というのは、釈尊の一代経を経典の内容から説法の順序を判別して五期に分けたもの。「八教」というのは、経教をその内容と説き方の二つの側面からそれぞれ四種に分けたものです。

> つまり、「法華経」が最高になるのは、中国においてであって、それまでは多くの経典の中の一つだった、ということができます。

そうでしょうか。「法華経」そのものに、「法華経は最第一」という記述がありますが。つまり、釈迦自身が「法華経第一」と述べたということになります。
すなわち、法華経法師品第10に「我が所説の経典、無量千万億にして、已(すで)に説き、今説き、当(まさ)に説かん、而(しか)も其の中に於いて、此の法華経、最も為(こ)れ難信難解なり」「薬王今汝に告ぐ 我が所説の諸経 而も此の経の中に於いて 法華経最も第一なり」とあります。また安楽行品第14には「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於いて、最も其の上(かみ)に在り」とあります。釈迦が説いた一切経の中で、法華経は最も難信難解なりと、最高の教えであることを明かしたのです。

>次に、「法華経」が攻撃的な理由ですが、
それは、失礼ながらツグミさんのこれまでのやり取りが証明しています。
タイトルの「本当に正しい宗教とは」自体が攻撃的なのです。
「宗教とは」だけでもいいはずなのに、なぜわざわざ「本当に」「正しい」という言葉をつける必要があるのでしょうか。ここには「本当は正しくない宗教」が前提とされているからです。つまり、「本当に正しい宗教」で「本当は正しくない宗教」を攻撃しようとしているのが(意識的にか無意識的にかは分かりませんが)ツグミさんの狙いとも読めるのです。

私は別に「『本当は正しくない宗教』を攻撃しよう」というつもりはありません。「攻撃」ではなく、「取捨選択」しようというに過ぎません。日蓮聖人のお言葉に「仏法と申すは道理なり」とあります。数ある宗教の中には、例を挙げれば「医者に行かなくても、教祖が祈れば治る」とか「土に手をかざしただけで畑は肥沃になり肥料もいらない」などと非科学的なことを言うのがあります。こんな宗教が道理にかなっていると言えますか? 我々の会では、そんな「指導」は一切しませんよ。病気になれば、医者に行き、治療を受けて、そのうえでその治療が最大限に発揮されるように祈りなさい。よい作物を作りたければ、畑に肥料をまいたり、いろいろ手をかけて立派な作物が育つよう努力をしたうえで、よい作物ができますようにと祈りなさい、そういう指導をします。我が会の会長も「『信心しているから“何とかなる”』というのは、信心の堕落である。信心しているからこそ、仕事のうえでも生活のうえでも、創意工夫をして人の何倍も努力すべきである。そこに大きな功徳が現れるのである」と事あるごとに指導されています。
我々の宗教は道理にかなっているから正しい、と主張しているのです。

>さらに、「法華経」の中には
「法華経のことを理解できない人間は、救われない人間だ」
「法華経を広める者が、たとえ迫害に遭おうとも恐れることはない」
「法華経を信じていれば、幸せになれる」
等々の言葉がよく見られます。
ここには、攻撃性とルサンチマン的な発想があります。
これは、これまでのツグミさんの言説と一致するものです。
「法華経を実践」しているのですから、当然といえば当然なのですが。

貴方が挙げた法華経の言葉というのは、「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば 其の人命終つて阿鼻獄に入らん」「此の経は則ち為閻浮提の人の病の良薬なり若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即消滅して不老不死ならん」「現世は安穏にして後生には善処ならん」「諸の無智の人悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし」「我身命を愛せず但無上道を惜む」といったところでしょうか。
攻撃的というのではなく、「法華経実践の功徳は非常に大きいけれども、誹謗すれば罰も大きい」と、法華経の功徳の大きさを強調しているのだと思いますよ。法華経の寿量品に「毎に自ら是の念を作す何を以てか衆生をして無上道に入ることを得・速かに仏身を成就することを得せしめん」とあります。つまり「私(=釈迦)は常に次のような念(おも)いでいっぱいである。『どのようにすれば衆生を、このうえない仏道に導き入れ、すみやかに仏身を成就させることができ得るであろうか』と」ということ

です。「このうえない仏道」とは法華経、「仏身を成就」とは成仏のことです。この文からもわかるように、法華経は衆生に対する仏の慈悲を説いたものであり、攻撃的というのは、あまりにも的を外れた論難だと言わざるを得ません。

>宗教に対して疑問を持ちながら、それでも宗教を考えていこうとする者と、確固たる信仰を持ちながら宗教を考えていこうとする者とは、単純に視点の違いであって、どちらも真理の追究を志していると私は考えています。このような言い方もまた、ツグミさんの実践=「法華経」の攻撃性の一端ではないでしょうか。

そうですか。貴方のそのような価値観を私は非難するつもりはありません。ですが、たとえば、人がある場所に行こうとしています。しかしその人は目的地とは全く正反対の道を進んでいる。「その道は間違っていますよ」と指摘することは親切な行為であって、攻撃的な行為ではないでしょう。「攻撃的」というのは、他人を害してやろう、苦しめてやろうという悪意を伴うものです。私はそんな悪意を込めて議案を提案したわけではないですよ。お門違いの非難であるというほかありません。

以上をもって回答とします。大変長くなって申し訳ありません。

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お返事ありがとうございます

発言番号:34
名前:じゅん
30歳
2005年10月05日09時33分

 丁寧なご回答、ありがとうございます。
 ツグミさんが、『法華経』をどのように捉えているのか分かってきました。

 私も『法華経』は優れた経典の一つであると考えています。十界互具(たしかこの語は天台から見た『法華経』観で、『法華経』自体では説かれていなかったと記憶しているのですが。該当箇所があったら教えてください)などは、それまで消化しきれていなかった輪廻を分かり易いものにしたように思います。
 しかし、やはり時代にそぐわない部分や日本人の素養に合わない部分も多いので、反省的かつ批判的に見ていくことも必要ではないかと思うのです。
たとえば、『法華経』の中には、「前世」の罪が強調されている部分もあります。
病気になるのも、卑しい身分に生まれるのも、『法華経』を信じていないから、と説明されています。
果たしてこのように説明されていることが、現代に即応しているのでしょうか。
次に、あるテキストが正しいことを証明するのに、そのテキストを論拠とするのは、説得力に欠けるのではないでしょうか。
>「法華経」そのものに、「法華経は最第一」という記述がありますが。つまり、釈迦自身が「法華経第一」と述べ>たということになります。
>説明したはずですが。「この世に出現した根本の目的」であると。つまり、法華経を説くためにこの世に出現した、>ということです。
と言われましたが、これは残念ながら説明になっていないと言わざるを得ません。
というのも、たとえば「キリスト教がなぜ正しいのか」と言う問いに「聖書に正しいと書かれているから」とは答えにならないですし、「イスラム教がなぜ正しいのか」と言う問いに「コーランに書かれているから」でもお話にならないのと一緒です。もっと言えば、「某真理教がなぜ正しいのか」と言う問いに「尊師が正しいと言ったから」では理解できないのは、ツグミさんにも同意していただけると思います。
個人の信仰であれば、それでもいいのです。
浄土真宗の親鸞さんは、「たとえ地獄に落ちることがあっても、法然さんの教えを守る」とまで言った人です。個人の信仰ならば尊敬に値します(ちなみに私は浄土真宗の信者ではありません)。
しかし、「本当に正しい宗教とは」とタイトルをつけて、ネットの掲示板でそれを主張するのであれば、「個人の信仰」的な発想、つまり、「法華経に書いてあるから、法華経が正しい」的な発想を超える必要性があると私は考えます。

「宗教とは(今の場合は『法華経』とは)」なんなのかを考えるときに、以下の4つの点が重要であると思います。
@『法華経』成立の背景
A『法華経』はこれまでどのように理解されてきたのか
B『法華経』は現代においてどのように考えられているのか
C以上の3点を踏まえて、自分は『法華経』に対してどのような態度をとるのか

@に関して
これについては多くの研究書が出ているので、簡単に。結局、『法華経』は釈迦の言説ではない、ということです。説明が必要であれば次回にでも。
Aに関して
五時八教を説明されていたので、特に付け加えることはありません。
一点だけ。五時八教の教判はあくまで、当時の中国における天台宗の学説であって、歴史的な経典の編纂の歴史とは性質を異にしています。
Bに関して
ツグミさんの学会からは多くの本が出されていますが、そればかりではなく、他の出版社から出ている書籍も読まれることをお薦めします。放送大学教育振興会の『仏教思想』はおすすめです。
Cに関して
私は、個人的には上述したように、『法華経』は優れた経典ではあるが、慎重に扱うべきとの考えをもっています。

最後に、攻撃的である、ということについて
>私は別に「『本当は正しくない宗教』を攻撃しよう」というつもりはありません。「攻撃」ではなく、「取捨選択」>しようというに過ぎません。
『法華経』は「取捨選択」をさせるために、攻撃的になっているのです。
たとえば
>攻撃的というのではなく、「法華経実践の功徳は非常に大きいけれども、誹謗すれば罰も大きい」と、法華経の功>徳の大きさを強調しているのだと思いますよ。
と言いましたが、「法華経実践の功徳は非常に大きい」まではいいんです。しかし、「 誹謗すれば罰も大きい」となる所が攻撃的なのです。慈悲を説くときに、なぜ「罰」を持ち出して、読む人間を脅す必要があるのでしょうか。
かつてキリスト教が、神を信じるあまり、神を信じない人々に対して「罰」と称してどれだけ攻撃をしたか。『法華経』には同様の攻撃性があることを理解しておかなければなりません。

総じて、ツグミさんは『法華経』は非常に学んでおられますが、『法華経』を外から眺めてみるという視点が全く欠けているように思います。「本当に正しい宗教」を求め「真理を追究」しようとしている人の態度としては、怠慢であり傲慢であると私は思います。「本当に正しい宗教」も「真理」も『法華経』だけを見ていたのでは、どんどん遠くなっていくように思います。
それとお節介を承知でもうひとつ。
大乗仏教は、難解な言葉を駆使して仏教を語っていた当時の仏教に対するアンチテーゼとして発展してきた側面もあります。とにかく、分かり易く説こうとしたのです。しかし、ツグミさんの返事を見ているとそのような配慮に欠けているように思います。

以上です。またのご返事をお待ちしています。

では


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テッペンカケタカ、カケタカ

発言番号:35
名前:ツグミ
30歳
2005年10月05日13時06分

はくぼう様

そういえば、今年の春、私のすぐ前の木にもウグイスが飛んできて、「ホーホケキョ!」って鳴いていましたよ。
ウグイスっていうのは、ホトトギス(私の旧名でもありましたが)に卵を産み付けられて巣を乗っ取られ、ホトトギスの雛を自分の雛と思い込んで懸命に育てる哀れな鳥ですね。(ホトトギスはカッコウの仲間)

貴方は途方もない事実誤認をしていますね。我々の会は、外国では○○学会インターナショナルと呼ばれ、世界190カ国・地域に広がっていますが、その大部分が、所属国家から宗教団体として認証されていますよ。つい最近も、ブラジルのある市から「名誉市民称号」が我が会長に授与されました。これは○○学会インターナショナルのブラジルにおける社会貢献が評価されたからです。他の国々においても様々な顕彰を受けています。また、これまで我が会長は、外国の国家元首や要人、識者との会見を数多く重ねています。しかもこれは、先方から会見を申し込んでいるんですよ。我が会が宗教団体として認められている、何よりの証拠じゃあないですか。そして、国内では我が会は忌み嫌われているそうですが、900万世帯もの会員がいます。また、今回の衆議院選挙で、我々の会が支持母体である政党は、比例区で過去最高の898万7620票を獲得しました。何故でしょうかね。週刊○○や某政党・某宗派の機関紙ばかり読んでいる人には分からないでしょう。

妙ホウレんげっ今日。たしかに、こんな文字はナポレオンの辞書にも載っていないでしょうね。
神とはどんな神ですか? 住所はどこですか? 小乗と大乗は同じですって? とこが同じなんですか?

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多様性を尊重しています

発言番号:36
名前:ツグミ
30歳
2005年10月07日19時18分

早朝様

>あなたは他の宗教や考え方を「社会的に間違っている」と述べています。
そのような自分と価値観が合わないというだけで、他者の価値観を否定する発言に、僕は不快感を覚えているのです。

発言番号3で「『足裏診断』と称していい加減なことを言って信者を不安に陥れて金を騙し取り、詐欺罪で摘発された宗教団体があります。また徹底的に信者からお布施を絞り取り、集団出家をさせ、教団ぐるみで凶悪な犯罪を犯した某カルト教団もあります」と私は述べましたが、このような“宗教”でも、その当事者が、「この宗教には価値があるのです」と考える以上、それを尊重すべきであり、それを否定するのは不快であると言いたいのですね。貴方の考えはよくわかりました。
ところで、私が「思考の放棄云々」と言ったのは、社会的に正しいか否かそれだけを考え、宗教の内容・正邪については考慮しない、そういう考えを指して言ったのです。

>「異なる文化の多様性」は、その宗教と同じ宗教観を持つ場合にしか尊重されませんか?

そんなことはありませんよ。我々の会では、その教義の根本に関すること以外は、その国々の風習や慣習に則ってもよいのを方針としています(これを仏法用語で「随方毘尼〈ずいほうびに〉」といいます)。つまり、多様な文化を尊重しているのです。だからこそ、我が会は世界190カ国・地域にまで広がっているのです。

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無題

発言番号:37
名前:早朝
29歳
2005年10月08日21時41分

「自分と価値観が合わないというだけで、他者の価値観を否定すべきでない」という文章が、なぜ不法行為を働く集団も尊重すべきである、という内容に飛躍するのでしょう。
社会的に正しいかどうかは世のルールに則しているかどうかであり、個の主観的な正しさは関係ない、と僕は何度も書きました。
その事を承知の上で、そこまで僕の意見を歪曲するのであれば、もはや議論は成立しませんね。

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こたえられるかのう

発言番号:38
名前:掃く某
51歳
2005年10月09日06時33分

今帰ったとこです。シャワー浴びて出かけます。
 なぜ門徒会が外国に会員を集める。外国のお役人にどれほどお金をばら撒いた。会員集めはどういう方法でする。
 これで必ず幸せになれる。この言葉は、そのまま脅しになります、でもねえ、貴方には幸せが感じられないです。信仰者の純粋さが感じられないです。会員の数を何回言いましたか。教団のするべきことは会員集めではなく、金集めではなく、人を高く導く事です、が教祖があれではむりか。政治家の話はやめときな、よほど数が好きだね。
 信仰には叡智の道というのがあるが、あなたのは叡智ではない。
神の住所も知らないのか、ほんとうか、信じられない。では仏の住所はどうだ知ってるか。

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「攻撃的」ですか

発言番号:39
名前:ツグミ
30歳
2005年10月10日15時45分

じゅん様

お久しぶりです。いい加減な回答はできないものですから。

>たしかこの語(十界互具)は天台から見た『法華経』観で、『法華経』自体では説かれていなかったと記憶しているのですが。該当箇所があったら教えてください。

天台大師が十界互具を説いたといっても、あくまでも釈尊の「法華経」を根本として体系化したもので、決して天台大師独自の悟りではないのです。たとえば、如来寿量品第16では、仏界にも他の九界を具していることを明かし、方便品第2では、九界の衆生にも仏界があることを明かしています。長くなりますので記しませんが、その他法華経には、各界の例を挙げて、それぞれ十界を具しているという文があります。天台大師はこれらを体系化して、十界互具の法理を立てたのです。

>『法華経』の中には、「前世」の罪が強調されている部分もあります。
病気になるのも、卑しい身分に生まれるのも、『法華経』を信じていないから、と説明されています。
果たしてこのように説明されていることが、現代に即応しているのでしょうか。

仏法では、人間の生命は永遠であると説きます。また、貧乏人に生まれたり、卑しい身分に生まれるなどというのは、過去世に正法(法華経)を誹謗したためであると説きます。正法は一切の功徳を収めた具足の法であり、その正法を誹謗すればあらゆる罪業を作ったことになるからです。この罪業を我々は「宿業」と呼んでいます。
しかし、“地によって倒れた者は、かえって地によって立つ”という言葉があるとおり、正法の実践により、その宿業を断ち切ることができるのです。なぜ貧乏になったり、卑しい身分に生まれるなどするのか、という原因を示すことによって、「法華経の実践により、それらを消滅させることができるのですよ」と、法華経の功徳の大きさを示しているのです。
「人間には、宿命もある。(中略)結論して言えば、信心こそが、すべての宿命を転換できる。自分のいる、その場を、そのまま幸福の寂光土にしていける。そして、『現(現在世)当(未来世)二世』と(日蓮聖人が)仰せのように、常に『今から未来へ』『今から未来へ』と、どんどん人生を開いていける」と、我が会の会長も指導されています。
人間の宿業、つまり幸・不幸の問題は、永遠に変わらぬ課題とは言えませんか?

>たとえば「キリスト教がなぜ正しいのか」と言う問いに「聖書に正しいと書かれているから」とは答えにならないですし、「イスラム教がなぜ正しいのか」と言う問いに「コーランに書かれているから」でもお話にならないのと一緒です。もっと言えば、「某真理教がなぜ正しいのか」と言う問いに「尊師が正しいと言ったから」では理解できないのは、ツグミさんにも同意していただけると思います。
>「本当に正しい宗教とは」とタイトルをつけて、ネットの掲示板でそれを主張するのであれば、「個人の信仰」的な発想、つまり、「法華経に書いてあるから、法華経が正しい」的な発想を超える必要性があると私は考えます。

そうですか。インドの大乗の論師である竜樹や世親は、その著書の中で法華経を宣揚し、天台大師は五時八教の教判で「法華経第一」と位置づけ、日本においても伝教大師が、天台大師の教えを通じて法華経の卓越性を示し、さらに我が会が根本とする日蓮聖人も、法華経の正しさをその御文の中で随所に示し、法華経を根本として、末法の法華経たる「南無妙法蓮華経」の題目を確立されたのです。

>浄土真宗の親鸞さんは、「たとえ地獄に落ちることがあっても、法然さんの教えを守る」とまで言った人です。個人の信仰ならば尊敬に値します(ちなみに私は浄土真宗の信者ではありません)。

親鸞はその著『歎異抄』で、「法然上人の教えが正しいかどうか確信がもてないが、たとえ法然上人に騙されて地獄に堕ちても後悔はしない」などと無責任なことを言ったのだと、私は何かの本で読んだのを覚えています。

>結局、『法華経』は釈迦の言説ではない、ということです。説明が必要であれば次回にでも。

そうですね。この点に関するあなたの見解をぜひお伺いしたいと思います。

>五時八教の教判はあくまで、当時の中国における天台宗の学説であって、歴史的な経典の編纂の歴史とは性質を異にしています。

天台大師が、五時八教の教判を立てたのは、あくまでも釈尊の説いた一切経を根本にしてです。この分類は一切経を位置づけるのにまことに適切で、それまでいろいろな説が入り乱れていたのが、この天台大師の説によって始めて統一されたのです。このことから、単に当時の中国における天台宗の学説といったものにとどまらず、その後の法華経実践の意義に多大な影響を与えたという意味で歴史的であると言えます。

>ツグミさんの学会からは多くの本が出されていますが、そればかりではなく、他の出版社から出ている書籍も読まれることをお薦めします。放送大学教育振興会の『仏教思想』はおすすめです。

ご忠告、肝に銘じます。しかし、我が会が実践しているのは「法華経」ではありますが、釈尊が説いた直接の法華経ではなく、その中に秘されていた「文底の法華経」すなわち「南無妙法蓮華経」なのです。この「南無妙法蓮華経」を「末法の法華経」と言い、末法の我々は「南無妙法蓮華経」でなければ功徳は引き出せないのです。
日蓮聖人は仰せです。「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。(中略)此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゆしきひが(僻)事なり。日出でぬればとほしび(灯)せんなし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児(みどりご)に乳より外のものをやし(養)なうべきか。良薬に又薬を加えぬる事なし」
「せん」とは「意義」とか「意味」といった意味です。「南無妙法蓮華経」という最高の特効薬がある以上、他の薬は必要ないのです。

>最後に、攻撃的である、ということについて
>「法華経実践の功徳は非常に大きい」まではいいんです。しかし、「誹謗すれば罰も大きい」となる所が攻撃的なのです。慈悲を説くときに、なぜ「罰」を持ち出して、読む人間を脅す必要があるのでしょうか。
かつてキリスト教が、神を信じるあまり、神を信じない人々に対して「罰」と称してどれだけ攻撃をしたか。『法華経』には同様の攻撃性があることを理解しておかなければなりません。

私はすぐ上で、薬の譬えを出しましたが、「この薬はよく効きますよ」と薬効だけを教えるだけで、「しかし、分量を間違ったり、使い方を誤れば、体に害を及ぼしますよ」と教えなければ、人は勝手に薬を服用して害を及ぼし苦しむことになる。それは無責任であり、無慈悲です。薬の正しい使い方を教えるのが、攻撃的と言えるのですか? それと同じです。

>総じて、ツグミさんは『法華経』は非常に学んでおられますが、『法華経』を外から眺めてみるという視点が全く欠けているように思います。「本当に正しい宗教」を求め「真理を追究」しようとしている人の態度としては、怠慢であり傲慢であると私は思います。「本当に正しい宗教」も「真理」も『法華経』だけを見ていたのでは、どんどん遠くなっていくように思います。
それとお節介を承知でもうひとつ。
大乗仏教は、難解な言葉を駆使して仏教を語っていた当時の仏教に対するアンチテーゼとして発展してきた側面もあります。とにかく、分かり易く説こうとしたのです。しかし、ツグミさんの返事を見ているとそのような配慮に欠けているように思います。

厳しいご指摘、恐縮します。ですが、「他の出版社から出ている書籍も読まれることをお薦めします」との項で私が回答したように、「南無妙法蓮華経」が日蓮聖人によって確立された以上、他の宗教は何の意味もなさない、というのが我が会の教義なのです。「南無妙法蓮華経」を太陽とすれば、他の教えは星のようなものです。太陽が昇れば、星の光は隠れてしまいますね。発言番号25で私が述べた「五重の相対」も参考にしてください。種脱相対の項で「日蓮聖人の文底独一本門を下種益の仏法と言います」と述べましたが、この「文底独一本門=下種益の仏法 」こそが「南無妙法蓮華経」なのです。
また、私の回答が分かり難いと苦情をいただきましたが、申し訳ありません。何分私は仏とは違い末法の凡夫ですから、易しく語るという点で能力に欠けるのもので。しかし仏法は「難信難解」(信じ難く、解し難し)とあるように、その法理は深いですから、理解しがたい部分もあるでしょう。その辺のところ、ご了承下さい。

では、これにて失礼します。またお話しましょう。

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おもしろくなってきました

発言番号:40
名前:じゅん
30歳
2005年10月11日14時26分

早速本題に入ります。

十界互具について
ありがとうございました。
該当箇所を確認してみたいと思います。

>仏法では、人間の生命は永遠であると説きます。
どういう事なのか、説明が必要だと思います。人間の何が永遠なのでしょうか。
この点が明らかにならないと、「宿業」に対しての私の見解を示すことができません。

>そうですか。インドの大乗の論師である竜樹や世親は、その著書の中で法華経を宣揚し、
>天台大師は五時八教の教判で「法華経第一」と位置づけ、日本においても伝教大師が、
>天台大師の教えを通じて法華経の卓越性を示し、さらに我が会が根本とする日蓮聖人も、
>法華経の正しさをその御文の中で随所に示し、法華経を根本として、末法の法華経たる
>「南無妙法蓮華経」の題目を確立されたのです。
竜樹や世親が『法華経』をほめていたのですか。勉強不足でした。具体的に何と言う書物なのですか。よろしければ教えてください。

>親鸞はその著『歎異抄』で、「法然上人の教えが正しいかどうか確信がもてないが、
>たとえ法然上人に騙されて地獄に堕ちても後悔はしない」などと無責任なことを
>言ったのだと、私は何かの本で読んだのを覚えています。
親鸞さんが、「だまされてもいい」と言ったのは、自分は地獄行きが決定している身なのだから、だまされようがない、という深い自己省察に基づいています。論理的ではないのですが、信仰としてならば理解できます。
この態度を無責任というのは、信仰とは何なのか、全く理解していないという他ありません。
ツグミさんは、会長にだまされていたと思ったら、法華経の信仰をやめるのでしょうか。ツグミさんの覚悟とはそのようなものなのでしょうか。

『法華経』は釈迦の言説ではない、ということについて
そもそも、仏教の経典自体が正確な釈迦の言説ではないのです。
釈迦は自分の教えを文字として残すことを禁じていました。実際に文字化されるのは、釈迦が死んでから100年程後のことです。
この時点で成立した経典は「原始経典」といわれ、『スッタ・二パータ』『ダンマ・パダ』がもっとも最初期の経典といわれています。しかし、これらの原始経典群も長い間口伝によって釈迦の言葉が受け継がれてきたために、受け継ぐ人の解釈が多分に入っているといわれています。つまり、経典が成立した段階ですでに、釈迦の言説は正確には伝わっていなかったのです。
その後、次第に、文字化された経典に関する解釈学が盛んに行われるようになります。この解釈学が複雑に難解になっていったために、仏教が一部の学僧の知識になってしまいました。ここの仏教をもう一度民衆の手に戻そうとしたのが、大乗仏教運動です。この中で、それまで学問的に仏教を追求しようとしている人々に対抗する意味で、多くの経典が作られていきます。あるグループは「般若経典群」に代表されるように間接的に、またあるグループは「法華経」に代表されるように直接的に、それぞれの立場で対抗していったわけです。そして、彼らは自分の主張する経典に「仏説」の二文字を加えた。
つまり、本来、釈迦の言説ではない自分たちのグループの経典に「仏説」とつけることによって、その正当性を示そうとしたのです。
歴史的な経典編纂の流れは、@原始経典、A原始経典を解釈する論書、Bその論書を批判する大乗経典群、さらにはC論書を批判した大乗経典群を批判もしくは包括した大乗経典群、と進んでいきます。
ですので、「釈迦の説いた一切経(今の場合は法華経)」という言い方は正確でないばかりか、人に誤解を与える表現で、正確には「釈迦がこのように説いたと信じたい人たちが、釈迦の名を借りて自分たちの見解を記した一切経(今の場合は法華経)」となります。

中国では、以上のような過程に関係なく経典が伝播したので、天台では、五時八教をたてて整理したわけです。
五時八教に関しては、確かに天台大師の天才的なひらめきがあり、その意味では「歴史的」な解釈なのですが、その解釈は実際の経典の編纂史とは性格が異なるものであることは、前回にも述べた通りです。

>ご忠告、肝に銘じます。しかし、我が会が実践しているのは「法華経」ではありますが、
>釈尊が説いた直接の法華経ではなく、その中に秘されていた「文底の法華経」すなわち
>「南無妙法蓮華経」なのです。
では、いままでことさらに法華経を引用していたのは何だったのでしょうか。都合のいい場合は、経典の文句を引用し、都合が悪くなるとこのような言い方をするのは、矛盾していると思うのですが。

>私はすぐ上で、薬の譬えを出しましたが、「この薬はよく効きますよ」と
>薬効だけを教えるだけで、「しかし、分量を間違ったり、使い方を誤れば、
>体に害を及ぼしますよ」と教えなければ、人は勝手に薬を服用して害を及
>ぼし苦しむことになる。それは無責任であり、無慈悲です。薬の正しい使
>い方を教えるのが、攻撃的と言えるのですか? それと同じです。
ということは、法華経も用法を誤れば人を傷つける可能性がある、と理解してよろしいのでしょうか。私が指摘するのは、用法を誤ると害を及ぼすような、法華経の攻撃性なのですが、その点は理解していただけたと考えてよろしいのでしょうか。

>「南無妙法蓮華経」が日蓮聖人によって確立された以上、
>他の宗教は何の意味もなさない、というのが我が会の教義なのです。
ツグミさんの会の教義がどのようなものであるのか、ここでは関係がないと私は思います。
ツグミさんがどのように考えるか、が重要です。
「他の宗教は何の意味もなさない」といいますが、では、ツグミさんがそのように信じられるほど他の宗教のことをご存知なのでしょうか。
現在の宗教界の流れは、他の宗派の教えを尊重しその主張に耳を傾けることで、自分の宗派の教えをより高めていく、という方向を見ています。残念ながら、ツグミさんの会は時代に逆行しています。

>「南無妙法蓮華経」を太陽とすれば、他の教えは星のようなものです。
>太陽が昇れば、星の光は隠れてしまいますね。
太陽に目がくらんで、星の多くが実は太陽よりも大きく明るく輝いていることをお忘れになっているのではないですか。
上げ足をとっているわけではなく、何かを「絶対視」してしまうと簡単に視野が狭くなってしまうことをいいたいのです。

最後に
『法華経』は、BC100年ごろから、AC200年ごろにかけて、法華経の伝播する地域の風習や信仰の対象となっているものを組み入れながら編纂されていきました。
とくに「〜菩薩品」と題名のついている章は、それらに対する信仰を取り入れていった証です。
つまり、法華経の編纂者たちはかなり自由に法華経に手を加えていったのです。これは、法華経を絶対視していなかった何よりの証拠です。
日蓮さんが、法華経の言葉を解体し、「南無妙法蓮華経」に集約したのは、その変化の歴史の最たるものではないでしょうか(ちなみに私は日蓮宗の信者ではありません)。
そのような歴史を見ると、法華経やそれを語る人を絶対視せず、時には批判し、時には解体し、時には再構築しながら信仰していくのが、誠意のある態度であると私は思います。

以上、長くなってすみません。
中々面白くなってきましたね。
お返事、お待ちしています。
では。


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貴方の宗教に関する価値観とは?

発言番号:41
名前:ツグミ
30歳
2005年10月15日08時53分

早朝様

>そこまで僕の意見を歪曲するのであれば、もはや議論は成立しませんね。

私の意見に行き過ぎがあったようですね。その点は率直にお詫びします。
ですが、あなたは以前、「宗教が社会的に正しいかどうかは、世のルールに則しているかどうかが全てでしょう?」「現世利益の有無もそうで、個人的な正しさの判断基準にはなっても、社会的には合う・合わない、好き・嫌いの問題でしかなく、正しさとは関係ありません」と述べられました。この表現には、宗教に対する真摯な姿勢、敬虔さが感じられないのです。何か宗教をバカにしているとさえ言えます。

>僕も、僕の価値観をもって「宗教とは何か」を考えています。
ならば、その一端をお教え願えますか?

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答えられますよ

発言番号:42
名前:ツグミ
30歳
2005年10月15日09時47分

掃く某様

日々のお勤め、ご苦労様です。

>なぜ門徒会が外国に会員を集める。

我が会の会長は、以前旧ソ連や中国を訪れましたが、その際「宗教者が宗教否定の国に、赤いネクタイをつけて何しに行くのだ」と、すさまじい非難が巻き起こりました。しかし会長はこう答えました。「そこに人間がいるから行くのです」。

>外国のお役人にどれほどお金をばら撒いた。会員集めはどういう方法でする。

我が会長は20年ぐらい前、旧ソ連の大統領と会見しましたが、その時某週刊誌が「○○○○(会長の名前)、金で買った○○○○○○(旧ソ連大統領の名前)会談」なんて大見出しで中傷していましたよ。やはり貴方は「週刊○○」の読み過ぎのようですね。ドイツの哲学者・ショーペンハウエルは「悪書は人間の精神を毒する」と述べましたが、たまには我が会の書物も読んでみてはいかがでしょうか。

>これで必ず幸せになれる。この言葉は、そのまま脅しになります
貴方は我が会の実践をしてみたのですか? 理論だけで決め付けるのは実に簡単です。

>でもねえ、貴方には幸せが感じられないです。信仰者の純粋さが感じられないです。

貴方の率直な指摘、厳しく受止めます。私もまだまだ「人間革命」が必要のようです。それはそれとして、

>会員の数を何回言いましたか。教団のするべきことは会員集めではなく、金集めではなく、人を高く導く事です

私は別に、会員数の多さを自慢したくて言っているわけではありません。「あそこの門徒会は特に外国では宗教団体とは見られていません。国内では忌み嫌われています」と貴方は述べましたが、“忌み嫌われている”のならば、なぜ我が会は日本最大の会員数を誇る会なのでしょうか、我が会が正しいから人が大勢集まるのではないですか、と言いたいだけです。

>が教祖があれではむりか

ただそれだけで、我が会長の一体何がどうだというのか、具体的に指摘してほしいです。

>神の住所も知らないのか、ほんとうか、信じられない。では仏の住所はどうだ知ってるか。

「抑(そもそも)地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候」(日蓮聖人のお言葉)。
仏というのは、我々の中に存在するのです。

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なぜそれほどまでに・・・

発言番号:43
名前:D.A
44歳
2005年10月15日21時59分

ツグミさんがなぜそれほどまでに、ご自分が信奉している宗教の「正さ」を主張したがるのか理解に苦しみます。それは、「正しくない」宗教を信奉している人々、あるいは無宗教者への思いやりの心からでしょうか。
もしも仮に、ツグミさんの信奉している宗教が本当に「正しい」としても、ツグミさんが、「自分達は正しくて、あなたたちは間違っている」と言ったとしたら、そう言われた人たちは、ツグミさんの言うことを素直に受け入れられるでしょうか。
自分の「正さ」を主張する時に、「正しくない」人々への思いやりの心はあるのでしょうか。

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次のお題をまってるけんね

発言番号:44
名前:こんちのきぬた
51歳
2005年10月18日08時01分

南無妙法蓮華経。この言葉をインコやオウムが言ったとて何の意味があるだろう。あなたは、ツグミさんは、このオウムと同じようなものだね。よく人の言葉を繰り返す。仏に通じなければ創造の力とはならないんだよ。この世の波動の者が何を言おうと、この世でしか通用しないんだよ。自己を磨き、ひたすら磨くうちにそれに見合った波動になっていき、当然、行いも変わっていく。この逆はむずかしい、実践の道、行動の道、この道は人目があるだけに難しい、うっかりすると心をごまかしてしまう。全ての道に共通するのは瞑想だ。
 900万世帯で900万票とはなぜか。手土産を持って外国の要人に会って何の話をした。記念写真を撮る為か。どういう話をしたのかが肝心なところだ。仏は自分の中に居る、これははずれだ。私は本は読まないといったはずだが、オウムには一回ではむりか。法華経の話を聞けなかったのは残念だ。まあ何処の教祖も似たようなものさ。真理教の人も出てきたね、あそこの教祖は、あまり品の良くない眼をしている、権力志向が強い、相手によって態度がよく変わる。
 あたしゃこれでしっけいするよ

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貴方の熱心さに感服します

発言番号:45
名前:ツグミ
30歳
2005年10月18日13時54分