本当に正しい宗教とは
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ご返事が遅れて申し訳ありません

発言番号:51
名前:信仰人
30歳
2005年10月30日06時33分

じゅん様

ご返事が大変遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。

では、早速本題に入りましょう。

>説明不足です。人間の生命の何が永遠なのでしょうか?……

貴方は「人間の生命が(縁によって生じ、縁によって滅し、そのことが)永遠(に変わらない真理)で、(縁によって生滅するのだから)始め(の時期を断定すること)も(でき)なければ、終わり(の時期)も(断定することはでき)ない、つまり(物事が縁によって生滅する事実が)『三世』にわたって続く、なら理解できます」と仰られましたが、私が言いたかったことを、貴方が説明してしまいましたね。
ただ、「しかし、ある特定の人間性や、その人の魂みたいなものが永遠であるとするならば、それは仏教ではありません」について、我が会の第二代の会長(現会長の師匠)の次のような指導があります。
「死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目に移る生活活動となって現れてくる。ちょうど、目をさました時に、きのうの心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない」
つまり、再び今世に生を受けても、前世の生命の傾向性(怒りっぽいとか、悲観的だとか)を永遠に引きずっていかねばならないということです。ここに宿命転換の必要性があるわけです。日蓮仏法にはそのような力があるのだ、というのが我が会の教義です。

>再度質問いたしますが、ツグミさんは、会長にだまされても信じ続けることができるのですか。
たとえ、だまされていたとしても、だまされなかったよりは「まし」、と思えるのが信仰なのではないでしょうか。

我が会長は、日蓮聖人の仰せをいかに実践すべきかを全会員に懇切丁寧に、過たず伝えようと、日夜真剣な努力を長年にわたって続けてきました。それはそれは厳しい闘争の連続で、時には命がけでさえありました。そこまで心血を注いで指導その他をされるような方が、我々を騙しているなどとは到底考えられません。貴方は、貴方が挙げた「某真理教」や足裏診断で信徒を騙した教団のように、宗教の最高指導者なんてのはみな胡散臭いという固定観念があるようですね。しかし、我が会の会長は、彼らとはスケールが根本的に異なるのです。
「騙される」などというのは、信仰などではなく、信徒を教祖の言いなりになるロボットにするための「洗脳」であり、「マインドコントロールに」過ぎません。  

>ツグミさんの「難」とは幸福のことを指すのでしょうか。
もし、来世での幸福を指すのであれば、
>また、現実の社会の中で、生活の中で“勝利”できるものをいいます。
>それを実践し、現実の日々の中に幸福の実証が現れるものが、本当の信仰なのです。
と論じるのはどうしてなのでしょうか。

「苦労があるからこそ、生命が磨かれる。難を受け、難を乗り越えなければ、仏にはなれない。試験を受け、試験を乗り越えなければ、大学を卒業できないのと同じである」これは、我が会長の指導です。
また、日蓮聖人も「妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せです。
もちろん、本当の信仰とは、今世でも勝利できるものです。それを前提にしつつ言うのですが、人生において、何の困難(難)もなく、順風満帆で何もかもうまくいく。功徳といえばこういうものだと一般的には思われがちですが、これでは人は傲慢になり、堕落し、かえって不幸になります。難に遭い、乗り越えることによって、信仰が深まり、生命が鍛えられる、また宿業も消えていく。これが我が会の仏法なのです。

>確かに、第一結集はおそらく史実であろうと言われています。
しかし、ここで行なわれたのは、あくまで口伝のための確認会のようなものであって、文字化の作業ではありません。非常に少ない可能性として、聞いたことを文字にした人がいなかったとはいい切れませんが、それは個人的な行動であって第一結集の主旨とは異なります。

釈尊減後において、教団内には釈尊の法戒に背く者が出てきました。大迦葉は「教団の統率は、教法と戒律とによるべきである」と、釈尊の正しい教えを明確にするために、阿闍世王の保護を請い、経典を結集しようとしました。これに対し、国王の阿闍世は、畢波羅窟の前に大講堂を建て、一切の資具を供給しました。西域記巻九によれば、畢波羅窟に千人の比丘が集まり、阿難は経蔵を、優婆利は律蔵を、迦葉は論蔵を結集したといわれています。これを窟内結集といいます。これが私の知識です。

>残念ながら、法華経に関しては江戸時代にすでに「仏説」ではないことが証明されています(以下略)。

貴方の仰っていることは、日本における「大乗非仏説論」のことですね。まず、江戸時代中期の思想家、富永仲基が大乗非仏説論を主張し、これを基に、仏教を神敵として、より激しく攻撃したのが平田篤胤です。明治時代になると「大乗非仏説論」は再び大きな争点となります。仏教研究が進み、原始経典(パーリ語仏典、漢訳阿含経等)が釈尊の直説あるいはそれに近い説であることが明らかになったためです。
しかし、その後の日本の仏教学では、「大乗非仏説論」は次第に衰え、大乗を非仏説として一方的に退けるのではなく、大乗仏教の意義を認め、その価値ある部分を見出そうとする立場が今日の主流です。すなわち、大乗仏教と原始経典との間には教理上の類似性・共通性があり、原始仏教の中にすでに大乗的な要素が含まれているとする立場です。この見方によれば、大乗(法華経も)は釈尊の直説の発展したものと考えることができます。
また、インドのさまざまな社会状況と、法華経の成立年代を関連付けて、「法華経は非仏説」と主張されていますが、貴方が根拠としている説は、「他人の手によって改変された見解」の可能性はないのでしょうか?

>法難にレベルの違いなどないのではないですか。親鸞さんにしろ道元さんにしろ、苦悩があり挫折があり絶望があったのです。人それぞれの苦悩に目が行かないことは、なんとも悲しいことです。

私が言っているのは、「法華経に説かれた通りの法難があったかどうか」ということです。たとえば、法華経勧持品第13では、「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖(とうじょう)を加うる者有らん」とか「数数(しばしば)擯出(ひんずい)せらる」という文があります。「刀杖を加うる」とは、刀や杖などの武器で攻撃すること。「数数擯出」とは、しばしば所を追われるという意味です。日蓮聖人は仏法に理解のない人々から散々悪口を言われ、日蓮聖人を敵視する武士集団から刀で傷つけられたり、その他二度にわたって流罪され、さらに竜の口(現在の神奈川県鎌倉市)で死罪に処せられかかるなど、大難の連続でした。親鸞や道元その他の同時代の僧の誰が、これほどの難に遭ったというのでしょうか。真言律宗の僧、極楽寺良観などにいたっては、鎌倉幕府と結託して、日蓮聖人を迫害する始末です。このように、法華経の予言通りの難を引き起こした日蓮聖人は、法華経の正統な行者であり、よってその教えを根本としている我が会に、法華経の精神は流れ通っていると言えます。

>>法華経は釈尊が説いた一切教の中で、最も優れた教えであり……と述べている以上、法華経の引用は控えるべきかと思います。

たしかに釈尊が説いた法華経それ自体は、法華経の中に隠れていた「南無妙法蓮華経」の題目が現れた以上、「功徳をもたらす」という点に関しては意味はありません。しかし何の意味もないということではなく、「南無妙法蓮華経」の題目の功徳を示す“説明書”としての意義ならあるのです。だから私は法華経の言葉を引用するのです。

>「法華経の用法を誤る=法華経を信じず、誹謗・中傷する」までは理解できます。「人が傷つく=罰が現れる」も条件つきですが理解できます。しかし、「法華経を信じず、誹謗・中傷する。人が傷つく」が理解できないのです。
なぜ、信じず、誹謗中傷したら人が傷つくのでしょうか。さらに、人が傷つく=罰があらわれる、としたということは、傷つく人は罰があらわれた人、ということですよね。「信じなければ救わない」と言っているように見えますし、これを指して攻撃的と表現する私の表現は、適切であると考えます。

仏法では「因果の理法」を説きます。良い事であろうと、悪い事であろうと、行ったこと(原因)からは必ず結果が現れる。そこにはおまけもなければ割り引きもない。一般の犯罪では、犯人が巧妙に逃げ延びて、国法で裁くことができない場合がありますが、仏法における「因果の理法」では、そういうことはない。やったことには絶対にその報いがあるのです。法華経は釈尊をはじめ、諸菩薩を成仏させた偉大な教えですから、それを誹謗すれば、出てくる結果も“偉大な”つまり強力な罰となって現れざるを得ないのです。信じないだけならまだしも、それに加えて誹謗中傷すれば、必ず罰は現れる。それでは衆生が気の毒だから、仏が慈悲に基づく注意をしたということでしょう。

>その通りですね。私もこのようなスタンスを崩したくはありません。
ツグミさんの会の研究所の存在に関しては、私の認識不足でした。すみませんでした。

別に謝ることはありません。私の方も、貴方に教わることは多いのです。

三証に関するなたの見解について

貴方の仰ること、ごもっともとは思います。ですが、「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)と日蓮聖人が仰せになっているように、客観的に最も明確に知ることができる「現証」こそが、信仰の正邪を分ける基準として一番重要なのです。いくら教義・主張が、経文等の文献上の裏付けをもっていようが、また、教義が道理に適っていようが、実践して生活のうえに何の結果も現れなければ、その信仰は何の意味もなさないからです。逆に言えば、現証が現れる信仰であるのなら、その文証も理証も正しいと推定することができます。

>確かに、その通りです。その上で考えてほしいことは、なぜ「〜菩薩」が「法華経の重要性を示すための象徴に」なりえたのか、ということです。つまり、「〜菩薩」に対する信仰があって、それに法華経を成立させたグループがのったと言えるのではないでしょうか。そうでなければ、「重要性を示すための象徴に」はなれないのですから。さらには、その象徴がなぜ、釈迦ではなく、他の仏弟子ではなく、まして在俗の信者でもなく、観音なのかを考えれば、法華経が観音信仰を取り込んだことが理解できると思うのですが。

貴方の意見、必ずしも間違いとは言えないと思います。そのうえで私の見解を加えさせていただきます。
仏法には「垂迹」(すいじゃく)という言葉があります。「垂迹」というのは、仏が衆生を利益するために、種々の所に様々な身に姿を変えて現れること、あるいはその身のことです。「本地」(仏の本体)に対する語です。この「観世音菩薩」も、法華経の功力を強調するための、仏の化身(垂迹)の一つと思われます。また「観世音菩薩」は、薬王・妙音菩薩とともに「他方の菩薩」(娑婆世界から見た他の国土)とされています。

>「私の教えは正しい」と言う必要があるのでしょうか。だまって実行していればいいのではないですか。もしくは「私はこう考える」と言えば良いだけではないのですか。もちろん、そのように言えば、反論されることもあるでしょう。しかし、それでも、経典の言葉や教祖の言葉なんかに頼らずに、あくまで自分の言葉で語ることが必要ではないのですか。

人に仏法を語る場合、相手を納得させなければなりません。その方法として、「正しい」とか「確信している」と主張することは、必ずしも間違ってはいないと思いますが。
また、 経典の言葉や教祖(我が会長のことと思われますが)の言葉を引用するのは、日蓮仏法においては、自分の勝手な「悟り」ではなく、あくまで「法」に則るべきだからです。会長もまた、自身の勝手な「悟り」とか「我見」に基づいて指導をしているのではありません。日蓮聖人の教えなどを根本にしているのです。

>上とも関連しますが、「信じて疑わない」とか「確信」という表現は、使いたくなる気持ちはわかりますが、不要で不用な言葉です。
あくまで、議論をしているわけですから、そのようなことを言われてしまうと、何とも言いようがなくなってしまいます。
「じゃぁ、勝手に信じてればいいじゃん」
というのは、ツグミさんの期待している終り方ではないでしょう。

そうですか。 貴方にとっては不快な表現というわけですね。言葉遣いのほう、留意します。

それでは、またお話しましょう。今回はこれにて失礼します。

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訂正事項があります

発言番号:52
名前:信仰人
30歳
2005年10月30日18時28分

じゅん様

「三証に関するなたの見解について」というのは、「三証に関する貴方の見解について」の誤りです。お詫びします。

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長過ぎ

発言番号:53
名前:136
26歳
2005年10月31日17時07分

ウザイ
簡潔に解りやすく書け

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不軽菩薩

発言番号:54
名前:信仰人
30歳
2005年11月02日07時17分

D.A様

>それにしても、毒鼓(=逆縁)とは恐れ入りました。よほど自信が無ければ、そういうことは言えないでしょう。常不軽菩薩を迫害した人々にも「さとり」の縁が生じた、と言う話からきているのかな。

「毒鼓(=逆縁)」というのは日蓮聖人が仰せになったことですから、自信があるというべきは日蓮聖人の方でしょう。
それにしても、不軽菩薩のことを知っているとは、貴方も仏教に何か関心があるのですか?

不軽菩薩は、威音王仏(いおんのうぶつ)の像法に出現し、一切衆生に仏性があるとして、二十四文字の法華経を説いてすべての人を礼拝し、軽んじませんでした。しかし、人々は不軽菩薩を悪口し、棒で叩いたり、石を投げつけて迫害しました。これにより、迫害者たちは千劫という長い間無間地獄に堕ちましたが、その罪を終えて、再び不軽の教化を受けることができました。
これを逆縁の衆生といい、仏法を誹謗することによって仏縁を結び、大きな罰を受けた後、後悔して信心をすることによって救われる衆生のことです。

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発言番号53の人へ

発言番号:55
名前:信仰人
30歳
2005年11月02日07時19分

興味のない方はご退場ください。

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お返事ありがとうございます

発言番号:56
名前:じゅん
30歳
2005年11月02日12時01分

ツグミさん、お久しぶりです。
HNを変えられたようですが、言い馴れたものでお返事いたします。

返事が遅れるのは気にしていません。人にはそれぞれ事情がありますから。
「簡潔に書け」とのお叱りも受けていることですし、あまり長くならないように気をつけます。

では、本題に。

○前世(もしくは現世)の縁が現世(もしくは来世)に影響を与えることについて。
ツグミさんの会でどのような教えがあろうがいいのですが、私に言えることは「それは仏教ではない」ということです。

○親鸞さんの言葉について
これについては、かなり誤解があるようです。
「違う宗派だから」とか「法華経じゃないから」とか言わずに、親鸞さんの言葉を味わってください。(何度も言いますが、私は浄土真宗の信者ではありません)信仰と理性との間で苦悩した親鸞さんの姿は、何かを信じようとしている人間にとっての救いでもあるのですから。
この言葉自体、私はツグミさんを弁護しようと思って引用したのですが。

○法難と安心について(道元さんと親鸞さんの話も含めて)
ニーチェが「アンチ・クリスト」の中で指摘した、「ルサンチマン」の発想に近いですね。
このような発想をするために、宗教はアヘンだ、などといわれるのも事実なのです。

○第一結集について
第一結集の歴史的な背景について、私とツグミさんとの相違点は、それが経典の編纂(つまり、文字化)と関係していたか、いないかです。
もし文字化の作業であったのなら、それは何を根拠としているかを明示してください。
ちなみに、その根拠として大乗仏典を持ち出すのは、間違いです。

○大乗非仏説論について
大乗非仏説論は衰退したわけではなく、体よく無視された、というのが現状です。
「信仰」と「研究」との関係性を考える上で重要な成果であったにも関わらず、無視されたのです。
私は、近代に置き去りにされたこの問題を、考えてみたいのです。
原始仏教の中に、大乗的な要素があるのは、当然の話です。大乗は原始仏教を基にしたわけですから。
私が指摘しているのは、「法華経」を釈迦が語ったとするツグミさんの捉え方についてです。
この中で、
>大乗を非仏説として一方的に退けるのではなく、大乗仏教の意義を認め
とか
>大乗(法華経も)は釈尊の直説の発展したものと考えることができます
と論じているところを見ると、私の指摘には賛同していただけたと理解できるのですが、どうでしょうか。
また
>貴方が根拠としている説は、「他人の手によって改変された見解」の可能性はないのでしょうか?
という問いをいただきましたが、前回も述べたように、批判するのであれは、それぞれの側面から反証を与えなければ意味がありません。憶測に基づいて、可能性だけを論じるのは、建設的な見解ではありません。

○法華経の引用について
意味がわかりません。
「法華経」は歴史書のようなもので、そこに描かれている物事は事実ではあるが、現代の事象を表すものではない、ということでしょうか。
もしそうなのであれば、いくつか問題点がありますし、私の見方が間違っているのであれば、もっと分かり易く説明してください。

○法華経の攻撃性について
いくら慈悲を語ろうと、「強力な罰」が「必ず」与えられるのであれば、攻撃的なのです。
キリスト教がなぜ迫害されたのか、なぜあれほどの攻撃性を手に入れたのか、それを考えれば、法華経の信奉者たちが「法華経」の中に攻撃性を持たせたことも理解できると思います。
(ちなみに、私はこのような攻撃性を否定しているわけではありません)

○三証について
三証に関しては、一応の賛同をいただきましたので、これ以上、私に語れることはありません。
ツグミさんの会が「現証」を重視しているのであれば、前回も述べたように、私には何も言うことはできません。
人の経験に他人が踏み込むことはできませんから。
同じ理由で、他の宗教で「現証」を得ている人間に対して、ツグミさんの会が何か言うこともできません。

と、ここまで書いてきて、問題がどんどん膨らんできていることに気付きました。
なので、長くなってしまうのですね。
そこで提案なのですが、この辺で的を絞ってみませんか?

私とツグミさんとの見解の相違は、「法華経」が釈迦の言説か否か、にはじまると思うのですが。
そこが解決されない限り、平行線に終わるように思います。
で、私としては、「法華経」が釈迦の言説か、という所から仕切り直したいのですが、いかがでしょうか?

他にもいろいろあることですし、他の問題の方がいい、というのであれば、それはそれでかまいませんが、「法華経」の成立が常に問題になりそうな気がするのです。

一応の提案です。

最後に、余計なお世話でしょうが、
常不軽菩薩を語りながら、発言53に対して、あのような返事をわざわざ送るのは、「法華経」の実践者であり信仰者としては、良くないのではないでしょうか。
レスが長いのは確かなのですから、それはそれとして、真摯に受け止めるのがいいと私は思います。

では、またお話しましょう。


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仕切り直し、賛成します

発言番号:57
名前:ツグミ
30歳
2005年11月11日15時38分

じゅん様

お久しぶりです。
勝手にHNを変えたことでご不便をおかけしているようですので、元の「ツグミ」に戻します。申し訳ありませんでした。

>返事が遅れるのは気にしていません。人にはそれぞれ事情がありますから。

貴方の理解あるお言葉、感謝いたします。それに甘えて、また返事に日数を置かせていただきました。

○前世(もしくは現世)の縁が現世(もしくは来世)に影響を与えることについて。
○親鸞さんの言葉について
○法難と安心について(道元さんと親鸞さんの話も含めて)
○第一結集について
○大乗非仏説論について
○法華経の引用について
○法華経の攻撃性について
○三証について

以上について、私としても言いたいことはあるのですが、

>と、ここまで書いてきて、問題がどんどん膨らんできていることに気付きました。
なので、長くなってしまうのですね。
そこで提案なのですが、この辺で的を絞ってみませんか?

と貴方が仰ったように、私の返答もまたまた長くなってしまい、第三者から「長すぎだ!」とのクレームがつきそうなので、「的を絞る」ことには賛成です。

>私とツグミさんとの見解の相違は、「法華経」が釈迦の言説か否か、にはじまると思うのですが。
そこが解決されない限り、平行線に終わるように思います。
で、私としては、「法華経」が釈迦の言説か、という所から仕切り直したいのですが、いかがでしょうか?

結構です。ただ、私の議案提案との関係上、「釈迦の説いた教えの精神は、現代では一体どこに正しく存在するのか?」ということも論じたいのですが、どうでしょうか?
私としては、「大乗仏教=法華経」は、釈尊の言説である。そして釈尊の精神は、現代では、我が会の中にこそ存在する、とまず主張しておきます。

>最後に、余計なお世話でしょうが、
常不軽菩薩を語りながら、発言53に対して、あのような返事をわざわざ送るのは、「法華経」の実践者であり信仰者としては、良くないのではないでしょうか。
レスが長いのは確かなのですから、それはそれとして、真摯に受け止めるのがいいと私は思います。

貴方の厳しいご指摘、厳粛に受け止めます。ただ、我々は「真剣に討議」をしているのに、それにケチをつけられたような思いがして、ついつい怒りを覚えてしまったもので。
我々の討議に価値を感じられず、長くて面白くなければ、無理に読んでもらうことはないのです。1曲あたりせいぜい5分程度で終わるホップス音楽しか聞かない人間が、1時間近くも演奏時間があるクラッシックの交響曲を聴いても、長くて退屈で、価値を感じられないのと同じように。

では、今回はこれにて失礼します。

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発言番号:58
名前:ii
20歳
2005年11月12日16時12分

この人、ここが自分のHPと勘違いしてるんじゃない?ここのHPに集まってる人がクラシックは聞きたくないってさ。この人、色んな人から色んな注意を受けても、絶対聞き入れないよね。感情的になって、その後言い訳ばっかり。

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発言58の君へ

発言番号:59
名前:ここの議題提案者より
30歳
2005年11月14日12時36分

あのー、宗教に関心がないんだったら、別にいいけど、そのテの書き込みはここじゃなくて、ふさわしい所を教えるから、そこですれば?

http://www2.2ch.net/2ch.html
http://thebbs.jp/null/monozygotic.html

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お久ぶりです

発言番号:60
名前:じゅん
30歳
2005年11月14日16時17分

ツグミさん、お久しぶりです。

早速、本題に入ります。

まずは、私の提案を受け入れていただいて、ありがとうございます。

>私の議案提案との関係上、「釈迦の説いた教えの精神は、現代では一体どこに正しく存在するのか?」ということ>も論じたいのですが、どうでしょうか?
この問題については、順を追って議論していけばいいと思います。
今のところは、敢て保留にしておきましょう。

>私としては、「大乗仏教=法華経」は、釈尊の言説である。そして釈尊の精神は、
>現代では、我が会の中にこそ存在する、とまず主張しておきます。
法華経は釈迦の言説ではないことは、何度か説明してきました。
まずは、それぞれに対して反証を与えてください。
ちなみに私の見解は
「法華経は釈迦の言説ではないが、釈迦の精神を伝えている部分もある」
ということです。
このようにツグミさんにも理解していただければ、話は次の段階に進むことができるのですが。
あくまで、「法華経=釈迦の言説」と言うのであれば、それを明示してください。
前にも言ったように、その際に大乗経典や日蓮さんの言葉やツグミさんの会長の言葉を持ち出すのは、ナンセンスです。

最後に、またまた余計なお世話でしょうが、
>我々の討議に価値を感じられず、長くて面白くなければ、
>無理に読んでもらうことはないのです。1曲あたりせいぜい
>5分程度で終わるホップス音楽しか聞かない人間が、1時間
>近くも演奏時間があるクラッシックの交響曲を聴いても、長くて
>退屈で、価値を感じられないのと同じように。
とおっしゃいますが、敢て書かなくてもよかった文章ではないかと思います。
私は、ポップもクラシックも聞きますが、どちらも同じくらい好きです。
思うのは、5分程度で終わる音楽の中に、人間の生きる苦悩や意味が充分すぎるくらい語られている楽曲もあるのです。
逆に、一時間もありながら、単調で浅薄なクラシックもあります。単純に時間で計れるものではないのです。

なぜこんなことをくどくどと言うかというと、仏教の経典や論書は膨大な数があり、法華経はその一部にすぎません。ツグミさんのこのような見解は、その一部分でしかない法華経を見て、「最高だ!」と言っている人たちを非難しているようにも見えるのです。
重要なのは、長さではなく、そこで何を伝えようとしているのか、ではないでしょうか。

では、短めですが今回はこの辺で。

お返事、期待しています。


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発言58の君へ

発言番号:61
名前:りん
25歳
2005年11月16日22時08分

他人の意見を冷静に聞く人間ならば、犬作の信者にはならん。

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発言番号61へ

発言番号:62
名前:主審
30歳
2005年11月17日19時28分

退場!!(レッドカード)

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こちらこそ感謝しています

発言番号:63
名前:ツグミ
30歳
2005年11月19日16時06分

じゅん様

>まずは、私の提案を受け入れていただいて、ありがとうございます。
いえいえ、どういたしまして。こういうことを言っては何ですが、短く議論できるのは、私も助かります。

>法華経は釈迦の言説ではないことは、何度か説明してきました。
まずは、それぞれに対して反証を与えてください。

貴方が法華経を判断する基準として、富永仲基、平田篤胤等の論や、インドにおける法華経非仏説を説いた論師などに絶対的価値を置いているというのですね。ちなみに、法華経を漢訳して中国にもたらしたのは鳩摩羅什ですが、その羅什の訳にも我見があり、法華経に改変を加えた可能性があるということですか? 羅什は中国の当時の国王から、国師の待遇まで受けている人物なのですが。

>ちなみに私の見解は
「法華経は釈迦の言説ではないが、釈迦の精神を伝えている部分もある」
ということです。

そうですか。ぜひお教えください。

>前にも言ったように、その際に大乗経典や日蓮さんの言葉やツグミさんの会長の言葉を持ち出すのは、ナンセンスです。

法華経が正しいか否かを論じるだけで終わるのは「机上の論理」です。宗教を実践して、実生活のうえによい結果が現れなければ何の意味もないでしょう。日蓮聖人や我が会長の言葉は、現代において法華経をどう実践すればよいかを教えてくれる「羅針盤」なのです。貴方がそれを「ナンセンス」と言うのは、残念ながら貴方と私とでは、宗教についての価値観に相当のずれがあるということですね。

>仏教の経典や論書は膨大な数があり、法華経はその一部にすぎません。ツグミさんのこのような見解は、その一部分でしかない法華経を見て、「最高だ!」と言っている人たちを非難しているようにも見えるのです。
重要なのは、長さではなく、そこで何を伝えようとしているのか、ではないでしょうか。

音楽に関する貴方の蘊蓄ある見解、感銘させられます。
釈尊の説いた一切経と法華経では、その論理に天地雲泥の差があるのです(悪人成仏・女人成仏・二乗成仏等。他の経ではいずれも説かれていません)。一切衆生の成仏を説いているのは、法華経だけなのです。だから「法華経最第一」と言うのです。

いや、今回はかなり短くすることができました。
では、この辺で失礼します。

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再度、問題提起を。

発言番号:64
名前:じゅん
30歳
2005年11月21日14時39分

ツグミさん

ちょっとお返事が遅くなってしまいました。

では、本題に。

>貴方が法華経を判断する基準として、富永仲基、平田篤胤等の論や、
>インドにおける法華経非仏説を説いた論師などに絶対的価値を置い
>ているというのですね。ちなみに、法華経を漢訳して中国にもたら
>したのは鳩摩羅什ですが、その羅什の訳にも我見があり、法華経に改
>変を加えた可能性があるということですか? 羅什は中国の当時の国
>王から、国師の待遇まで受けている人物なのですが。

「絶対的」とか「本当」とかの言葉が好きなようですが、私が言いたいのは、そんなことではありません。
むしろ「相対的」にどちらがより正しいと考えられるか、というのが私のスタンスです。
ちなみに、以前、私が富永の説を持ち出したのは、彼の文献学的な研究手法が近現代においても有効だからです。
彼の「大乗非仏説論」は、近現代における考古学上の発見や研究によってその裏づけがなされています。
その一端が、先に述べた、経済史的、社会史的な研究成果です。
ですので、何度も言っているように、それぞれの側面から反証を与えなければ、富永の説を否定することはできないのです。
なので、ぜひ、それぞれの側面から反証を与えてください。
それが可能であれば、ここ100年くらいの仏教史研究が根底から崩れるほどの大事件ですから。

羅什については、まだ先の問題ですし、また煩瑣になってしまうので、一時保留にしましょう。

それ以下の部分については、
私は少し先走りすぎたようです。
まず、「法華経は釈迦の言説か?」にしぼりましょう。

何度も繰り返しますが、まずは、経典を裏づける根拠をそれぞれの側面から明示してください。

最後に蛇足ですが、
>釈尊の説いた一切経と法華経では、その論理に天地雲泥の差があるのです
そうツグミさんが「信じて」いるのであれば、それで結構です。
何を「信じ」ようと、その人の勝手ですから。
ただ、単純に時間で比較していたので、単純に分量で比較すれば、ツグミさんは自分で自分を否定してしまうことになりかねないので、注意を喚起しただけです。
さらに、
>(悪人成仏・女人成仏・二乗成仏等。他の経ではいずれも説かれていません)。
>一切衆生の成仏を説いているのは、法華経だけなのです。
と言ってしまうのは、厳しい言い方をすれば、仏教の知識のない人を煙に巻くことはできても、多少なりとも仏教一般を勉強している人間には全く通用しないばかりか、墓穴を掘ることになりかねないので、気をつけてください。
まぁ、蛇足ですので、気にしないでください。
反論もあるでしょうが、まずは「法華経は釈迦の言説か?」が解決しない限りは、平行線を辿ると思いますので、反論は不要です。

では、お返事をお待ちしています。


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これが貴方への最後の書き込みです

発言番号:65
名前:ツグミ
30歳
2005年12月02日09時09分

じゅん様

お久しぶりです。そして、今回が、貴方に対する最後の書き込みになりますことを、ご承諾ください。

さて、今まで議論してきましたが、貴方はどこまでも、法華経の真贋について追究したいという考えのようですね。宗教について、貴方は単なる趣味として研究すべきものであり、功徳があろうがなかろうが、そんなのは関係ない、と捉え、私は、実践・行動し、生活のうえによき結果(実証)を出すものと考えている。貴方がそう考えるのは、貴方の勝手ではありますが、この認識のギャップには、はなはだしいものがあります。
したがいまして、このまま議論を続けても、貴方が自ら仰ったように「平行線を辿」り、時間の無駄になるだけで、価値ある討論は何ら望めないと思うのです。

末法における法華経は、あくまでも「南無妙法蓮華経」です。法華経の中から南無妙法蓮華経の大法がすでに確立され、釈迦の説いた文上の法華経にはすでに人々を利益する力はないのに、「法華経は釈迦の言説か」などと、あたかもマラソンランナーがゴールを目指さず、途中で走るのを止めて「この道はゴールへの正しい道なのか?」と疑うような真似をするのは、厳しい言い方をすれば、仏教のイロハをまったく弁えていないと言えます。

末法の法華経=南無妙法蓮華経を実践するわが会の会員の何千人、何万人の人々が、人生蘇生の恩恵を享受してきました。貴方はそれを知らない。知らないから疑う。そしてわが会は世界190カ国・地域にまで広がり、わが会長は世界の人々から、25の国家勲章・420以上の名誉市民称号、170以上の名誉博士・教授・学長の学術的栄誉を受けています。こんな人が国内はもとより、世界のどこにいますか? 末法の法華経=南無妙法蓮華経に力がある証拠じゃあないですか。

率直に言いまして、私は釈迦の直接説いた法華経そのものには貴方ほどの知識はありません。なぜなら、上述したように、南無妙法蓮華経さえ実践すれば、人々は幸福になれるからであります。釈迦の法華経については、付随的知識があれば十分だからです。立派な建物が完成したというのに、建物を建てるのに使った「足場」についてどうこうこだわるような愚は、したくはありません。
よって、貴方が「法華経は釈迦の言説か」といった議論をするには、私では役不足でしょう。貴方が議論をこの先続けたいのであるのなら、仏教・宗教関係のサイトや掲示板はインターネット上にたくさんありますので、検索エンジンでしかるべきものを見つけ、討論に参加くださいますよう、ご提案いたします。

最後に私は、今日までの結論として、本当に正しい宗教とは、日蓮聖人の南無妙法蓮華経であり、それは日蓮仏法を実践する○○学会のなかにある、と宣言したいと思います。
ではじゅんさん、貴方に次の日蓮聖人のお言葉を捧げ、貴方との討論を終えたいと思います。
「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ」(立正安国論)

お付き合いいただき、ありがとうございました。

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お別れのあいさつ

発言番号:66
名前:ホトトギス
30歳
2005年12月02日09時30分

さて、約5カ月間にわたって続いた、この「本当に正しい宗教とは」のトピックも、最近では新たな書き込みもなくなり、宗教的求道心のかけらもない輩による“荒らし”の書き込みも目立つようになりました。「マイウェイ」の曲ではありませんが、「そして今や、終わりは近い」ということで、このトピックもどうやら終焉を迎えたようです。

そこで、私はこのトピックを閉じることにしました(といっても、物理的にできるわけではないので、私がここを去るだけです)。年を越せなかったのは残念ですが、物事には「潮時」というのがあるので、仕方ありません。今まで書き込みをしてくださった方、薄坊さん、早朝さん、TKさん、ねこじいさん、D.Aさん、KRさん、じゅんさん、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

いつの日か、またお会いできることを楽しみにしています。それでは、皆さんお元気で。さようなら。

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やっぱり、その程度でしたね

発言番号:67
名前:じゅん
30歳
2005年12月05日15時48分

ツグミさんへ

もう見ることはないでしょうが、一応、私からも最後のメッセージをいたします。

このような終わり方になるのは不本意ですが、まぁ、予測していたことでもあります。
つまり、法華経が釈迦の言説でないことには、反証など与えられないのです。ツグミさんの対応がそれを物語っています。
「他のサイトで・・・」と言っていましたが、こんなことは常識ですので、今さら話しのタネにもなりません。
この程度で逃げ出すくらいなら、最初からやらない方がまし、というものです。

さて、最後ですので、それぞれに反論いたします。

>さて、今まで議論してきましたが、・・・貴方が自ら仰ったように「平行線を辿」り、
>時間の無駄になるだけで、価値ある討論は何ら望めないと思うのです。
最初から感じていたことなのですが、ツグミさんは、相手のスタンスを勝手に決めつけて、その上で批判しているように思います。
価値のある討論にならないのは、ツグミさんのこのような姿勢にあるのです。
私がツグミさんと行おうとしたことは、仏教や経典の歴史を整理し直して、その中から、仏教を伝えてきた人々がどのような苦悩を持ったかを探ることだったのです。歴史的な事実をまず踏まえなければすべてが「釈迦の言葉だ」という迷路の中に入り込んでしまって、それこそ、無意味で無価値な議論になってしまうのです。
そもそも、議題を提起したのはツグミさんなのです。経典を議論の対象として扱うこと自体が、信仰とは相反する行為であることを、気付いているのでしょうか。

>末法における法華経は、あくまでも「南無妙法蓮華経」です。
>・・・厳しい言い方をすれば、仏教のイロハをまったく弁えていないと言えます。
この辺の理解の仕方は、ツグミさんの会の特徴ですね。
都合のいい時は法華経を持ち出して説明し、答えられなくなると「法華経には意味がない」と言う。日蓮さんが法華経にある通りの法難にあった話を肯定したいのか、否定したいのか、わかりません。
ちょっと感情的に言わせてもらえば、自分で自分のことを「役不足」と言う人に、「仏教のイロハ」が分かっていない、などと言われたくありません。

>末法の法華経=南無妙法蓮華経を実践するわが会の会員の何千人、
>何万人の人々が、・・・末法の法華経=南無妙法蓮華経に力がある証拠じゃあないですか。
そんなに熱くならなくてもいいんです。私はこれまで、ツグミさんの会や、会長に対しては特に価値判断をしていないわけですから。
疑っているわけではなく、関心がないのです。
どんなに名誉を手にいれようが、どんなに多くの人間を救っていようが、どんなに多くの有名人を客寄せパンダとして使っていようが、それは私の人生の問題の解決とは全く無関係ですから。

>最後に私は、今日までの結論として、本当に正しい宗教とは、
>日蓮聖人の南無妙法蓮華経であり、それは日蓮仏法を実践する
>○○学会のなかにある、と宣言したいと思います。
だから、これについては最初から私は否定なんかしていません。
何を信じるかは、勝手ですから。
私に言えるのは、「勝手に信じてればいいじゃん」「勝手に宣言すればいいじゃん」くらいです。
ただツグミさんの会に言いたいのは、人を巻き込むのだけはやめてください。別の信仰を持っている人に対して寛容であってください。自分の信仰するものが大事なら、他の宗教も学んでください。自分たちに向けられている批判に対して、耳を傾けてください。ということです。
ぜひ、そうしてください。
その上で、それでもその会に賛同できるのであれば、それを「信仰」というのだと、私は思います。
他者の言葉に耳をかさず、自分の信じているものを闇雲に押し付けるのは、信仰ではありません。
ちなみに、ツグミさんの会は、ツグミさんの話や議論に対する態度を見る限り、自己啓発の類のものかも知れませんが、断じて仏教ではありません。
自分たちの理論を正当化しようとするために、仏教を道具として使うその姿勢は改めるべきです。

「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ」(立正安国論)
ありがとうございます。私も早く信仰が持てるように努力したものです。

私からもツグミさんに言葉を送ります。
おそらく、釈迦の言説であろうと言われる数少ない言葉の中の一つです。
「かれら沙門、バラモンどもは、おのれの見解を持してゆずらず。
 ただ一部のみを見るがゆえに、人々は論じ争うて止まず」(小部経典・自説経)

では、
いつかツグミさんが、宗教についてまともに考えられる日がくることを祈っています。


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反論のため、一時復活

発言番号:68
名前:議題提案者
30歳
2006年01月03日14時52分

スポーツの世界などでも、一度引退表明した選手が、その後復帰したことはよくありますからね。

久々にこのトピックを覗いてみましたが、もう書き込みはないだろうと思っていたところ、あなたの書き込みがあったので読ませてもらいました。
まるで私が、あなたとの討論に恐れをなし、尻尾を巻いて逃げ出したような言い方をされるのは、正直言ってあまり気分がよくありません。このトピックを見ている他の人(といっても、どれだけいるかは疑問ですが)にも誤解を与えたくはないので、あなたに反論すべく一時復帰をしたいと思います。

さて、あなたは
>この程度で逃げ出すくらいなら
云々などと大言壮語されていますが、
>この問題については、順を追って議論していけばいいと思います。 今のところは、敢て保留にしておきましょう。
とか、
>羅什については、まだ先の問題ですし、また煩瑣になってしまうので、一時保留にしましょう。
>それ以下の部分については、 私は少し先走りすぎたようです。 まず、「法華経は釈迦の言説か?」にしぼりましょう。
などと、私の問題提起に対し、自分に都合の悪いことは巧妙に避けて、自分の得意分野に私を引き入れて、私をやり込めてやろうという姿勢が、ありありです。それでよく人のことを「逃げ出した」などと言えたものです。「自分のことを棚にあげて……」といったところですか。あなたの姑息な姿勢を感じます。そういう欺瞞性には、もう付き合いきれないと感じたから議論を打ち切ろうと、私は考えたのです。

>つまり、法華経が釈迦の言説でないことには、反証など与えられないのです。ツグミさんの対応がそれを物語っています。

「法華経が釈迦の言説でない」ことがわかったとしても、いったいそれでどうなるのでしょうか? 人間には生老病死の問題があります。特に生死の問題はどうなるのですか。肝心の人間には目を向けず、ただ理論だけを弄んでいる。単なる自己満足です。こういうあなたの態度からは、宗教に対する真摯な真理追究の姿勢など微塵も感じられません。

>私がツグミさんと行おうとしたことは、仏教や経典の歴史を整理し直して、その中から、仏教を伝えてきた人々がどのような苦悩を持ったかを探ることだったのです。歴史的な事実をまず踏まえなければすべてが「釈迦の言葉だ」という迷路の中に入り込んでしまって、それこそ、無意味で無価値な議論になってしまうのです。

はたしてそうでしょうか? 上述したように、あなたには、ただ、「法華経が釈迦の言説か否か」の問題を利用して、私を打ち負かしてやろうという、修羅闘諍の攻撃的な精神しか感じられませんが。たとえ百歩譲って、「法華経が釈迦の説いた教えではない」と判明したとしても、そのことで人々の苦悩が救われるというのですか? それこそ、無意味で無価値な議論です。

>そもそも、議題を提起したのはツグミさんなのです。経典を議論の対象として扱うこと自体が、信仰とは相反する行為であることを、気付いているのでしょうか。

そういう議論に参加したのは、いったい誰ですか? そうすると、あなたもまた「与同罪」で、信仰とは相反する行為をしているということになります。
また言いますが、「自身のことを棚に上げ」、高みから人を見下すような調子で人を論難する、あなたのそういう稚拙な言動は、私に対しては、いくらでもなさればいいですが、他の人には止めた方が宜しいですよ。相手は「馬鹿にされてる」と感じて、あなたに悪感情を抱くのは必至ですから。

>ちょっと感情的に言わせてもらえば、自分で自分のことを「役不足」と言う人に、「仏教のイロハ」が分かっていない、などと言われたくありません。

私が「役不足」と言ったのは、宗教を理論で弄び、自己満足する人間に対し、「宗教とは実践するもので、生活の上に実証を出すもの」と考える者は討論の相手としてはふさわしくないという意味です。あなたは、概して法華経(文上の)に関しては、私よりはるかに知識があり、切れる人です。しかし、仏法というのは、難信難解の法門です。それを「法華経は釈迦の言葉ではない。自分は、すべてわかっているのだ」と、自身の我見を根本として自己満足にふけるのは、「未だ得ざるを為れ得たり」と思う、道門増上慢の姿であります。

>そんなに熱くならなくてもいいんです。私はこれまで、ツグミさんの会や、会長に対しては特に価値判断をしていないわけですから。
疑っているわけではなく、関心がないのです。
どんなに名誉を手にいれようが、どんなに多くの人間を救っていようが、どんなに多くの有名人を客寄せパンダとして使っていようが、それは私の人生の問題の解決とは全く無関係ですから。
……
何を信じるかは、勝手ですから。
私に言えるのは、「勝手に信じてればいいじゃん」「勝手に宣言すればいいじゃん」くらいです。
ただツグミさんの会に言いたいのは、人を巻き込むのだけはやめてください。別の信仰を持っている人に対して寛容であってください。自分の信仰するものが大事なら、他の宗教も学んでください。自分たちに向けられている批判に対して、耳を傾けてください。ということです。
ぜひ、そうしてください。
その上で、それでもその会に賛同できるのであれば、それを「信仰」というのだと、私は思います。
他者の言葉に耳をかさず、自分の信じているものを闇雲に押し付けるのは、信仰ではありません。
ちなみに、ツグミさんの会は、ツグミさんの話や議論に対する態度を見る限り、自己啓発の類のものかも知れませんが、断じて仏教ではありません。
自分たちの理論を正当化しようとするために、仏教を道具として使うその姿勢は改めるべきです。

ほう、そうですか。結局、あなたは仏教を含めた宗教をバカにしているのです。宗教なんか実践して、いったい人々にとって何の価値があるのか、と。宗教には正邪があることも理解せず、すべて同じだと思っている。これこそ「アヘン」的な考えです。至極独善的ですが、ある意味うらやましいです。
「法華経は釈迦の教えではない」→「よって仏教には力がない」→「ゆえに宗教など意味はない」。これがあなたの導き出したい理論と思われますが、極端な話、法華経を説いたのは釈迦でないとしても、その法華経は現実に人々に利益を与えたのです。そこから日蓮大聖人によって確立された「南無妙法蓮華経」の題目を実践する○○学会において、幸せになった人は大勢いるのです。あなたが信じまいが、関心がなかろうが、動かせない事実です。
ましてや、「南無妙法蓮華経」という立派な建物が完成し、何の欠陥もないというのに、その設計図にすぎない文上の法華経の真偽について追究するなどというのは、途方もない時間の空費です。「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)。人生は短い。あっという間に終わるのです。

あなたは虚無主義者(ニヒリスト)ですね。「○○学会で人がいくら救われようが、そんなのは自分には関係ない」。このように考えるのはあなたの勝手ですので、どうぞご自由にしてください。ですが、他の人が○○学会で幸せになる権利を否定する“権利”は、あなたにはありません。憲法に規定されている「信教の自由」には、「選択の自由」「正邪論争の自由」「布教の自由」も含むのです。また、あなたは「○○学会なんか、自分には関心がないし、関係ない」といって、○○学会について何ら理解しようともしないのに、「自己啓発の類」とか「断じて仏教ではありません」「自分たちの理論を正当化しようとするために、仏教を道具として使うその姿勢は改めるべきです」などと、訳知り顔で、短絡的に結論付けないでください。このような姿勢は実に無責任で悪意すら感じます。ある人物・団体を論破したいのなら、それについて徹底的に研究してからにすべきでしょう。では、あなたにとって、何が仏教だというのでしょうか? 「人間の苦悩には目を向けず、机上の空論を弄ぶこと、これが仏教」とでも言いたいのですかね。

>では、 いつかツグミさんが、宗教についてまともに考えられる日がくることを祈っています。

この言葉は、そっくりそのままあなたにお返しいたします。あなたも、宗教に関して、理論を弄ぶだけで何の価値ある結果を得られず、いざどうにもならない苦悩に直面した時に、ただ右往左往するようなことだけは、なければいいのですが……。

一応、このトピックは終わっているので、反論は不要です。しかし反論を寄せたいというのなら、拒みはしませんが。

では。

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発言番号:69
名前:もも
22歳
2006年04月20日22時46分

まるで子供だね

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↑↑

発言番号:70
名前:たろう
22歳
2006年04月23日17時51分

じゃあ、貴様は赤ん坊だな(笑)

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正しい宗教

発言番号:71
名前:タオの穴ぼこ
48歳
2006年10月16日23時43分


「分け登る ふもとの道は 多けれど 同じ高嶺の 月を眺むる」一休
 

「万教同根」 出口王仁三郎

山の頂上から眺めて初めて観える世界
木の全体像を眺めて初めて観える世界

そこへ行くが為の 道しるべ
独りで歩けぬ者の 杖 

信ずるものは 不思議だ
その 道しるべが正しいかどうか
その 杖が 信じるに足るもであるかどうか
すでに 己が知っていると言うのだろうか?

「海陸の神々はこの樹を見つけようと
自然のくまぐまを探したが
彼らの捜索は全く無駄だった
樹は人間の頭脳に生えている」

↑ウイリアム・ブレイク 「知憂の歌」より

「己を疑う者 その道を信じなさい
自らを信ずる者 その道を疑いなさい
正しい道は そこにあります」
 
↑By タオの穴ぼこ ^^;

  
  ご無礼いたしました m(_ _;)m



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メンタルヘルス

発言番号:72
名前: あだち
50歳
2007年05月31日13時30分



     失礼します
         「こころを強くするメッセージ」のご案内  

    ■□■□■□■ 「いま」 この時を生かす ■□■□■□■
        
     今日が明日に続くという絶対保証はありません。事故・急病
    ・災害――次の瞬間はまさに未定なのです。

      したがって、今日為すことを精一杯なすこと、イマ為すことを
    懸命になすことです。昨日は去り今日はあるけど、明日は来な
    いかもしれない、この想いをしっかりと叩きこむことです。

      今日が全てである、このコトバを魂に刻みこむことです。
    「イマ」を生きること。次に「イマ」に専念すること。そして「イマ」を
    最大限に用いること。ついでに「イマ」を失なわないこと――
  
     幸せとは悔いをのこさないことです。数多くの不満はイマを
    満足に為さないからです。

  
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