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提案者基調 |
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いまは怖い 発言番号:2 名前:どんどこ 2002年08月18日00時36分 失業して日雇いで食ってる時、本当に思った。自分の人生、これで終わりかなあ、一生この境遇で生きていくんかなあ・・・。あのころって生きててもしょうがないやって、本当に思ったなあ。 何とか食っていける職業につけた今、思う。 もうしばらく生きていたいってね(笑) 単純と言うのか、なんというのか・・・。 |
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こわいとかそう言うのとは違うかな・・。 発言番号:3 名前:yuka 2002年09月19日01時09分 こわいと言うか、どうしようもない事。 生まれた瞬間にいつか死ぬって決まっているわけだし。 じゃその死を意識していきてるかといえばそんな事はないけれど、 始まりと終りがあって、人じゃなくったって 動物、植物、極端に言えば地球って星だって 産まれればいつか死んでいく。 だから、私が死ぬのも自然な事だと思う。 できれば、沢山生きて、楽しく、安らかに死にたいって思うだけ。 私はこわいとは思わない。 |
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『死』そのものよりも 発言番号:4 名前:くー 2002年09月23日15時42分 人が一人死ぬことによって もたらされる環境の変化が恐い その人が死んだら、自分がどうなってしまうか 考えられない |
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生きてる間はね。 発言番号:5 名前:まや 2002年10月15日23時59分 未知、つまりその人の持っている情報に相当するものがない状態のとき、人は恐怖するのだとわたしは思っています。 死というものをどうして怖いと感じるか(感じてない人もいるでしょうけど)、それは、生きている者にとって死は永遠に未知のものだからでしょう。自らの死という状態の情報を持っている生き物はいません。その先に何があるのか、或いは何も無いのか――臨死体験というものをした人の言葉さえ、参考にはならない。それを他者に伝ええたということは、結果的に死んでいない、本物の死の体験ではないんですから。 考えてもみてください、死を『生者の想像や体験など遠く及ばない最悪の状態』だとした時、それでも『死んだほうがマシ』などと言えるでしょうか? 言える、などとほざいた(言葉は悪いですが)人、甘えないでください。死の先に待っていたのが『生きてたほうがマシ』なものだったとしても、取り返しはつかないんです。後悔しても(後悔できるのも生者の特権でしょうか?)手遅れなんですよ。 ……興奮して微妙に矛盾したことを言ったような気もしますが、気にしないで納得のいく所だけ頭に留めてください。それを踏まえて、わたしは死は恐れるべきものととらえています。 これを読んだ人の中に、どんな理由にしろ自ら死を選ぶ道を考えている人もいるかもしれません。でも焦ることはありません。死にたきゃ生きてなさい、死は確実に近づいてきているんだから。(←これは自殺云々のところに書くべきことかもしれませんが) 願わくば、死ぬその前には、最後の最後に死の何たるかを学ぶ瞬間には、『ああ、自分の人生悪くなかった』とプラス評価ができるようにしたい。そういう穏やかな死を迎えたい。 ……とりあえず自分は当分死ぬ予定はありませんが。 |
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仏教にとって「死」とはなにか 発言番号:6 名前:面絽亭 玉蘭 2002年10月28日18時43分 抹香臭いかもしれませんが、ブッディストの高齢になられた方々が、何となく分り又、死と言うものについてソフトランディングされる物に、ひろさちや さんの「般若心経」生き方のヒントという本があります。 この中の仏教にとって「死」とは何か の項が参考になると思います。 まやさん、心理学の配信を楽しく見ています、うつなどでの自殺を少しでも減らせるように今後とも、楽しい企画をお願いします。 この欄を利用してPRもされては如何ですか。 |
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別人です…… 発言番号:7 名前:まや 2002年10月29日20時41分 >面絽亭 玉蘭さんへ すいませんが、人違いだと思います。 わたしはそういう活動やったことありませんし、そんな専門的な知識は持ってません。そこらのごくごくフツーの学生で、今改めて読み返してみたら、「気取ったこと書いてんなぁ自分……」などと呆れるやら恥ずかしいやらです。 |
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うん。 発言番号:8 名前:とくめい。 2002年11月23日15時19分 始まりだと思う。 |
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死後の世界はほんとにあるの? 発言番号:9 名前:ふつうのひと 2002年12月11日13時24分 わたしは霊感もなければ臨死体験もないごく普通の日本人です。だから死後も『世界』があるのかないのかまったくわかりません。自分が死んでも他人は生き続けるし世界も存在し続けると素朴に思っています。でも自分自身にとっての『世界』はどうなってしまうのでしょうか。自分がなくなればそれに対応する『世界』も当然なくなると考えられます。だから死が自分と言うものがなくなることだとすれば死後には自分にとっての世界はないことになり『死後の世界』という言い方は論理的に矛盾していることになりますよね。論理的に矛盾していることをどうして真剣に考えてしまうのかなあ。それとも死とは自分が終わることではなくて形を変えて存在し続けることだとすれば「死後の世界」にも意味があることになるよね。『死後の世界』をいろいろと考えて不安になったりしている人たち(僕も含めて)は死後も何らかの形で自分と言うものが存在し続けるということを自明のこととして前提していることになるんだよなあ。どうしてそんな風に考えちゃうのかなあ。それは死んだら何もなくなるということが怖いから?死ぬのが怖いくせに生れる前は怖くないのはどうしてかなあ。死についてちゃんとわかっている大人は少ないと思うけど何か参考になることがあったら教えてください。 |
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大学より 発言番号:10 名前:2時16分 2002年12月11日14時48分 生きることへの未練でしょう。 だってなんか楽しいことがあるかもしれないから。 |
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死は論理上は生の否定 発言番号:11 名前:伊集院竹千代 2002年12月29日13時01分 「死は恐い」というか、「死にたくない」とは思います。 死は論理上は生の否定ですから、いまあるこの生を肯定的態度で 営んでいる人にとっては死はいまの自分の否定として立ち現れる。 この点からすれば、死は必然的に忌避し、拒絶すべきものとして とらえることになります。 あるいは、死はわたしたちにとってなにものでもないという 見方もできます。わたしが存在するときに死は存在しないし、 また、死が存在するときにはもはや私は存在しません。 こうしたことから死を考えることは愚かなことだとして、 むしろわたしたちはいまの生をこそ考えるべきだという意見は なるほど説得的であり、現実的でしょう。 しかしながら、単純な論理で腑に落とせるほどこの問題は 簡単ではない。論理を超えてなお残る死への想いは そうたやすく拭いされるものかは、はなはだ疑問です。 さて、上記で述べたことは「わたしの死」に関するものでした。 これは同時に、たかだか「わたしの死」に関するものにすぎない、 とも言えます。死についてはこうした「だれだれの死」という とらえ方のほかに、だれの死でもない概念的な死というものが あるのではないでしょうか。つまり経験では語れない 死のイメージとでも言うべきものを人は持っていると思うのです。 この観念的な死の「わかり方」こそがもしかしたら死についての 議論の根幹をなす重要なテーマだと思うのですがいかがでしょうか。 |
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怖い、かなぁ? 発言番号:12 名前:ユル 2003年04月27日23時37分 えーと、怖くないっす。 私の場合、怖いのは「死ぬこと」より寧ろ「痛み」かな? 痛いのが怖いから、死ぬのは怖い、という感じで。 死ぬこと自体はそんなに怖くないと思う。 今すぐ死ねって言われて、死ねますよ。ええ、絶対に痛くないのなら。 . . 絶 対 に 痛 く な い な ら ね 。 死んだ人の話は聞けないから、 痛くないだの何だの解らないじゃないですか。 だから、結果的に死ねませんが…。 |
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あーよかった 発言番号:13 名前:ふー 20歳 2003年10月28日19時39分 僕は小さい頃から兄貴にいじめられて 育ってきたしかも12のとき父と母は離婚し よくもう自殺しようかと思った事もある でも今は暮らせるほどの職業についたし 今生きてて良かったと思う。 僕は死については恐くは無い 何故なら結局死んでしまうしだから恐いというよりも 今を楽しく生きたい |
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怖いにきまってます 発言番号:14 名前:匿名希望 20歳 2003年11月23日03時40分 自殺願望が生きる願望より強い精神状態の時は別ですが。 |
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怖い。でも今だけ 発言番号:15 名前:きま猫 19歳 2004年03月02日21時26分 今は若いから怖いけど歳をとってきたら不思議のことに 変わってくるだろうよ。楽っていう言葉が出るから。 死=無 だろうね。 |
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「死」は恐れずに足りず。 発言番号:16 名前:Believer 40歳 2005年03月26日12時17分 「『生命とは何か』『この世だけの存在であるのか』『それとも永久に続くのか』これこそ、永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。桜の木がある。あの枝を折って、花瓶にさしておいたら、やがて、つぼみは花となり、弱々しい若葉も開いてくる。この桜の枝の生命と、元の桜の生命とは、別ものであるか、同じものであるのだろうか。生命とは、ますます不可解のものである。生命とは、宇宙と共に存在し、宇宙より先でもなければ、後から偶発的に、あるいは何人かによって作られて生じたものでもない。宇宙自体が生命そのものであり、地球だけの専有物とみることも誤りである。……アミーバーから細胞分裂し、進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。しからば、灼熱の地球が冷えた時に、なぜアミーバーが発生したか、どこから飛んできたのかと反問したい。地球にせよ、星にせよ、アミーバーの発生する条件が備われば、アミーバーが発生し、隠花植物の繁茂する地味、気候の時には、それが繁茂する。しこうして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、いたるところに条件が備われば、生命の原体が発生するのである。 ゆえに、幾十億万年の昔に、どこかの星に人類が生息し、いまは地球に生き、栄えているとするも、なんの不思議もないのである。……あるいはタンパク質、そのほかの物質が、ある時期に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはいかないのである。生命とは宇宙と共に本有常住の存在であるからである。 (人は)喜んだとしても、その喜びは時間が経つと消えてなくなる。どこかへいってしまったわけではないが、心のどこかへ溶け込んで、どこをさがしてもないのである。しかるに、何時間か何日間かの後、また同じ喜びが起こるのである。また、あることによって悲しんだとする。何時間か何日か過ぎて、そのことを思い出して、また同じ悲しみが生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、前の悲しみと、後の悲しみと、立派な連続があって、その中間はどこにもないのである。 同じような現象が、われわれ日常の眠りの場合にある。眠っている間は、心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて、起きている場合には心がある。有るのが本当か、無いのが本当か、有るといえば無いし、無いとすればあらわれてくる。 前にも述べたように、宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする。死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみとの間に何もなかったように、喜びと喜びの間に喜びがどこにもなかったように、眠っている間、その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命に溶け込んで、どこをさがしてもないのである。霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。大自然の中に溶け込んだとしても、決して安息しているとは限らないのである。あたかも、眠りが安息であるとは言いきれないと同じである。眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りに悩んでいる人もあると同じである。 この死後の大生命に溶け込んだ姿は、経文に目をさらし、仏法の極意(南無妙法蓮華経=妙法。日蓮聖人という方がお説きになった)を胸に蔵するならば、自然に会得するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目に移る生活活動となって現れてくる。ちょうど、目をさました時に、きのうの心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。 かくのごとく、寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永久の生命を保持している」 これは、仏教を実践する或る団体の第2代の指導者(「教祖」ではありません)の言葉です。私はその一員です。我々の仏法では、人間は死んだ後、何かの縁に触れて再びこの世に生まれてくると説きます。つまり、我々の生命は終わりもなければ始まりもなく、「過去」「現在」「未来」と、三世にわたって永遠に続くと考えるのです。 この第2代会長の弟子である、現在の指導者も「(この妙法があれば)『生も歓喜』『死も歓喜』と三世永遠にわたって絶対的幸福境涯を満喫していけるのである」と指導されています。 これ以上は長くなるので申し上げませんが、「死は恐れずに足らず」というのが私の結論です。 |
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