鬱は本当に病気?
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提案者基調
鬱は本当に病気?

発言番号:1
名前:kk
2003年01月11日23時43分

私は過去に鬱「病」で入院したことがあります。
最近思うのですが鬱は本当に「病気」でしょうか。
正直に誤魔化しなしに自分を観ようとしたら誰でも鬱になる可能性はあるのでは?
よほどの聖人でないかぎり。
むしろ鬱にならない健康者のほうがある種の「病気」ではないか?
と思いはじめてるのですが。
鬱を「病気」とみなす事で守られる社会がある。
徹底的な自己省察から生じる見解は社会を脅かす。

ご意見あったらお聞かせください。




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う〜ん。

発言番号:2
名前:モンジ
2003年01月12日15時59分

鬱も2種類あって1つは、本当に鬱になってしまって治療しないとと治んないらしいけど、2つ目の鬱は、気分的に鬱な気分になってしまっているだけで、気分で治るらしいです。

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自分を観て鬱になる、に限定しますが

発言番号:3
名前:早朝答練
2003年01月12日23時45分

単純に善と悪に分けるならば、僕の心にも相当悪なものが宿っていますが、
人間や社会の在り様をもって善と悪にわけているわけですから、
人間や社会に悪があるのは当然だという前提に僕は立っています。
善と悪の基準は、はじめに人間や社会の在り様ありき、だと思います。
とは言っても、僕も個人ベースで他の人と相対的に比較したときに、
自分の中の醜さや情けなさに時々うんざりしてしまいます。
でも、悲観的になるだけでは変わらないので、
なくせるものはなくし、なくせないものはコントロールする術を身に付けるしかないと思ってます。


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鬱に付いての私見

発言番号:4
名前:kk
2003年01月13日10時29分

鬱の状態にもいろいろあるとは思いますが・・・

私が言いたいのは鬱を単なる心の「病気」として捉え、本人にもそのように納得させようとすることによって、周りの人間が守られている、という現実があるのではないか、ということです。

鬱病者の心理状態の中には確かに妄想に類することもあると思いますが、観察が自分自身に向かうことによって「人生の意味」とか「生きる目的」とかを真剣に問う、安易な誤魔化しなしに問う、という要素を含んでいると思います。
そのような問題を真剣に問うことなしに成り立っているのが「この世の中」なのではないでしょうか。

鬱「病」は確かに危険な要素(自殺など)を含んでいますが、その中には単に「病気」としてかたずけてはいけないものがあると思います。

最近の風潮として鬱は心の「風邪」のようなものだ、誰でもかかる可能性がある(その通りだと思いますが)として、鬱を心の病気としてかたずけてしまう傾向があると思います。

しかし私はあえて言いたい。

鬱は病気ではない。

鬱はあなたが正常になろうとしている証拠だ。

この世の中に生きていて鬱にならない人のほうがよっぽど「病気」だ・・と。

ご意見、反論などお待ちしています。


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単純に言うと

発言番号:5
名前:白いヤツ
2003年01月14日01時02分

単純に言うとあなたは、うつ病の方を倫理的に良く考えた結果であると考えているようですね(観察が自分自身に向かうことによって「人生の意味」とか「生きる目的」とかを真剣に問う、安易な誤魔化しなしに問う、から)。

確かにそういった方がかかりやすいと思いますが、
全員がそうなのでしょうか、むしろ私はうつ病になったから、私は人生について他人より良く考えていると思ってしまうことに非常に問題があると思うのです。
理由はいくつかありますが、
簡単には、一つには「例外は必ず存在する」ということでしょうか。
要するに、先天的に神経伝達系のリガンドやレセプター自体、それらの発現段階に欠損のある方などでしょか。
もう一つには、この世の倫理観の大部分はマジョリティーを形成する者達によって作り出されているからです。
自分を希少な存在と考えて、誇大妄想に取り付かれて、マイノリティーを叫んだところで市民権は得られないように感じます。

もっと、違う手法を選ぶことをお勧めします。
因みに、私はうつ病は病気だと考えています。

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いいすぎでした

発言番号:6
名前:kk
2003年01月14日10時38分

白い奴様へ

おっしゃるとうり鬱病にもいろんなタイプがありひとまとめに論ずることはできないと思います。
「鬱は病気ではない」とすれば「鬱でない人はみんな病気だ」ということになりこれはいくらなんでも乱暴すぎる話だと反省しております。
問題は私が人生の問題を直視しようとすると明るく希望的な気持ちにはなれないということでしょう。このことを自分自身に対して「これは鬱状態だから、病気だから」と考えて納得させようとするのは何か卑怯な行為と感じられる。
これも鬱の症状ですかね。
ちなみに「白い奴」様は人生の問題に対してどのような方法で対処しておられるのでしょうか。
差しつかえのない範囲でお聞かせ願えれば幸いです。

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KK様へ

発言番号:7
名前:白いヤツ
2003年01月15日00時33分

人生に対する問題についてどう考えているか?
残念ながら、どれだけ具体的に書こうとしても、それぞれの状況や問題の見方によって自分らしいと思われる考え方や、行動は変わっていくので一まとめにして語ることは不可能です。

それでも敢えて、かなりアバウトになって申し訳ないのですが、書くとすれば、「矛盾を否定しない」でしょうか?
違う角度からそのことをいうと、「悪を否定しない、悪を自分の一部と考えることができる」、逆もしかりでしょう。

局部的な話から、お互いの考えをすり合わせていくしか、言葉を超えて理解しあうことは無理でしょう。

ですので、話が飛躍したり、破局に陥る危険性があることを覚悟して、これからの展開を続けるかどうかです。
嫌になったら止めればいいや位の方がお互いに良いのかもしれません。
何か思っている話のきっかけがあれば書き込んでください。
もしなければ、あなたが望む方向ではないかもしれませんが、こちらから提案してもいいです。
では、また適当な時に。

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ご返答ありがとうございます

発言番号:8
名前:kk
2003年01月15日10時49分

白いヤツ様へ

丁寧なご返答誠にありがとうございます。
ご指摘のようにこのようなサイトでどこまで理解し会えるのか甚だ疑問ではありますが誤解を恐れずに自分自身の問題点を提示してみたいと思います。

誰しも若いころ(私もまだ若いつもりですが)「人生の意味」や「生きる目的」について考える時期はあるのでしょう。
私もご多分に漏れずそうでした。

私の場合は身近な人間の突然の死に遭遇して、「人生の無意味性」に直面してしまいました。それが一つのきっかけとなり鬱状態に陥り、なんとか医者の助けを借りて「社会復帰」し、仕事をし家庭をもち現在に至っています。

しかしいま現在の自分自身を省みると、若いときに直面した「人生の無意味性」に決着がついているかというと決してそうではありません。仕事や趣味、身近な目標などに没頭することによって、「それ」を見ないようにしてきた、というのが正直なところです。

私自身が率直に自分自身や世界を見ようとすると、そこに何らかの「意味」を見出すことはできない、と感じます。これは私にとって苦しいことです。

これに対する対処法としては

1)そのような問うてもしょうがないような問いは問わないことにして、仕事や家庭や趣味に没頭して、身近な目標を設定したり気晴らしをしたりして生きてゆく

2)何らかの宗教を信仰したり、大きな人生の目標をかかげて生きてゆく

の二つが考えられますが、どちらにしても「人生の無意味性」から目をそむけて生きていくことに変わりはありません。私も含め世の中の大部分の人は1)の方法で生きていくことができるでしょう。しかしだからといって「虚無」が無くなる訳ではなく「虚無」に蓋をした人生はどこか脆くあぶなっかしいものでありつづけるでしょう。

私が「鬱は病気ではない」などと無謀な発言をしたのも、人生の「無意味性」「虚無性」に蓋をしなければこの社会は成り立たないのではないか、と思ったからです。

私としては1)や2)の方法で生きていくのも可能だと思いますが、心のどこかに「それは卑怯だ」「おまえは誤魔化している」という気持ちがあります。

1)でも2)でもない方法があるのか、あるとすればどのような方法なのか。

もしなにかご教示頂けることがあれば教えていただきたいと思います。

このような世迷言にお付き合いいただいて恐縮です。
























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人生無意味派です

発言番号:9
名前:たまごっち
2003年01月15日13時03分

KKさん、こんにちは。
興味があって書き込んでみます。

人生に意味があるか、ですが、KKさんはないと感じているようです。
しかし、KKさんにとって人生に意味がないのか、あるいは普遍的に、人間が生まれて死ぬことには
意味がないとお考えかを教えてください。

KKさんを追いつめる意味で書いているのでは決してありませんが、
私も人生に意味はないと思います。しかし毎日そこそこ楽しく暮らしています。
私とKKさんのような人との差は何だろうか、といつも思ってました。

それではまた

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たまごっちさんへご返信

発言番号:10
名前:kk
2003年01月15日14時17分

たまごっちさんへ

ご質問<kkさんにとって人生に意味がないのか、あるいは普遍的に、人間が生れて死ぬことには意味がないとお考えなのかを教えてください。>

自分自身よくわかっていない部分も多々あるとは思うのですが、直接的には自分自身のことを考えていると思います。しかし自分とは何かを定義しようとすると、この体が自分なのか、この心が自分なのか、この心が捉える世界(体、心、自己、他者、外界など)も全て自分と言うものの中に含まれるのか、はっきりしないところがあります。わたしが人生に意味がないと考えるときはとても広い意味での自分(他者や外界を含んでいる)になっているようです。

しかしこれはあくまでも自分のことであって人様のことをとやかく言う資格はありません。

<私も人生に意味はないと思います。しかし毎日そこそこ楽しく暮らしています>

私も同じです。もし24時間「人生は無意味だ」などと考えていたら発狂するか自殺しているでしょう。テレビを見て笑っていることもあります。家族で団欒していることもあります。友達と酒を飲んでいることもあります。
はっきりいって「人生の意味」など考えていない方がずっと長いでしょう。

ただ時折ふと考えることがあり、その時は自分の無力さを感じます。それで
「無意味性」から気をそらすことはできても根本的に解決できてはいないのだな、と感じるわけです。その程度です。あまり心配しないで下さい。

それではまた。




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家庭を営む人

発言番号:11
名前:たまごっち
2003年01月15日19時38分

KKさん、お返事ありがとうございます

>わたしが人生に意味がないと考えるときはとても広い意味での自分
>(他者や外界を含んでいる)になっているようです。

これは、自分や自分を取り巻く環境には意味がない、と言うことだと思います。

さて、自分の生活や環境に意味がないとしたら、「こんなもんぶっこわれてしまえ!」といって
逸脱行動をする人がいますが、KKさんの場合はどうなんでしょうか。書き込みからは、
逸脱行動どころかむしろ「平穏に」暮らしているように思われます。
世の中には親になれるほど成熟してないのに子供を産んで、あげくに虐待するような人だって
います。結婚していても実態は仮面夫婦で、お互いに不倫しているカップルだっているでしょう。
要するに、家庭なんて(あるいは社会なんて)営む能力とやる気のあるヤツだけが営めばいいんだ、っていう考えも
十分アリだと思います。このあたりについてはどのようにお考えですか?

ちなみに私はKKさんに生きる目的を持て、とも人生には意味があるとも主張するつもりは
ありません。一つの経験として、どうしてこのように考えるのか、など聞いてみたいという
意図で書き込んでますので、もし「助け」を求めたい場合は、私の書き込みなんか
無視しちゃってください。

それではまた。

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返信

発言番号:12
名前:kk
2003年01月15日20時42分

たまごっちさんへ

私にとってはとても難しい質問です。誤解のないように願いながら答えられる部分だけお答えしたいと思います。

「逸脱行動をするか」−私は鬱になるような人間です。いくら人生が無意味だと感じても外界に対して破壊行動に出るようなことはないでしょう。どちらかというと自分を破壊してしまうタイプです。

「平穏に暮らしているか」−比較的平穏に暮らしている方だと思います。

「世の中には親になれるほど・・・・」−鬱病者の中には育った家庭環境に問題がある場合がかなり多いと聞いています。私の場合は比較的平穏な家庭に育っているのでもしかしたら肉体的、遺伝的な要素が強いのかもしれません。

子供の頃虐待を受けて、それが心の傷となり鬱病になっている人も多いのでしょう。そのような人たちの書き込みをたまに見ることがありますが、この世界に対するどうしようもない怒りと無力感を感じることもあります。

そのような人たちには「愛」を説く宗教が必要なのかな、と思うことがあります。

以上全く答えになっていなかったかもしれません。ごめんなさい。

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矛盾

発言番号:13
名前:白いヤツ
2003年01月16日01時45分

KK様へ

「虚無感」ですか。
先に言っておきますと、私はうつ病にはかかったことはありません。
うつ病にかかった友達なら6人います。
別にそれはいいのですが。
私とうつ病との関係はそんな感じです。
後、私は生物学を専攻していた関係と、現在の仕事の関係で多少なりと、うつ病を生理学的な見地から、考える傾向があるように思います。

さて、虚無感が私を襲い、無気力状態になることを想定して、今のところ私が行っている心の準備は、(1)にあるように、趣味を持つこと、身近な目標を立てること、それに友達を大切にすること、(2)大きな人生の目標を掲げること、があります。
それ以外にはといわれると、先だって書き込みました「矛盾を否定しない」という概念を私自身納得することです。

確かに、「人生に意味はない」と確定されることは絶望でしょう。
事実、私は運命予定説(ヒトの運命は神によって予め定められている)と、ニュートン力学(初期状態が定まれば、その運動の結果は決まる)を学んだとき、絶望に等しい不安感に教われました。
もし、物質から成る私達が真にニュートン力学の世界の住人だとしたら、神によって定められた(ビックバーン説を宗教的に言うなら、神の一撃でしょうか)最初の状態で、今現在の私が考えることは、もはやその時に、決まっていたことだということになってしまうからです(まさしく、運命は決まっているかのように)。
だから、今なにを考えていようと、何をしようと、何を悩もうと、それは既に決まっていること、決められたことだと言えるのです。

学問的にこの考えを超えることは今はできています。
それは、貴方のいうように、誤魔化しが含まれています。
長くなるので、キーワードだけを書き込みますと「カオス理論」と「不確定性原理」です。理解としては広辞苑に乗っている意味を理解すれば十分です。変な数式は必要ありません。後、「神経の伝達方法」によっても多少救われています。

上の文章は少し余談になりましたが、
私は、ヒトは意味を求めずにはいられない生き物だと思います。
本当は意味のないことだとしても、それは恐怖でしかないのです。
意味を与えれば、それは恐怖ではなくなるからです。
例えば、ヒトは昔から、噴火や洪水、地震などの天災を、人生に何らかの関連性を持たものにしようとしたり、神なるものの意思によってもたらされた試練だとか、何らかの意味を持たせようとしてきまいた。
本当は意味はないであろうが、なかろうが、このことから生きるのには、ヒトにはやはり意味が必要なのではないかと思います。

だから、人生の終焉を死という無機質なもので締めくくると「無意味さ」が「虚無感」となって心を支配することは至極自然な結果だと思います。
私は、生物学を学ぶものとして、生命の連続性に神秘性と、意味を感じられます。
生命のそれ自体を無意味とするには、あまりにも生物が面白いために私はそこに至らずに済んでいます。

余談になりますが、私は宗教を弱者の逃げ場だと考えていた頃がありましたが、最近ではちょっと異なります。
むしろ、あまり多くの宗教を知っている訳ではないし、深くは知らないのですが、キリスト教を信仰しているヒトは、その教義と現実との矛盾に悩んでいるのではないでしょうか。
その矛盾を抱え、それでも信仰を続けることができるなら、私は盲信ではなく、意味のある行為だと思えます。完全な私見です。

以上のようなことを、私はよく
「不確実で揺らぐ世界にあって、確実性を求めるヒト」
と、位置付けています。

私の考える「矛盾を否定しない」とは、人生を無意味に感じることと、人生に意味を与えることは矛盾しないということなのです。
歪を悪いとは思わないということでもあります。

「不確実で揺らぐ世界にあって、確実性を求めること」
「虚無から、実を得ること」
「無意味から、意味を求めること」
これらは、まるでヒトを善と悪に分けるならどっちですか?
と質問しているようです。
性善説と性悪説だったでしょうか?
私にとっては、どちらも正しくなく、渾然一体をヒトと考えています。
ヒトによっては、正に玉虫色てきな発送だとうつるでしょうが。

ちょっと、長くなって話が飛散して申し訳ありません。
では、また。

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返信

発言番号:14
名前:kk
2003年01月16日11時09分

白いヤツ 様

率直で丁寧なご返信を頂き感謝申し上げます。

貴方様は自然科学の分野から人生の問題にアプローチされておられるようで、文科系の浅学非才の私には理解の及ばない点も多々あるかとは思いますが、誤解を恐れずに私見を述べさせて頂きます。

「矛盾を否定しない」こととは「矛盾を矛盾として受け入れること」と解釈してよろしいでしょうか。もしそうだとすればこれはかなり強い精神力が必要な心の態度だと言えるでしょう。私の感覚としてはある種の非常に強い「心の苦しみ」を伴う心的態度だと感じられます。

<ヒトは意味を求めずにはいられない生き物だと思います。本当は意味のないことだとしてもそれは恐怖でしかないのです>

全く同感です。ここらへんに人間が(私が?)救われない根本的な問題があるのではないかと最近思い始めています。

ある種の相対主義に逃げ込むことも可能でしょう。例えば

右があるから左がある
上があるから下がある
病気があるから健康がある
善を求めるから悪が怖くなる
意味を求めるから無意味が怖くなる

この世には絶対的な右も、絶対的な上も、絶対的な病気も、絶対的な善も、絶対的な意味も、ありえない。だからそれらを求め続けることは全て徒労に終わる。何事も気にしないことだ。全ては根拠のないたわ言だ。(ある種の宗教家に言わせたらお前の言っていることこそたわ言だと言われそうですが)などとほざきつつ内心はビクビクしながら生きていく。かわいそうな私。というところでしょうか。

人がどうして「意味」を求めるのか、「無意味を恐れる」のか。
という心の構造にメスを入れていかなければ、どうにも解決の糸口は掴めないのではないか、と最近考えるようになっています。

大変手前勝手な話ばかりしてしまいました。
もし何か思うところがありましたら暇なときにでも書き込みしてください。

ではまた。














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何故意味が重要なのか

発言番号:15
名前:たまごっち
2003年01月16日15時42分

KKさん、白いヤツさん

話がかなりいろんなところに飛んできました。私からはとりあえず1点説明です。
ちなみに白いヤツさんは理科系ですが、私は文化系です。大学で法学を研究してます。

>人がどうして「意味」を求めるのか、「無意味を恐れる」のか。

これは一応、キリスト教的思考方法に源流があると理解されています。
おおざっぱに説明すると、キリスト教では、人間は死んだときに、神様に救済されると完全無欠な存在になると
されています。だから神様に救済されるかどうかは重大問題です。神様は、人間の現世の行動とは「全く無関係に」
誰を救済するかを決めているので、「じゃあ、俺らが(まじめに)生きている70年そこそこの人生って
いったい何なのよ?」ってことになり、人生の意味を問うようになったと言われています(ちなみに勤勉であることに
意味がつけられたために、資本主義の成立につながったというのが一般的な理解です)。逆に、
「死んだ後のことなんかどうでもええわ」という一見、不真面目な突き抜けちゃった人は、人生の意味を問うたりしません。
キリスト教が成立するよりももっと前の原始的な時代では、生き残ること自体が重大な意味を持っていたことから、
「今自分が生きている」ことを祝福することが大事でした。この祝福の行為が、お祭りの原型です。今を生きている、
今の人生を楽しんでいる!という感覚が優先している人は、人生の意味をわざわざ問うたりしません。言い換えると
今を生きていて、明日も生きていることが当たり前の社会(=近代社会)では、人生の意味が重要になってきます。

一つの参考にしてください。それではまた。

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生と死

発言番号:16
名前:kk
2003年01月16日17時40分

たまごっちさん こんにちわ

なんだか議論が三つ巴の様相を呈してきたようで面白くなってきましたね。

ちなみに私は学生時代にほんのちょっと哲学をかじった事のあるそこらへんにいる「普通のおじさん」ですのでお手柔らかにお願いします。
キリスト教についてはほとんど無知の状態で、イエス・キリストは愛の人だなと漠然と考えている程度です。

さて、意味ー無意味の話は、生ー死または楽ー苦に置き換えてもおなじです。
つまり
人はどうして「生を求める」のか、「死を恐れる」のか
人はどうして「楽しみを求める」のか、「苦しみを避けようとする」のか

生存を求めるから死を恐れる
楽しみを求めるから苦しみを恐れる

わたしが無意味性に恐怖を感じるのは、死に恐怖を感じるのとほとんど同義かもしれません。

<今の人生を楽しんでいる!という感覚が優先している人は、人生の意味をわざわざ問うたりしません>

全くそのとうりだと思います。私も何かスポーツをやっている時など人生の意味を問うてなどいません。そんなことしていたらスポーツにならない!ただ24時間そうしていられるかというとこれは難しい。休むときもあればあれこれと役に立たないこと(人生に意味があるかなど)を考えることもある。きっと問題は24時間「今」に徹しきれないことかもしれませんね。

ちなみに悲観論者の私は10秒後に地球が滅亡することを100%否定できない。あ、もう10秒経っちゃた。じゃあ次の10秒後・・・・

笑ってやってください。







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ゆっくり、ゆっくり、、、

発言番号:17
名前:白いヤツ
2003年01月16日23時28分

はじめ、分かり合おうとするとバックグラウンドを吐き出し早くお互い理解し合おうと力んでツイツイ書き込みの回数や、量が多くなるものですが、私も例に違わずその傾向があるようです。
ですが、せっかく、この掲示板で互いに意見をかわす幸運を得たので、もっとゆっくり楽しむために、少しずつゆっくり肩の力を抜いてやっていこうと思っています。
また、私はもともと筆まめな方ではないので、毎日書くのは正直めんどうです。
ですので、一週間位書き込まないときがあるかもしれませんが、シカト決め込んでる訳ではないのでご了承ください。
昨日も、書き込もうかどうか悩んで、悩んでるヒマがあったら書き込んでさっさと寝ちまおうと思い、とりあえず書き込み、読み返すこともせずに登録したので、今読み返すと誤字脱字、そして話のまとまりの無さにちょっぴり凹んでいます。
まぁ、そんな訳で私はゆっくりやらせていただきます。

本当は今日はそういうことだけ書き込んで、また今度といきたかったのですが少し書き込みを続けます。

何故意味を求めるのか?
それは、恐怖から逃れるためである。
恐怖とは何か?
逆説的ではあるが「無意味」である。
さらに進めて言うと、恐怖から逃れた先にあるものは何か?
それは、心の平穏です。安心です。

例えば、そこに世にも恐ろしい獣がいました。
目には死の影がちらつき、爪は大地をさき、牙は常に他の生き物の血でぬれている。その獣を人々は恐怖し、それを語り、それが更なる恐怖を呼びました。
しかし、あるヒトがその獣を「ライオン」と名付けました。
そうすると、その恐怖はライオンを超える恐怖とはならなくなりました。
ってな、話があったとすと、ヒトは一様に未知なるモノに恐怖を覚える傾向があることが伺えます。そして、名前を付けるということは、未知なるものへの克服を意味していると言えるのではないでしょうか。

では、無意味に対する例え話はというと、ちょうど、日本のお話で、誰もが知っているであろう、賽の河原の鬼の話が挙げられるのではないでしょう。
親より早く死んだ子供が賽の河原で石を積み上げ、その石の山が完成に近づくとその鬼がやってきて、その山を崩しさるというお話です。
これは、親より先に死んだ子供達に与えられた「恐怖」「地獄」の一つですよね。では、その行為、その地獄で与えられているモノは何か?
それは、石を積むという行為に対する意味の無さではないでしょうか?
決して報われない行為、に対する絶望とも言えるのかもしれません。
無意味に恐怖するからこそ、こんなお話が出来上がってしまうのだと考えることはできませんか?

これだけをもって、無意味が恐怖であり、その恐怖を克服するためにヒトは意味を求めるとするのは、根拠薄ですが、ヒトが無意味に恐怖を覚えるのは、キリスト教の教示云々からの話ではないと感じます。
ユング的に言うなら、なんでしたっけ?
まぁ、無意味に対する恐怖は、ヒトが抱える潜在的な、共通の思考であると思いますよ。
宗教もまた、それを問題にしているからこそ、そしてその共通性を含んでいるからこそ、国境や人種を超えて広まる可能性を秘めていると思います。
無慈悲なる死に意味を与えようと、私も含めみんな必死です。

最後に、
すべての無意味さに徹しきることで、意味を感じることができると思っています。
言い換えると、無意味の中から意味を見つけることが出来るということです。
無意味から出発することで無意味を、切り離さず意味あるものへとつなぎとめることができると感じます。
論理的に破綻し、矛盾しているようですが、そう考えると結構、心が理路整然としてきます。
世の中の事象を単に意味を求めるだけの思想よりは、より多くの事象を理解することができるから、私はその矛盾を受け止め、その矛盾の中で平穏を与えられています。
世の中の全てに意味があり、全てを理路整然と語るよりは、無意味や虚無を含んだ考えで、世界を見つめるほうがより世界を理解することができると考えています。
無意味や虚無は、私を含めるセカイの要素だと感じることが出来ます。

では、追々ゆっくり、「矛盾を否定しない」(今回はこのテーマから「意味を求めることとは?」を考えて書いてみました)、「不確定性原理」「カオス」「生物が生物である理由」などをテーマに話を展開していきたいと思います。
今回も長くなりまして申し訳ありませんでした。
では。


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感想その他

発言番号:18
名前:kk
2003年01月17日10時23分

白いヤツ様の文章を読んでいると、とても博学多才な方のようで私のような「そこらへんのおじさん」が意見交換するのもおこがましい様な気がするのですが・・・
しかしこれは自分にとってめったにないチャンスだと思って続けさせていただきます。
「心の平安」「安心」−たぶん私が求めているのもそれであり、それが得られないがための苦しみなんだろうと思います。(24時間苦しんでいるわけではありませんが)
私にとっては死や無意味性が大きな障害となって立ちはだかっている訳ですが、人によってはそれぞれ独自の形で問題が現れて来るのかもしれません。

「死はどこにも存在しない」=「死はどこにでも存在する」

死はそのことについて私が考えている時のみ、私の思考の中に存在するが、別のことを考えた瞬間に消滅する。
わたしに直接与えられている経験の中には恒常不変なるものは何一つ存在しない。常に変化している。よって一瞬一瞬が死であり死はどこにでも存在する。

同じように

「意味はどこにも存在しない」=「意味はどこにでも存在する」

ということになるのでしょうか。

なにか禅坊主のたわごとのようにも聞こえますが、こんなところにひとすじの光のようなものが見えてくるのかなあ、と最近思っています。

白いヤツさんの「矛盾を否定しない」に繋がるところがあるのでしょうか。

それでは。



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背理でラクになれ!

発言番号:19
名前:たまごっち
2003年01月17日14時08分

KKさん、白いヤツさん、こんにちは。

>「死はどこにも存在しない」=「死はどこにでも存在する」

こういう考え方はとてもすばらしいですね。こういう背理の可能性に気づくことでかなり「ラク」に
なれるんではないかな、と思っていて、これでラクになれなかったら、もともとカウンセラーでも
なんでもない私が貢献できそうな問題じゃないと思ってました。

身近な例としては、音楽なんてどうでしょうか。音楽家の人は「休符にも音楽がある、休符を
しっかり演奏しろ」と言います。厳密な意味では、音がない部分(オタマジャクシで書かない部分)は
音楽とは言えませんが、休符があるから次の(ちゃんとした?)音がある、という具合に、全体の
流れの中で理解する(=相対化する)と、休符も(あるいは休符があってこそ)音楽だと言えます。
この考え方を別の視点から究極に推し進めたのがジョン・ケイジという作曲家で、彼は4分22秒、
何も音を出さない、という音楽を作りました(なんとこの曲は第3楽章まであったのですが、その間
ずーっと無音状態で、聴衆はピアノの鍵盤の蓋をあげたり下げたりするのをみて、楽章の終わりを
理解したそうです。たぶん検索したらいろいろ情報でてくると思います)。

私自身は「人生に意味がないから毎日がつまらないのではなくて、毎日がつまらないから
意味が欲しくなるのだ」と言う考えですが、それでも毎日が楽しくない人、人生の無意味を
感じている人には、「無意味も含めて意味なんです」と言っています。だから「矛盾を否定しない」という
白いヤツさんの処理の仕方とは若干違いますね。みんないろんな処理方法を持っているようです。

最後に、10秒後に世界が滅亡するか、という話。皮肉ではなくて本当におもしろいです。
私には、そのようなある意味「一人遊び」ができる人は、むしろ地球滅亡の可能性を前提にして、その10秒間を
楽しんでいるとさえ思えます。なんか、だんだん気の持ちようじゃない?っていう気もしてきました。
この感想が当を得ているかどうかはともかく、KKさんって実は意外に普通の人なのかも・・。
私もそういう感覚(何が起こるかなんて誰にも分からない・・・例えば明日宇宙人にさらわれるかも!)を
ある部分で持ってます。ギャグではなくて。それを言葉にするかどうかの違いでしょうか。

それではまた。

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感想など

発言番号:20
名前:kk
2003年01月18日08時34分

たまごっちさん こんにちわ
いろいろとご心配をおかけして恐縮です。
私のような鬱系の人間はぎりぎりのところまで自分を追い詰めないとなかなか発想の転換ができないようです。
ジョン・ケイジの音楽のお話、かなり笑えます。そういう音楽?を作るほうも作るほうですが聞きに来る方も聞きに来る方ですね。ちなみに演奏?が終わったあとみんな拍手して帰ったんですかね。スバラシイ。

さて、これまでの私の寝言をまとめると以下のようになるかと思います。

意味があるから無意味がある=無意味があるから意味がある
生があるから死がある=死があるから生がある
有があるから無がある=無があるから有がある  などなど

意味ー無意味 生ー死 有ー無 これらは対立概念と言うよりも、それぞれがそれぞれの存立条件になっている。どちらか一方に執着するから恐怖が生じる。それぞれの身分をしっかりと見極めておけば恐怖は生じない。矛盾はそれを見るときにのみ存在し見ないときには存在しない。

「10秒後の世界滅亡」の話は自分で書き込んでいて自分で笑ってしまいました。悲観論もとことん突き詰めるた悲観論になりえない。常に「10秒後の世界滅亡」を想定して生きている人にとっては、人生=世界が有意味か無意味かなどと問うこと自体が無意味になるでしょう。きっとあらゆる悩みから開放された底抜けに明るい人になってしまうでしょう。「まともな社会生活」など送れないようになっちゃうかもね。

やはり禅宗的な「今」に徹する生き方がすべての悩みを解消する方法なのでしょうか。

それでは。


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矛盾について

発言番号:21
名前:白いヤツ
2003年01月19日02時50分

私は、「矛盾」という言葉を使っていますが、実は私の中では、一般的にいわれるような「矛盾する」事柄については、「矛盾」と言う言葉を使っていません。
ただ、私が伝えたい、心の基盤には、対立する概念「意味-無意味」「生-死」などを渾然一体化して捕らえる必要があるものなので、どうしても私の基盤を伝えるためには、一般的に矛盾するといわれる障壁を越えなければならないために、敢えて「矛盾を否定しない」としているのです。
ですから、私の伝えたい基盤を分かってもらうためには、多く例が必要になることがしばしばです。

話は変わりますが、私が例え理系出身であろうと、なかろうと、私が人生の事柄を考えるときには、その時にもっとも身近にあるものを例えて、考えるのではないかと思うのです。ちょうど、私が「カオス」や何や、とかいう単語を使っているのと同じように、経済に精通しているヒトは、経済的な事柄から人生の事柄を例えるのではないでしょうか?でも、例える言葉や、その言葉に含まれる意味が違えど、人生の事柄で共感できる部分というのは、例え方が変わったとしても、分かり合えるものだと信じます。そして、例え理系で、親しみの無い話であっても、法の精神の話であっても、子育ての話であっても、真に理解された事柄というものは、最も簡単な言葉で語られ、誰にでも、聞こうとするヒトには伝わるものだと信じます。そうでなければ、意味が無いからです。アインシュタインの特殊相対性理論も、論文が出された当時は、世界で12人しか理解できない、とまで言われていたそうですが、その理論が理解され、その理論に含まれる事象が紹介されていくにつれ、その精神に触れ、理解できるヒトはどんどん増えてきているのではないでしょうか?まぁ、関係のない話ですが、以上が、私がキーワードに出している単語に親しみが無くても、楽しんで呼んでもらうための前説でした。

さて、
「たまごっち」さんの休符の話で思い出したのですが、最近のベストセラー(本です)になる本にはある秘密があると、ニュースでやってました。
それは、「余白部分が多いこと」が今のヒット作の共通点らしいです。
余白部分が多いといっても、内容が少ないというわけではなく、昔の作品をリニューアルして出す愛蔵本とがでも、改行し、余白部分を意図的に作り出して打っているらしいです。ページ数が増える分は紙を薄くして全体の厚みは抑えるらしいので、ぶっとくはならないそうです。
では、何故余白部分を多くすると売れるのか、そのニュースでは、余白部分で休憩するとか、余白を作ることで考える間ができるとか、余白部分に思ったことや感想を書き込むなどして、余白部分を使う読者が増えているからだといっていました。
「文章」という言葉で、本を考えるとき、余白部分は文章には含まれない概念ですが、しかし、本自体を作品としてとらえるなら、余白部分もりっぱな、本という作品の構成要素ですよね。
意味のあるはずの、文自体のみではなく、文章という概念からは意味の無い部分のはずの余白部分が、作品を作り上げる上で、意味を形成する。
多分、そんな感じなのだと感じましたよ、私の「矛盾を否定しない」とうことがらも。
「文章は意味で、余白は無意味だが、余白も含めて作品なんだ!」「生は意味で、死は無意味だが、死も含めて生命なんだ!!」って言いたいんです、私は。多分、KKさんもたまごっちさんも、近い概念じゃないのかな?
(純粋な感想ですが、わずかな違いを例え話で埋めていくのは楽しいですね)
だから、「たまごっち」さんが言う「無意味も含めて意味なんです」とも、もしかしたら、近い概念を私は別の言い方を言っているように感じました。
ですが、「たまごっち」さんが私の考えと若干違うといったことも、分かります。それは、私が「無意味に徹しきってみたら、意味を見出せる」と書いていることからではないかと思うからです。
これは、私が「生と死」「意味と無意味」と等価なものとしてではなく、恐怖や未知に対する過大評価なのかそうでないのかは、分かりませんが、「死」や「無意味」もしくは「虚無」なるものに傾倒しているからなのです。

分かっていただけると思いますが、この世(在る世界、実なる世界、生の世界)には、存在するものしか存在しません。
つまり、実際には(現実には、実は、本当は、当たり前には、)、真に虚無、無意味(多分、死でさえも)なるもは、概念的に存在しても、この世(実なる世界)には存在しないものなのです。

かなり私の基盤の核心に迫ってきました。(ちょっと、テンション上がってきました)
要するに、
生なるものを通して、死を垣間見ることは概念的には(概念とする理由はこの世には存在しないからです、ですが、概念的に存在させることは可能なので、こう書きました)可能です。
「余白の話」に例えるなら、作品においては、文章を通じて、余白を規定することが可能なのと同じです。人生においては、「生」から「死」を規定できるのです。

その逆はどうでしょうか?
真なる「死」を通じて、「生」を規定できるでしょうか?
否です。
私たちは「死」そのものを知ることは出来ないからです。
なぜなら、有なる存在だからです。
ですから、私達が普通に感じる「死」とは、実は「生」ベースの死、ということになります。
で、私の言う「死に徹しきる」とはどうことかと言うと、生ベースの死ではなく、あり得ないとしても、死ベースの死、死そのものを思い描くことなのです。
「余白の話」に例えるなら、何も書いてない、冊子そのものです。余白と呼ばれるものは、存在しないものなのですが。なぜなら、文が存在しなければ、余白が規定されないからです。
概念的に何も無いのですが、それを見つめる心(私)は生ベースの記憶と考えを持ち込みます。そこから「生なるもの」(意味)を垣間見るのです。
またまた、「余白の話」に例えるなら、何か作品を作ろうと、文章を考えるのです。それが、生(意味)なのです。それは、見つめる生(私、心)を超える可能性を秘めています。

説明の途中ですが、長くなりましたし、勝手ながら疲れたので、続きは後ほど。
では。

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感想など

発言番号:22
名前:kk
2003年01月19日10時22分

こんにちわ。
虚無主義に徹しきろうとして虚無主義からはじきかえされてきたkkです。
毎回「白いヤツ」さんの文章は理路整然として含蓄が深くプリントアウトして保存しています。(笑)
ここのサイトの別の議題のところを見てもこれほど徹底して議論しているところは他にないんじゃないかな。ある意味すごいと思います。

さて、理科系でも文化系でも人生の問題を考えるときの基盤は同じだろう、というお話、とても共感できます。われわれに共通に直接的にリアルに与えられているこの「経験世界」がいろんな学問や宗教や経済やお互いのコミュニケーションの基礎になっており、それがなければ日常的な会話すら成り立たないということでしょう。

「たまごっち」さんの休符の例え、「白いヤツ」さんの余白の例え、とても分かりやすく有と無、生と死、意味と無意味が渾然一体となってこの世界を形作っているということがスンナリと理解されてきます。

<この世には存在するものしか存在しません。つまり、実際には真に虚無、無意味なるものは、概念的に存在していても、この世(実なる世界)には存在しないものなのです>

大変失礼ですが(どうか気を悪くなさらないでほしいのですが)このような考え方に自分とは異質な理科系的な思考を感じます。(どちらが正しいとか正しくないとかではなくて)

私的には存在ー非存在の問題は認識主体との関係において捉えられなければならないと感じます。つまり例えば物質が存在するのは、あくまでも認識主体との関係において存在するのであり、物質それ自体(認識主体と関係なく存在する)というものはひとつの「仮定」でしかありえないと考えています。

「白いヤツ」さんの文章はいろいろと含蓄が多いので自分自身まだまだ考えなければならないのですが、とりあえず今日は気になった一点だけ。

それでは お元気で



















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続き

発言番号:23
名前:白いヤツ
2003年01月19日10時23分

勝手ながら続きです。

「見つめる生を超える」とは、私を変えていく力のことを言っています。

またまた「余白の話」で例えると、「生」が「文章」だとするなら、それは決まっているものとうことになります。少なくとも、それがあって初めて「作品」としての価値、「私」なるものの存在が在るからです。はじめから在るものというものは、どことなくその存在を何者か、何らかの法則、自分ではどうしようもないものによって支配されているのではないかと、考える傾向を生みます(これが、神なる存在を作り出す行為につながるのだと感じます)。
(因みに、私は、それでいいのだと感じるときがありますし、それを完全に否定することは出来ないだろうし、そうするつもりもありません)

それでどうした?
って感じでしょうが、続けます。
つまり、「文章」には、はじめから在るものには、それ以上になれないのではないかという懸念を覚えるのです。
これは、今までと逆説的なのですが、「生」そのものに対する恐怖なのです。
先にも書きましたように、「決まっていること」「決められていること」というのは、大変つまらないことです。もし、人生が人知の及ばないもによって支配されえいるなら、私が今日何をしようと、何を考えようと、それは決められたことを行っているからに過ぎません。
これは、私にとって「恐怖」であり、「絶望」であります。
そう考えるときの私は「予め在る、定められた「生」」を「恐怖」「無意味」と感じるのです。
そうすると、本来「生」の側から見た、「死」や「虚無」に未知なる可能性を含めて、希望を感じてしまうのです。
ですから、生ベースではない死、から始まって、生を思い描く行為は、私自身を、決まっているという束縛から開放し、思い通りに、若しくは思ってもみななかったように描くことができる行為ではないか、それは「自由」「可能性」なのだ、と感じてしまいます。
そこに感じる「自由」は、束縛から逃れるために用いられる「自由」とは異なり、真に不自由なる「自由」、希望と絶望を含んだ「可能性」、と感じます。
だから、「死に徹しきることで意味を見出せる」などという表現になったのだと思います。

ここで、以上の話には多分に誤魔化しが含まれています。
例えば、死ベースの死など存在しない、としているにも拘わらず、その前提を「あり得ないとしても」と仮定を用いて無視しているからです。
また、真なる死もまた、何も書いていない冊子などではないのかもしれないからです。冊子が「有なるもの」として存在するからです。
さらに、真なる死、虚無の世界には、生や実の思考を持ち込むことはできずで、生なるものが生じる余地はかもしれないからです。
ですが、これらの「矛盾」や「誤魔化し」を含んでいたとしても、私の「矛盾を否定しない」という心の基盤は、私の中で理路整然とし、私を、人生を楽しませてくれる、思考なのです。

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追伸

発言番号:24
名前:kk
2003年01月19日17時51分

アップが前後してしまいました。
正直言ってちょっと議論について行けなくなってきている部分もありますが基本的な問題点は共通していると信じて続けさせていただきます。

「白いヤツ」さんがキリスト教的絶対者が支配するこの世界において生きることに絶望を感じたと言う話、私の場合は仏教の縁起的世界観(すべてのものごとは縁によって生じ縁によって変化し縁によって滅する)に接したときに同じような絶望感ーいったい俺の自由はどこにあるんだーを感じたことがあります。

さて、先ほどの続きですが結論から先に言うと
「私たちにリアルに直接的に与えられているのは現象であり存在ではない」ということです。

たとえば私の目の前に一個のマグカップがあります。わたしはそれを目で見ることができ、手で触ることができ、匂いをかぐこともできます。手で持ち上げていろんな角度から見たり、指ではじいて音を聞くこともできるでしょう。しかしそれはそれだけのことだということです。いくらどんなにマグカップを感覚器官を使って感じても、それはそのようないろんな感覚があるということ以上のことではないのです。どんなにあらゆる角度から考えて妥当性があったとしても、それを一個の「存在」として考えるときには一種の飛躍、ある種の越権行為がある、と考えます。

どんなに妥当性があっても何かを「存在」として捉える時には感覚によって直接的に経験された現象世界からの飛躍があると考えます。
ですから「存在」とは本来的に有るところの現象世界からわれわれの思考が作り出した「仮定」でありその反対物である「無」も思考が作り上げた「仮定」の域をでない、というのが私の考えです。

思考が作り上げた「存在」に執着しその反対物である「無」に恐怖する

思考が作り上げた「意味」に執着しその反対物である「無意味」に恐怖する

思考が作り上げた「生」に執着しその反対物である「死」に恐怖する

このような心の構造があるのではないか。

真実に我々に直接的に与えられているのはこの千変万化する感覚的現象世界のみであり、そこには、存在も無も、意味も無意味も、生も死も、ないのではないか。

以上が私の今の考えです。
多分に仏教的な世界観の影響はあると思いますが、自分の中では誤魔化しなく納得でき、恐怖を乗り越えられる可能性のある認識だと考えています。
哲学的に見れば穴だらけ欠陥だらけの議論だとは思いますが。

何かの参考にしていただければ幸いです。
それでは。

















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質問です

発言番号:25
名前:白いヤツ
2003年01月19日22時35分

KKさんへ、できれば、たまごっちさんへ、質問です。
実はこれに答えたからどうこうしようとする意図は今のところないのですが。

質問:映画の世界(仮想現実の世界)は、現実か虚像か?
です。
多分、今までの書き込みからKKさんのお答えを予想すると(違っててもいいですよね?)、多分、どちらも「現実」または「仮想」とお答えになるのではないでしょうか?
ここで、「現実」と「仮想」は言葉の定義の違い程度に感じ取ってください。
つまり、認識によってもたらされた、(KKさんの言葉を借りるなら)「仮想」のみが現実なのであって、認識されない事実は、「仮想」には含まれない、という考えではないでしょうか?

さらに、思考を先読みして、さらに質問ですが、
以下の質問には私は今のところ、答えを見出せていませんが、それでもお答えいただければ幸いです。
では、不確かなのですが、質問します(多分、荘氏だったと思うのですが、あいまいです。でも、中国の思想家のお話だったと思います)。

質問:私はある時夢を見た。夢の中で私は蝶になっていた。私は蝶になりきっていたらしく、私であることに気付かなかった。しかし、目覚めてみると、私は私であって、蝶ではない。だが、私が蝶になる夢を見ていたのか、私なる蝶が私の夢を見ているのか、私には分からない。

だったと思います。かなり変わっているかも知れませんが、こんな感じです。私が、「この世は認識によって形成された私の世界である」(別の言い方をすると、私が死んだ後にはこの世は存在しない、ってなります)、とうことを考えたときに、この話をどう考えたら良いのか迷いました。そして、今もその答えが見つからないので、取り合えず置いておいた話です。

私が、迷っているのは単純には、認識を私の主体とすると、この話は私を規定できないのです。
両方がその時その時の私だとしても良いのかもしれませんが、それでは、幻覚や幻聴、妄想に飲み込まれてしまう思想にしかならないと思うので、虚無から逃れるための、「思想」としてはあまりにも防御力がないのではないかと考えるからです。ここで重要なのは、方向として、「ための」思想を模索していることです。
考え方のみを、作り出すなら、多分両方現実でいいのですから。
では、また。

っあ、もし訳分からない質問だと思ったら飛ばしちゃってください。
後、KKさんやたまごっちさんのお話、参考になってます。
今回の書き込みで少しずつ、私の思想も解きほぐすことができたような気がしています。もう少し、お付き合いいただけますようお願いします。


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お返事

発言番号:26
名前:kk
2003年01月20日11時08分

白いヤツさんへ
ご質問を頂きましたが、私自身まだまだ暗中模索の状態で、やっとひとつのヒントらしきものを見つけたかな、という程度ですので今回の答えも暫定的なものでしかなく変わって行く可能性もあり、また白いヤツさんの質問の意味を十分理解していない部分もあるかと思いますが、そこらへんもお含みの上お付き合い願えればと思います。
前置きが長くなりました。

質問:映画の世界は現実か虚像か?

映画または夢と現実には「確からしさ」の違いはあっても本質的な違いはない。どちらも私に立ち現れる現象としては等価である。

質問:中国の思想家の蝶の話ー「この世は認識によって形成された私の世界である」

上記と同様の答え。

認識主体と認識対象(主体と客体、私と世界など)について

風鈴のたとえ
これは以前私が仏教関係の本を読んでいたときに出てきた話です。正確ではないかもしれません。

ある夏の日、ひとりの小僧が座敷に座っていると縁側にかけてあった風鈴が「リーン リーン」と美しい音色を奏でました。その時和尚が問いました。「今鳴ったのは風鈴か、お前の耳か、それとも空気か?」小僧「・・・・・」

この例え話から私が考えるのは、我々に真に直接的に与えられているのは「リーン リーン」という音のみであり(それを否定することはできない)、そこから思考を働かせて、あそこに風鈴がありそれがなんらかの接触をおこして空気を振動させその振動が耳の鼓膜を刺激して音としての感覚が生じている、と考えるのは理論的には妥当性があるかもしれないが、直接的経験世界からは飛躍している、ということです。
このことは聴覚のみに限らずわれわれのあらゆる感覚について言えることだと思います。

ですから話を元に戻すと、認識主体と認識対象(主体と客体、私と世界など)の枠組みで世界を捉えようとするときには必ず直接的経験世界からの飛躍があるのだと思います。
「この世は認識によって形成された私の世界である」と考えるときには直接的経験世界から私と世界を分離して、その後に私の方に重点をもってくるという作業が行われていると考えます。逆に分離した後に世界の方に重点をもっていくと機械論的運命論(キリスト教的神の支配など)になるのではないでしょうか。

「私が死んだ後にこの世が存在するかしないか」については直接的経験世界の立場からは「わからない」と言うしかないのではないでしょうか。なぜならそれは直接的経験世界には与えられえないものだから。

大変大雑把な説明になりましたがいかがでしょうか。
どうか私を病院送りにしないで下さい。(笑)
わたしはいたって真剣です。  
それではまた。
















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仮想現実と世界の外側

発言番号:27
名前:たまごっち
2003年01月21日14時59分

KKさん、白いヤツさんこんにちは。
忙しくなってきたので、仮想現実は現実か、について。
仮想現実についての認識が若干違うので、この問題は答えにくいですね。
私は特に、テレビゲームや映画(中でもアダルトものや暴力表現を伴うもの)に対して
仮想現実というキーワードで批判する人に対抗する意味で、完全にこの問題を相対化しています。

仮想現実体験とは、感じたモノをそのものとして受け取ることを指していますので、
小説だって仮想現実です。普通の人は、ステーキを美味しそうに食べますが、これも仮想現実の
なせるワザで、厳密に言えば牛の死体です。ハンバーグなんて死体をさらにぐちゃぐちゃにしたモノ(笑)。
だからといってレストランで「牛の死体なんて食えるか」のように言う人がいれば、それは
「どっかおかしい(笑)人」です。

牛の死体を「美味しいお料理」として体験しようとする枠組みがあるから、私たちはステーキをおいしく
いただけるということです。だから仮想現実には、受け入れられるものとそうでないものがあるということです。
その証拠に、牛のステーキと言ったって、国や宗教が異なると「そんなもの食べられません」という場合が
考えられます。だから、体験を理解する枠組み自体も、時代や文化によって異なる相対的なモノです。

で、結論ですが、私自身受け入れやすい仮想現実(私はステーキもお寿司も大好きです)を
現実として扱っているので、その意味では「仮想現実が現実の場合もある」というのが一番無難な答えに
なりそうです。ただもう少し理論的に突き詰めれば、認識の話とかに行き着くのだと思うので、
そうなると、現実と言っても観察主体の認識の集合に過ぎない、と突き抜けることもできると思います。

ただ私は大学に勤める研究者という前提でモノを考えています。で、その前提から言うと、
そのような非常に高度な抽象化をしてまで、仮想現実と現実の区別をしなくても、ほとんどの人は
うまく生活していけるようです。これ以上のことを考える人が、例えばもし自分の学生に現れたら
正直に降参して、「僕はその問題分からないから是非、君が考えて教えて下さい」と言うことにします。
私が言える範囲はとりあえずこれくらいかな。

自分は蝶か、蝶がたまたま自分だったのか、の話ですが、おそらく認識の問題と観察主体の話ですね。

世界の外側を認識可能か。しかし、世界というのは認識可能な範囲を世界と呼んでいる。
認識可能な範囲の外側に、仮に何かがあったとして、それを私たちは認識できるか。
理屈の上ではできません。しかし、認識可能な世界の「外側」そのものは想定可能です。
では世界って一体どこからどこまで?ってことになります。この辺から考えていくと
何か答えが出てくるかもしれません。今度やってみます。

抽象的な概念に名辞を与えると利用可能性がたかまるけども、その分相対化されるという法則の
典型的なパターンですね。やはり理屈と本当のコミュニケーションは違うのでしょう。
「課長島耕作」で、スナックのママがニーチェの思想を笑い飛ばすシーンがありますが、
そこそこに理屈と現実を往復することがやはり大事ですね。

今日はちょっとこれで許してください。



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主客二分的思考方法の限界

発言番号:28
名前:kk
2003年01月22日10時10分

こんにちは。

あれこれ考えると、私も白いヤツさんも辿る道は違っても二人とも「主客二分的思考方法」の限界に突き当たっているのではないでしょうか。主の方に傾いていくと「私が世界を作っている」ことになり客の方に傾いていくと「世界が私を規定している」ことになってしまう。
どちらにも偏らない思考方法が必要なのではないでしょうか。
ちなみにたまごっちさんのおっしゃるように日常生活においては主客二分的思考方法で何ら問題はないと思うのですが。

今日は短く。以上です。


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ナルホド

発言番号:29
名前:白いヤツ
2003年01月23日01時32分

そうか、私は主と客との間を行き来していたのですね。
まぁ、多分そうなんでしょう。
考えてみれば、そうなのですが、言葉を変えて言われる違う納得があって新鮮です。

そこから考えてみると、私は客から主を見つめる傾向が強いようです。
そのことは私にとって至極当然の流れだと感じます。
なぜか?やはり、理系出身だからでしょうか?

うぅ〜ん。
そうとは思えないので、またまた、質問していいですか?
例えば、
“耳は2つ、口は1つ、話すより多く話を聞きなさい、と神は言っているのだよ”と言っておしゃべりな子供がしかられたとして、この話を聞いたとき、その子はどう思うのだろうか?
「あぁ、なるほど」と、思うのではないでしょうか。
しかし、耳が1つ、口が2つの異星人の子供にこのお説教は理解されるだろうか?

私は理解されないと思う。
よく考えて欲しい、ヒトが作り出した認識、思想および仮想は、やはりヒト(私たちの記憶、私たちが属する法則)に拘束されているのだと思いませんか。

その記憶すら、認識主体の話であるとするなら、恐ろしい展開が待ち受けていると考えます。
つまり、私の経験に基づく、法則を認識する、或いは外界からの情報の捕らえ方によって蓄積される、「記憶」が外界と関係なしに、純粋に主体で作り出されたものであるなら、どんな結論もありでしょう。
正に、そここにはどんな矛盾も矛盾などではないからです。
ちょうど、夢の中でどんな違和感も感じないのと同じように。
私の生は虚無の中にしか、そして虚無としてしか存在し得ないということになるのでは、ないでしょうか?

私は少なくとも、そう考えることに抵抗する立場にいると考えます。
ですので、自分でふっておいてなんですが、完全に認識主体のみの問題となり得る、蝶とわたしの話は、今のところ私には受け入れにくい考えなのですね。

返事になってませんが、今日はこの辺で。

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思考によって思考を乗り越えられるか

発言番号:30
名前:kk
2003年01月23日11時24分

正直言って今の私には白いヤツさんの質問に答える力はありません。
もしよろしかったらクリシュナムルティ(インド人のようです)と言う人がそこらへんについていろいろと語っているようですので、「観察 理解 変容」で検索してクリシュナムルティ読解のところに入っていき「思考と時間」のところを見てみれば何かヒントが有るかもしれません。

白いヤツさんの書き込みを見て思ったのは
思考によって思考を超えることが可能か?または
自我によって自我を滅ぼすことが可能か?ということです。

私たちの思考そのものが主客二分的構造によって成り立っているものなので、そのような思考を働かせて思考それ自身の主客二分構造を乗り越えることが可能か、という問題です。
私たちの苦しみや悩みや恐怖の根源がこの主客二分構造なのではないか、と考えているのでそれを乗り越えなければならないのですが、どうやって乗り越えたらいいのか、今のところ分からないというのが現状です。
もしかしたら何らかの思考停止訓練、ある種の瞑想(メディテーション)によってのみ可能なのかもしれません。

またもう一つ示唆されたのは、(もう私たちの書き込みなど誰も見てないと思うのでいっちゃいますけど)私は前に「10秒後世界滅亡説」を唱えておりましたが、それをもっと進めて
「世界はすでに滅亡していた」「私も世界も最初から無かった」説です。(世にもオソロシや〜、たぶんもう誰も着いて来ないと思います。無視して結構です)
この考えは私を恐怖に陥れますが、同時にまぎれもなく現象していくこの世界がとてつもない奇跡の連続のようにも思えます。

恐怖という感情はは追い詰められた自我の悪あがきだそうです。
恐怖という感情自体が私たちを殺すことはできません。
自我を滅亡させ主客二分的思考を乗り越えるには恐怖としっかり向き合う勇気が必要なのかもしれません。

涅槃(ニルヴァーナ)の境地では時間も空間も存在しないということですのでまさに「世界はすでに滅亡していた」ということに気づく事が「覚り」なのかもしれません。

たぶんもう誰も着いてきていないと思います。ちょっと寂しいです。
それでは。














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今日のひと言

発言番号:31
名前:kk
2003年01月24日08時31分

死になさい。するとそこに愛がある。
         〜クリシュナムルティ

主に徹する。
客に徹する。
どちらでもいいのかも。
いずれにしても主客構造は解消される。

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もしかして

発言番号:32
名前:kk
2003年01月24日20時13分

もしかして
「すべては夢だ」という認識と
「すべては実在だ」という認識は全く同義になってしまうのでは?
どちらにしても疑うことすら無意味になってしまうのだから。

キリスト教的な「実在」というものは私たちが普通に考えている「存在」とは全く別のものなのでは?
「すべては実在だ」というときには虚無も、非存在も、無意味も、死も、疑いも、夢も、仮想も、虚構も、悪魔も、全て実在だということになるのではないか?なんといっても「すべて」とは「すべて」なのだから。

主観に徹する「全ては夢だ」と客観に徹する「全ては実在だ」は全く同義になってしまうのでは?そこで指し示している「全て」がどちらも同じものだとしたら、言葉の違い、ニュアンスの違いだけだから。


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まぁ、待ってくださいよ

発言番号:33
名前:白いヤツ
2003年01月25日17時58分

お久しぶりです。
なんか暴走気味ですね>kkさん。
誰も着いてきてないではなくて、あなたが理解してもらおうと、していないだけですよ。何度も言いますよ、人生のことで理解しようとしているヒトには、根本的な部分で分かり合えないとしても(主義の差異とでもいいましょうか)、理解されることは可能なのだと考えます。
そして、私が思うに、他人に理解してもらうというこは、自分自身がそれを理解していることを、客観的に知る方法の一つなのだと、思います。
ですから、単語を並べ立てるだけでは、貴方が理解されようとしていないと取らざるを得ませんし、貴方自身が理解していないと、貴方自身が暴露するに等しい行為だと思いませんか(自分自身も反省しつつ、、)。
要するに、思考が深遠なのではなく、単に意味不明なのです。
と、ちょっとまぁ個人攻撃的なことを書きましたが、個人攻撃を目的としたもではないので、気を悪くなさらないで下さい。
少し私の友達のうつ病のヒトみたいになってきたので、牽制の意味をこめて、敢えて書かせていただいたまでです(更に、失礼か。ごめんなさい)。
私は、あくまで自分の考えをより深めることを目的としており、お互いを、お互いの理解を深めていくことを目的としているのです。
ですから、自分の言葉で、じっくりやっていきましょう。
今回は、内容無く単にこれだけで失礼します。

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おっしゃる通り

発言番号:34
名前:kk
2003年01月25日18時36分

また私の悪い癖が出てしまいました。
ご忠告ありがとうございます。
少し頭を冷やします。
それでは。

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少し冷静になってもう一度

発言番号:35
名前:kk
2003年01月26日09時07分

少し冷静になってもう一度私の考えを述べてみます。

白いヤツさんの言葉を借りると
「私の生は虚無の中にしか、そして虚無としてしか存在し得ないということになるのでは・・・?」

この事を事実としてしっかり受け止めて、なおかつ虚無主義=自暴自棄に陥らないことはできないものか、ということです。
虚無主義=自暴自棄になってしまう心の状態を考えてみると、自分だけは現実でまわりの世界が夢だという構図があると思います。
これをもう一歩進めて、私もまた夢だ、行為者としての私自身も夢の一部だ、と考えた場合どうなるでしょうか。決して自暴自棄にはならないのではないでしょうか。かえって今まで現実だと思って苦しんできたことが柔らかくなってさほど気にならなくなり、逆に世界が今まで以上に美しくいとおしく見えてくるということはないでしょうか。

これはある意味自分を捨てるということですが、自分を捨ててこそ楽になれるし逆に今まで以上に人生を楽しむことができるのかもしれません。
私がそのことを「できている」というわけではないのですが、ひとつの考え方としては非常に有効だと思うのですが、いかがでしょうか。

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少し突っ込みます。

発言番号:36
名前:白いヤツ
2003年01月26日23時18分

話を始める前に、先日の非礼をお詫びいたします。
私がどうこういえる立場ではなかったのですが、大変失礼なことを書き込みまして申し訳ありませんでした。そして、それに憤慨することなく対処していただいたことで、私も一安心しております。前置きでした。

では、内容に入ります。
私はこれまでのやり取りで、自分の考えの根本的な、譲れない主義があることに気付きました。
それは、多分、今のところKKさんとは異なるもののようです。
その理由は、以下に述べます。

>この事を事実としてしっかり受け止めて、なおかつ虚無主義=自暴自棄に陥らないことはできないものか、ということです。
>虚無主義=自暴自棄になってしまう心の状態を考えてみると、自分だけは現実でまわりの世界が夢だという構図があると思います。

まず、一つ目には、「自分が現実で、まわりの世界が夢」とする考えが、私には理解しがたいのです。
それは、私が認識主体を中心とした世界観に抵抗するためだと思います。
なぜ、自分が本当だなんて思えるのでしょうか?
事実として、昨日の貴方と、今日の貴方は、同一人物である保証なんてどこにもないでしょ?っと、思うのです。
では、何故、昨日の自分と、今日の自分の連続性を確認できるかというと、恐らく、「記憶」が原因です。
昨日の記憶と、今日の目の前で起きている事柄の連続性が今の貴方を昨日の貴方に繋ぎ止めるのだと考えます。
そんな曖昧な記憶によってしか、その存在を確認できない自分をどうして、確かなもの(現実)と確信できるでしょうか?
私は、確信なんてできません。
単に、蓄積された記憶によってのみでしか、私を感じ取れないのです。

何が言いたいかと言いますと、「まわりの世界が確かなるもので、自分が不確かなるもの」「まわりの世界が現実で、自分が夢」だと、私は基本的に感じるのです。
(この考えのどこに救いがあるのかは、後に述べます。)

例えば、私は虚無感や無力さによる脱力感に襲われる時、それは、圧倒的な、無慈悲な世界によって与えられるからです。
例えば、死や天災、事故、そういった、人間の意図からすると、何の意味も持たない単なる現象にです。
ですから、私は虚無主義=自暴自棄に徹しきって救われるとは思わないのです。
なんか、以前に無意味に徹しきれ、って言っていた事と矛盾するようですが。
あの時は、そうと感じていなかったのですが、あの時、私は自分でも知らないうちに、虚無なる世界に生なる「記憶」を持ち込むことができると感じていたようです。(文章と余白の話のところで、何も書いていない冊子に「生」となる文章を想定し、自分を新たに描こうとする行為から)

まとめると、どうやら、私は不確かで曖昧な「私」を、確からしい(無慈悲で、圧倒的な)「世界」から見つめることで、私を自分の「記憶」(世界を認識すること)を通じて、この世界における新たな自分を見つけようとしているのだと思いました。
私がこの考えに依っているのは、多分、不確かな自分を確かなるものを理解することで、不確かな自分を、曖昧なまま置いておいても、自分を見失わなくて済むと思えるからなのだと思います。
昨日の私が、今日の私と違っていても、変わらず世界を理解できるのなら、私は、昨日の私でなくても、今日の私を生きれると思えるからです。
世界を理解すること、失ったら、今日の私は、世界を理解する以前のように世界を理解し、私を理解しようとするのでしょう。
ですから、確かなるモノを理解しておくことが、私の救いなのです。

ですので、幾分か、KKさんよりも世界を通して「私」を見る傾向が強いようです。
「記憶」というものが、世界によってもたらされるものだと感じるからのでしょうが。
私の中で「記憶」(個人としての記憶ではなく、世界の秩序としての「記憶」です)があまりにも、他の方の「記憶」と一致するからです。
これを不一致と呼ぶには、余りにも似すぎています。
むしろ、疑うべきは自分なのではないでしょうか?

ですが、「記憶」というものが完全に認識主体である私によって作り出されるだと言われれば、反論の余地はありません。
先にも書いたように、何でもありだからです。
明日、隣の人を殴り殺そうが、今日、お風呂で溺れ死のうが、今、近くにいる人を殺そうが、なんでもありです。
それは、私が作り出したものだから。

私はあくまで、世界を理解することで、自分を理解することが出来ると考える立場にいるようです。
KKさんのように、まず、己、在りきでには、どうしてもなれないのです。


>これをもう一歩進めて、私もまた夢だ、行為者としての私自身も夢の一部だ、と考えた場合どうなるでしょうか。決して自暴自棄にはならないのではないでしょうか。

つまり、夢の中での自分を、その夢の中で上手くやっていくように諦める?ということですか?
KKさんは、何に無意味さを感じていたのでしょうか?
そこのところを私は理解できていないようです。
もし、現実という貴方の作り出した夢に埋没することを諦めきれるなら何の問題もありません。
結局、そういうところで思考は一度、定常状態に達するんだろうなとは感じるときがあるからです。
ですが、誤魔化しなしに人生の意味を問う、とは、何を目的にした記載だったのでしょうか。

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ちょっとたじろぎつつ

発言番号:37
名前:kk
2003年01月27日11時19分

いつもながらの鋭い突っ込みにちょっとたじろぎつつ。
白いヤツさんのおっしゃる通り私は主観の方から物事を見ていく傾向が強いようです。

まず最初に
>誤魔化しなしに人生の意味を問う、とは、何を目的にした記載だったのでしょうか。
誤魔化しなくとは自分に対して誤魔化しなくというほどの意味だったと思います。
その自分すら夢の一部だとした場合、そのように問うこと自体意味のないことになってしまいますよね。

結局私の場合は苦しみから逃れる「ための」、心の平安を得る「ための」思想を探していたことになるのでしょう。そして何らかの思想や宗教を「信じる」のではなく、虚無の中に溶け込むことによって、己を捨て去ることによってそれが可能なのではないかと思い始めているのです。
もちろん人それぞれ考え方は違うわけですから白いヤツさんが白いヤツさんなりのアプローチの仕方で心の平安が得られるのなら何も問題はないのでしょう。

>つまり、夢の中での自分を、その夢の中で上手くやっていくように諦める?ということですか?
その通りだと思います。

>kkさんは、何に無意味さを感じていたのでしょうか?
自分と世界のあいだのギャップに対してだと思います。
自分と世界が二つある、と考えることから必然的に生じてくるギャップに対して無意味さを感じていたのだと思います。

ちょっと順序が逆になってしまいました。
今日のところはこのへんでご勘弁を。







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私からも一つ質問

発言番号:38
名前:kk
2003年01月28日08時17分

昨日の自分の書き込みを見てちょっと情けないなァと思っていますが、まだまだ自分の中で整理しきれていないのだからしょうがないと思うしかないのでしょう。

ところで、先日の白いヤツさんの書き込みを見てだいぶ判ってきたのですが、どうしても疑問に感じる点がひとつあります。それは
>「周りの世界が確かなるもので、自分が不確かなるもの」
>「周りの世界が現実で、自分が夢」
とありますが、そのように「不確かな自分」が「確かな世界」を認識できると考える根拠は何なのでしょうか?
世界の「確かさ」を最終的に保障するのは何なのでしょうか?

もうひとつ
白いヤツさんのように「確かさ」を求め続ける人生は、常に「不確かさ」に脅かされ続ける宿命を背負ってしまうのではないでしょうか?
そこに本当の心の平安はあるのでしょうか?

以上2点につきお答え願えれば幸いです。

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眠いので、サックリ行きます

発言番号:39
名前:白いヤツ
2003年01月29日02時16分

>そのように「不確かな自分」が「確かな世界」を認識できると考える根拠は何なのでしょうか?
>世界の「確かさ」を最終的に保障するのは何なのでしょうか?

確かに、いい質問ですね。
その答えは、多分一言で表すなら、やはり「矛盾を否定しない」とういレベルの言い回しを必要とします。
ですので、恐らく、私自身、自分自身を分かってもらうことにとても苦労することになるでしょう。
ですが、私は以前、それを。「カオス」「不確定性原理」なる用語を用いて説明しようとしたことがありましたが、なるべくバックグラウンドを多分に含む用語を用いることなく説明してみます。

質問1に対する回答:
 また、例え話なのですが、水面に映る月を「私」として、地球の周りを回る月を「世界」とします。
 そうすると、私は風や、水中を泳ぐ魚の動きにさえも、私を、「形」を変えてしまいます。時には、雲に隠されて私を見失うこともあるでしょう。正に、不確かな自分というに相応しいです。
 それに、比べると月は、それらの要因によっては、「形」を変えることがないので、「確かな世界」と、一見すると、月そのものを、そう呼んでしまうかもしれません。
 しかし、私の言う、「確かな世界」とは、存在する月、そのものではなく、実は、水面に映る「月」を映す、水と光、そしてその他の要因、風、水中の魚の動きなどを含め、揺らぐ私の成り立ちを理解することなのです。
 私は映りゆく、不確かな存在であるのにも拘わらず、確かに、確実に存在する月を認識することで、なんの救いがあるのでしょうか?
 私は、その揺らがない存在であるものに、憧れを覚え、そうできないとも知らずに(もしかしたら、出来るのも知れませんが、KKさんのいう涅槃の境地に立つなどの現象によって。ですが、そんな自分を私は望んでいません。心の平穏のあり方の違いによるものだと思います)、揺らがない自分を作り出そうと、努力することが私の救いでしょうか?
 いいえ、違います。
 宗教的になると、神になろうとでもしているかのようです。
 それは、大変、私を苦しめる結果となるでしょう。
 では、揺らぐ私の成り立ちなるものを理解するとは、一体何を意味するのか?と言いますと、
 私が不確かな損であることが、「確かな世界」の一部であることに気付くことです。
 今、用いた「確かな世界」は、地球の周りを回る「月」ではなく、「水面に映る月」を構成するものを指します。つまり、水を理解することです。それは、風などの要因によって揺らぐものです。ですが、それは、そういった世界の要因によって、不確かな形を作るものではあるが、その不確かさとは別の次元で、確かにいつも変わらず確かにそれらの要因によって、不確かな形をとる、確かなる存在です。
 そこを、理解すると私が不確かなことと、確かな世界が、矛盾なく理解できるのです。
 要するに、私は、私を世界の縮図と捉えたいようです、ですから、不確かな自分が、世界の縮図であれば私は心安らかのです。
 世界が不確かなものと見えても(こう見えることが、私の不確かさが否定されることがなくなるのです)、その不確かさを支える原理(これを「確確かな世界」と、私は称しています)を理解することで、私は、「不確かなる自分」を「確かなる世界」を通じて、不確かな世界の縮図として、つまり、私が世界と一体となって存在することを実感できるから、
 この考えに、私は救いをかんじるのです。

なんか、別々に質問に答えようとしたのですが、ごちゃまぜになって、答えてしまっていますね。
 しかし、眠いので、それを構成し直すことはせずに、登録します。
 まだ、まだ、言葉足らずで申し訳ないのですが、多分、チンプンカンプンだと思いますので、どんどん質問してください。
 私も、質問させていただくことがあると思いますが、そのときは、よろしくお願いします。


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かなり分かってきました

発言番号:40
名前:kk
2003年01月30日12時32分

こんにちわ。
白いヤツさんの水に映る月の例え、とても分かり安く、私自身の問題意識にもフィットしておりましたので、私も使わせていただきます。
今回の書き込みを見て、白いヤツさんの考え方がかなり分かってきたように思い、同時にどの点に誤解があったかも少しずつ見えてきたような気がしております。

まず最初に
>私の言う、「確かな世界」とは、存在する月そのものではなく、実は、水面に映る「月」を映す、水と光、そしてその他の要因、風、水中の魚の動きなどを含め、揺らぐ私の成り立ちを理解することなのです。
よくわかりました。この点については完全に誤解しておりました。「確かな世界」=「月そのもの」を指す、と考えておりました。

>私は映りゆく、不確かな存在であるにも拘わらず 〜 それは大変私を苦しめる結果となるでしょう。< までについて

確かにおっしゃる通りだと思うのですが・・・
私たちは「揺らぐ世界」=「無常の世界?」に住んでおりその中で様々なつらい経験をすることもあるでしょう。死や天災や事故など。そのような時には、「揺らぐ世界」=「無常の世界」の住人であることを知りつつも、「確かな世界」=「常なる世界」を求めてしまうのが人情なのではないでしょうか。たとえ、「月そのもの」になることはできないとしても、月そのものを一度でもいいから見てみたい、そしてそれが本当に「ある」ことを確信したい、もしくは、それが本当に「ある」ことを「信じて」心の拠り所にしたい、と思うのが私も含めた弱い人間の心情なのではないでしょうか。
しかしそれは、求めても求めても得られない。「月そのもの」を見ることは人間としての「不確かな私」である限り、未来永劫に不可能であろう。そのことに気づいたときに人は絶望感に陥るのではないでしょうか。「月そのもの」が本当に有るか無いかは、「信じる」か「信じない」かの問題になってしまう。

そこで私が「全ては夢だ」という意味は、「月そのもの」が本当に有るかどうかを私たちは決して知ることができない。そのようなことを知ろうとする努力は全て無駄に終わるだろう。「全ては夢だ」と考えることによって、そのような無駄な努力をしなくてすむようになるのではないか、と思ったわけです。
ですから「全ては夢だ」と言っても、白いヤツさんの言う「不確かな揺らぐ世界」の存在を否定するものではなく、「私もまた夢の一部だ」という意味は「私もまた不確かな揺らぐ世界の一部だ」ということとほとんど同じ意味になると考えています。

白いヤツさんは「夢」を主観としての私が創り出すもの、と考えておられるようですが、本当にそうでしょうか。
私たちが夜見る夢も、主観としての私が創り出したものであるならば、私の思い通りになるはずですが、決してそうではないと思います。むしろ多くの点で私たちが「現実」というものに似ているのではないでしょうか。私たちは夢の中で「現実」と同じように喜んだり悲しんだりしているのではないでしょうか。そしてそれは必ずしも主観としての私の思い通りになっているわけではありません。
夜見る夢は、脳内の何らかの作用によるものかもしれませんが、私たちが昼の「現実」を知るときにも、脳内の何らかの作用によって知っているのであれば、そこに「確からしさ」の違いはあっても本質的な違いはないと思うのですが、いかがでしょうか?

>私が不確かな存在であることが、「確かな世界」の一部であることに気付くことです。 〜 この考えに、私は救いを感じるのです< までについて

かなり分かってきたような気がします。そして、私自身の考えとさほど遠くない所にいらっしゃるように思えますが、以下のような理解でよろしいでしょうか。
「不確かな揺らぐ世界」をしっかりと理解していくことによって、「不確かな私」がその世界の一部であることを確認し、世界と私とのギャップを解消していく。「つまり、私が世界と一体となって存在することを実感できるから。」ここに心の安らぎと救いを見出すことができる。

これを私流に言い換えると
「不確かな夢の世界」をしっかりと理解していくことによって、私自身がその夢の世界の一部であることを確認し、世界と私のギャップを解消していく。となります。
私は「全ては夢だ」と言う事によって「全ては不確かな揺らぐ世界だ」ということを言いたかったのだと思います。「私自身も夢の一部だ」ということは「私自身も不確かな揺らぐ世界の一部だ」という意味になると思います。

矛盾した言い方になりますが、夢の中に埋没してしまうのではなく、夢の中で、しっかりと自覚的に目覚めていることが重要だと考えています。そうしなければ夢の中での「私と世界」のギャップに同じように苦しめられるだろうから。

大変長くなってしまいましたが一つだけ質問があります。
以前白いヤツさんは、自分自身の考え方の中にも誤魔化しがある、と言っていた様に思うのですが、それはどのようなことなのでしょうか。簡単に説明できるものであれば教えていただきたいと思うのですが。もし難しいようでしたら結構です。無視してください。

それから返事は特別急ぎませんので、時間のあるときにゆっくりでいいです。
決して無理をなさらないようにお願いいたします。

それでは失礼致します。































































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着かず、離れず。

発言番号:41
名前:白いヤツ
2003年02月01日12時36分

こんにちわ。
前回の書き込みで、そこまで理解していただけるとは、正直驚きました。読み返して、自分では言葉足らずだな、って感じていただけに。問題意識が近くにあるために理解していただけたのかな?、と考えております。

さて、まず以下の質問に対してなのですが、

>以前白いヤツさんは、自分自身の考え方の中にも誤魔化しがある、と言っていた様に思うのですが、それはどのようなことなのでしょうか。

確かに、誤魔化しがあると言いました。そして、その誤魔化しは今も確かに存在しています。ですが、私には、今、それをKKさんにどうしても伝えることができないと感じています。これは、お互いの理解や考えが違うために生じるものではなく、それを、私自身、あまり問い詰めないようにしていたためだからです。それを問い詰めるには、私がその誤魔化しを顕在化させた場合に、あまりにも防御力がないと感じていたためです。ですから、今のところ、その誤魔化しはうっすらとした状態にありますので、その例え方や表現の仕方が、よく分からないのです。今のところ、以前に書き込みました、「カオス」「不確定性原理」などの用語を、用いてしか説明できないのです。それ以外の表現では、その誤魔化しを伝えれないほどに、私は今までそれと向かい合うことを避けてきたのです。ですが、このまえの「白紙と文章」の話よりは、今回の「水と月」の話のほうが、この誤魔化しが何に当たるかを伝えることが出来るのではないかと、感じています。いずれ、「水と月」といった言いまわしで表現できる程に煮詰まりましたら、書き込もうと考えております。今のところ、ではこんな感じですので、今回は見送らさせていただきます。ですが、今回はこの誤魔化しを意識して、以下に質問の返答、感想を書いてみようと思います。

>「確かな世界」=「常なる世界」を求めてしまうのが人情なのではないでしょうか。
そう思いますよ、その傾向が自分の中にあることを感じることが多々あります。そして、それを否定するつもりはないです。

また、
>それが本当に「ある」ことを「信じて」心の拠り所にしたい、と思うのが私も含めた弱い人間の心情なのではないでしょうか。
についても、そのような状態の人を、私は弱い人間とは思いません。私はどうしようもなくなったら、「信じるものは救われる」を信仰することを、セーフティーネットとして用いることを、どこか最後の砦のように感じています。本当に、最後の砦です。何故なら、「確かな世界」を否定しつつ、「信じきる」を行うことは非常に困難を伴うからです。ですが、その困難を抱えた状態で、矛盾が顕在化しているにも拘わらず、一方で、その状態で平穏を勝ち取る自分を想像できると感じています。
何故でしょう?
それは、上にも書きました誤魔化しが存在するからです。それは、自分の心を偽っているという意味ではないのです。自分を世界の縮図と考えた場合に、世界の捉え方に、その誤魔化しが存在することを認めたために生じる誤魔化しなのです。ですから、私自身が私を誤魔化しているわけではなく、世界の縮図である私は存在しつつ、世界を認識する段階での誤魔化しを私自身に投影した結果、私に存在する誤魔化しなのです。
「世界を認識する段階での誤魔化し」とは、世界を2つの相が存在するものと考えることを許容することです。

KKさんの書き込み、
>夜見る夢は、脳内の何らかの作用によるものかもしれませんが、私たちが昼の「現実」を知るときにも、脳内の何らかの作用によって知っているのであれば、そこに「確からしさ」の違いはあっても本質的な違いはないと思うのです
、をこれに当てはめると、こうなります。
まず、この話には登場物としては、一般的な意味での「現実」、脳への入力としての「現実」、脳からの出力としての「夢」の3つが存在します。
また、脳にとっての「現実」には、一般的な意味での現実から脳へ入力される「現実」と、脳からの出力による夢から脳へ入力される「現実」の2つです。
一般には、この2つには脳が認識するという意味において、本質的な違いはないのですが、KKさんの書いているとおり、「確からしさ」の違いがあります。その違いを、私は許容した上で、それを誤魔化しと捕らえているようです。

また、KKさんと私の「水と月」の話には、以下の差があると思います。
それは、私の中で私を認識するのに必要な事柄が、一般的な意味での「現実」を、「確かなる世界(=月)」と「不確かなる世界(=水などの要因)」に分け、それを私が認識すること、だと考えます。
要するに、私の考えの中には、脳からの出力としての「夢」なるものを、入力される「現実」として捉える思考は、入っていないように考えます。
ですが、その違いが何を意味するのか、そして、それが本当に「違い」なのかは分かりません。ですが、私はそれでもやはり、KKさんと非常に近いところにいるのではないかと感じることもまた、事実です。

さて、私の話においての誤魔化しは何かといいますと、世界の捉え方の問題です。外界における世界を、認識するという意味、つまり脳への信号としての現実という意味では、KKさんのおっしゃる通り、本質的な違いはないと感じているにも拘わらず、さらに、KKさんの「現実」と「夢」の確からしさの違いよりは遥かに、その違いも少ない現実(「月」と「水」)について、2つの捉え方を許容していることだと思います。
それは、
「月」を、揺るがない確かな存在とし、
「水」を、揺るぐ不確かな存在としていることです。
これは、私が世界を不確かな存在で構成されていると確信しつつも、確かなる存在が、在ることを感じ取ってしまっていることに関係しています。

(余談ですが、前者の不確かな存在を、これまで私は「不確定性原理」という言葉に当てはめ、確かな存在を「ニュートン力学」という言葉に当てはめていました。そして、不確かな存在と確かな存在のギャップを埋め、私に救いを感じさせてくれる考えを「カオス」に求めていました。)

>夜見る夢は、脳内の何らかの作用によるものかもしれませんが、私たちが昼の「現実」を知るときにも、脳内の何らかの作用によって知っているのであれば、そこに「確からしさ」の違いはあっても本質的な違いはないと思うのですが、いかがでしょうか?
先ほどにも引用して、書いたように、本質的な違いはないと思います。ですが、私はその確からしさの違いに、ひっかかりを感じることがあります。
ですが、基本的に、その考えを受け入れることはできています。


>かなり分かってきたような気がします。そして、私自身の考えとさほど遠くない所にいらっしゃるように思えますが、以下のような理解でよろしいでしょうか。
>「不確かな揺らぐ世界」をしっかりと理解していくことによって、「不確かな私」がその世界の一部であることを確認し、世界と私とのギャップを解消していく。「つまり、私が世界と一体となって存在することを実感できるから。」ここに心の安らぎと救いを見出すことができる。

この理解であっていると思います。
簡単にいうと、世界が、確かな存在の中に不確かな要素を含んでいると認識することで、自分の不確かさを否定することなく、自分が確かに存在することを(昨日の自分と今日の自分の連続性を)認識できることです。
私は、おそらくKKさんが、私が不確かさを否定しないとしていることを、私(不確かな存在)と世界(確かな存在)との間のギャップを埋めると、表現したものと理解しています。

>矛盾した言い方になりますが、夢の中に埋没してしまうのではなく、夢の中で、しっかりと自覚的に目覚めていることが重要だと考えています。そうしなければ夢の中での「私と世界」のギャップに同じように苦しめられるだろうから。

これは、分かるような分からないようなという感じを受けます。
一体、自覚的に目覚めているとは、どういった状態のことを指すのでしょうか?
現実から脳へ伝えられる「現実」と、夢から脳へ伝えられる「現実」とを、その本質において違いはないと、考えることでいいのでしょうか?
なぜか、自覚的に目覚めているという表現から、これらの2つの「現実」と捉えている自分を、作り上げられたであろうもう一人の自分で観察することのように感じてしまいます。

これを例えるなら、
例えば、ここに、出力と入力を同時に行えるビデオカメラがあるとしましょう。
あるとき、そのビデオカメラは「現実」の世界である風景を撮影しました。
そして、その後、その映像をスクリーンに映し出しながら、それの映像を録画しました。
そのとき、そのビデオカメラは、自分で映し出した映像を録画したものを、どう考えるのですか?
KKさんの言い方でいくと、確からしさには違いはなく、記録される情報という意味において、本質的な違いはないと捉えることになると思うのですが、一方で、自覚的に目覚めているという表現からは、そのビデオカメラが映し出した映像を、そのビデオカメラが撮影している様を、もう一つのビデオカメラで違う場所から撮影しているように感じます。
どちらを、指した表現なのでしょうか?
つまらない質問をしまして、申し訳ありませんが、お返事お待ちしております。

あと、いたずらに長文になってしまったことをお詫びします。
では、また都合の良いときに。

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