「悟り」とはどんな状態?
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提案者基調
「悟り」とはどんな状態?

発言番号:1
名前:なんでだろうマン
2003年01月18日15時32分

私は仏教に興味を持っていますがまだほんの初心者です。
仏教の第一の目標は「悟り」を得ることだと思うのですが「悟り」とはどのような状態でしょうか。私の今現在の理解では「われわれに真に直接与えられている経験とそれ以外の部分(思考が作り出した部分)を明確に区別すること」だと考えているのですが、基本的な理解としてこれでいいのでしょうか。
このサイトを見ている方で本当に「悟り」を得た方がいらっしゃったら教えてください。よろしくお願いします。

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悟りとは?

発言番号:2
名前:土竜
2003年02月20日14時49分

生きていて、あらゆる感情を出し切った後に出てくる一瞬の空虚感。
それが悟りじゃないですか?でも、その悟りは継続しない。
感情を超えたところに、存在するんじゃないですか?

喜び、悲しみ、怒り、憎み、憐れみ、挫折、高揚・・・
あらゆる感情の超えた所にある、空虚な瞬間。

悟りとは、「空」を認識する事と思います。


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質問

発言番号:3
名前:なんでだろうマン
2003年02月20日23時10分

「空」を認識することが悟りだとすれば
人生が空虚であることを知ることが悟りなのでしょうか。
人生が空虚であることを知ってどうして幸せになれるのでしょうか。
土竜さんは「空」を認識して幸せになれましたか?

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?

発言番号:4
名前:***
2003年03月02日10時15分

投稿者さんは、「幸せ」に「なりたい」から
仏教に興味を持たれたのでしょうか?

仏教では幸せに「なれ」ないと思います。
ぶっちゃけ、他の何であっても幸せに「なれ」ないと思います。
幸せとは「感じる」ものだと思うので。

仏教は素人なのですが…。
生は苦の連続だと、苦に満ちているのだと、
それでも尚、生きるのだと。
意味があろうと無かろうと、それでも生きるのだと。
(理由や意味付けが無いと人は不安になり易いから、
それをもって苦という意味に含まれているような気もします)
そういうことではないかな。
最近、自分についてひどく落ち込むことがあり
「それでもこの自分で生きていくしかないのだな」
…と思い始めています。
ある種、覚悟が出来てきたような感じです。

覚悟、という字を分解すると
「悟りを覚える」と書きますしね。

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仏教に興味を持った理由

発言番号:5
名前:なんでだろうマン
2003年03月02日21時35分

書き込みありがとうございます。
ご質問の
>投稿者さんは、「幸せ」に「なりたい」から仏教に興味を持たれたのでしょうか? について。

「幸せになりたい」という気持ちは、確かにあります。それを否定することはできません。
仏教に興味を持ったのは、人生の無意味さや、空虚感に遭遇したとき、(仏教的に言えば「苦」という概念に含まれるのでしょうけど)だと思います。
仏教が主題的に取り上げている、「無常」「無我」「縁起」「空」などの概念が、そのときの自分の心情にマッチしていたので、興味を持ち始めたのだろうと思います。
ご存知だとは思いますが、仏教は、ブッダが、「一切皆苦」という認識を持たれて、そこを出発点として、苦しみが生じる原因を究明し、その原因を除去することによって、苦の克服を目指した過程だ、と私は解釈しています。
ですから、「幸せになる」ことは難しいとしても、「苦」を減少させていくことによって、相対的に、「幸せに近づいていく」ことは可能だと思っています。
そのような要素がなければ、宗教としては無意味でしょう。
人生が、空虚で、無意味で、苦の連続であることを知るだけならば、何も仏教に依らずとも、虚無主義的な哲学で十分でしょうから。

私は、「苦」を減少させることによって、「幸せに近づく」事ができると思うから、仏教に興味を持っています。

***さんが、
>生は苦の連続だと、苦に満ちているのだと
感じていらっしゃるのは、仏教的に言えば、宗教的発心にあたるのだと思います。なかなか、そこまで思い至る人は少ないようです。
>「それでもこの自分で生きていくしかないのだな」と思い始めています。
すばらしい覚悟だと思います。

最後に
「幸せになる」ことと「幸せに感じる」こととは、どのように違うと考えていらっしゃるのでしょうか。私には同じに見えるのですが。
「幸せ」に客観的な基準が無い以上、それを判定するのは、個人の主観しかないと思うから。













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なんでだろうマンさんへ

発言番号:6
名前:***
2003年03月05日21時55分

幸せにに「なる」や、「幸せに近づく」では、
「幸せ」というものが、何だか「モノ」や「状態」「場所」として
不変のモノ、というような定義付けされているような
感じを受けますが、私のうがち過ぎでしょうか。

例えば…
悟りを開いたら(涅槃の境地に至ったら)、幸せに「なれる」とします。
では、「悟りを開くまでの自分」は
「不幸」なのでしょうか?

そして、
あなたの定義する「苦」とは何でしょうか?
「幸せ」とは何でしょうか?

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幸せについて

発言番号:7
名前:なんでだろうマン
2003年03月06日12時04分

ご質問の意味を正確に捉えていないかもしれませんが、
ご指摘のように、私は「幸せ」をある種の「状態」として、捉えているようです。
ただしそれは、「不変のモノ」としてではなく、現在の自分のあり方とは違う、相対的で可変的な「状態」として、考えています。
私は全然悟っていないので分からないのですが、悟りを開く前と後では、心の状態は違うのではないでしょうか。そうでなければ、何もわざわざ「悟り」という事を持ち出す必要も無いでしょうから。
「幸せ」と「苦」の定義についてですが、前回も書いたように、客観的な定義はできないと思うのですが、あえて言うとすれば、
「苦の無い状態が幸せであり、幸せの無い状態が苦である。」ということになってしまいます。
仏教においては、「苦」の原因は「執着」であり「執着」の原因は「無明」「無知」だ捉えているようですが、「苦」とは何かを定義している所には、お目にかかった事は無いのですが、私の勉強不足かもしれません。
もしお分かりでしたら教えてください。


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悟り

発言番号:8
名前:土竜
2003年03月06日19時44分

悟りとは、現実のあらゆる現象を有りのまま受け入れると言う事。
固定観念は無い。現実認識。この世は全て、原因の結果。
生まれたから、悩む。何に悩むの?
悩みその物が、固定観念からくる。
思い道理に成らないと言うのは、人の思い上がり。

他の動物は、悟りすら得ようとしてないのか?
それとも悟りを得たから、今のままでいるのか??

そもそも悟りとは何か? 現実の存在の認識だと思う。
有りのまま、有りのまま・・・・

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土竜さんへ

発言番号:9
名前:なんでだろうマン
2003年03月08日10時30分

全ての現象を、「有りのまま」に受け入れられたら、本当にいいですね。
私には、難しいことですけど・・・。

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こだわると、囚われる

発言番号:10
名前:***
2003年03月08日23時17分

仏に会っては仏を殺し、
親に会っては親を殺せ(あれ?順序逆だったかな)

なんだか、何でだろうマンさん、
「悟り」という偶像に振り回されてるように思えます。
「それさえ手に入れば…」って。

目的に囚われたら、単なる偶像崇拝者と変わらないのでは…

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発言番号:11
名前:なんでだろうマン
2003年03月08日23時44分

そうかもしれませんね。

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私の場合ですが…

発言番号:12
名前:みつば
2003年03月15日14時56分

初めまして、二十歳のみつばです。
私のおばあちゃんが熱心な仏教徒だったので、
幼い頃から仏教に接してきました。
「悟り」を言葉にするのはとても難しい事だと思います。
私の場合ですが、集中して勤行を行っているとフッと意識が飛びます。
五感はしっかりしているのに、自分が生きていると感じない状態…
それが「空」の状態かは分からないのですが。
悪魔でも私の場合です(汗)

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私も興味があります

発言番号:13
名前: 詞
2003年05月17日00時32分

{チャクラ}{クンダリニー}とか知っている人いますか?
色即是空空即是空などはわかるんですが、{クンダリニー}を身に付けたて
七つの{チャクラ}を開眼した人っていますか。
 それでどう変わりました?

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如来とは・・・

発言番号:14
名前:普通人
2003年06月28日02時29分

悟りに達した人を「如来」と呼びます。しかしながら、悟りの境地は100万人に一人の天才にして可能ともいわれます。

「如来」はサンスクリッド語の中国語訳で、「かくの如く来れる人」という意味だそうです。自然と一体化した人。

しかし、「針でつつくと痛い、火は熱い、馬鹿にされれば悔しい、かわいい娘に心が騒ぐ、息をしなければ苦しい、腹が減る」。

人間として当然の反応ですから、これら超越して生きるほうがはるかに難しいと思いませんか。

個人的な意見ですが、釈迦は合理的な人と思います。
「自己の病気、経済的破綻、家族の死、老衰、やがて訪れる死」、これらは修行すれば「自然の理」として受容できる気がします。
このような悟りは可能ではないでしょうか。


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そうですね

発言番号:15
名前:なんでだろうマン
2003年07月01日22時35分

私は全然修行をしていないので
生老病死を「自然の理」として受け入れられません
情けないですね

「自然の理」と「生命の本能」はどうして一致しないのか
生命は自己の存続と、増殖を求める
しかし、自然は常に壊れて行く
このジレンマが、「苦」なのですかね?



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発言番号:16
名前:
2003年07月19日16時33分

<「自然の理」と「生命の本能」はどうして一致しないのか
生命は自己の存続と、増殖を求める
しかし、自然は常に壊れて行く
このジレンマが、「苦」なのですかね?

 その、攻め合いで万物はつり合っているのでは?

 ちょうど惑星との引力のつりあいと同じように。


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覚りの境地

発言番号:17
名前:SRKWブッダ
43歳
2003年12月17日01時15分

人が、誰しも到達すべき境地。 すなわち、覚りの境地はニルヴァーナの境地とも言います。 この境地は、略して説明すれば次のような境地です。

仏教用語を用いて説明すれば、六祖慧能が六祖壇教の中で述べているように、三毒が三学に転換した境地と言えるでしょう。 すなわち、

@ 貪(むさぼり)が消滅して戒に転換した境地
A 嗔(いかり)が消滅して定に転換した境地
B 痴(おろかさ)が消滅して慧に転換した境地

他の仏教用語で表現するならば、次のように言えるでしょう。 すなわち、

@ 情欲が消滅して具足戒(無相戒)に転換した境地
A 嫌悪が消滅して不動心に転換した境地
B 迷妄が消滅して清浄心に転換した境地

平易な表現では、次のように言えるでしょう。 すなわち、

@ まったく、きょろきょろしない境地
A まったく、いらいらしない境地
B まったく、じたばたしない境地


そして、ニルヴァーナの境地では次のようなことがその人の身に如実に体現されます。

● いずこからか不意にやって来る衝撃音や怒声、罵声にまったく驚かない(どきっとしない)
● 突然、目の前に飛び出た衝撃的映像にまったく驚かされない(ひやっとしない)
● 顔が触れ合うほどの至近距離に、他人が近づいてきても嫌でない(ぞわっとしない)
● 全世界において嫌いな人が一人もいないと確信する(親族や我が子のように見える)
● 他の人の行為に、影響を受けない(おののかない,じれない,せかされない)
● 他の人の行動に、いかなる悪意をも見出せない(悪意が何かさえ思い出せない)
● 他の人の表情に、嫌な顔を見出せない(誰の顔をも目をそらさずに見つめることができる)
● 他の人の表情に、真実の笑顔を見出せない(目が笑っていないと感じる)
● 他の人のくすぐりなどに、煩わされない(自分でくすぐっているのと同じ)
● 争いに巻き込まれることが無くなり、また他の人々の争いを見かけることも無くなる
● (大好きだった人も)お酒を一滴たりとも飲めなくなる(気取りではなく、本当に飲めない)
● あらゆる味わいが余韻を残さず、同時に嫌な味も無い(味や旨みは正常に分かります)
● 時間の遅延、停滞が気にならない(例えば、予想外の渋滞に巻き込まれても平気です)
● 過去に為したことについて、気にやむことが一切無くなる(くよくよしない)
● 身体の中心軸が通り、重心が安定し、つまづかない(動作が基本的に対称的になる)
● ため息をつくことが出来ない(その演技さえ出来ない)
● (時を経て)声が響く声になる
● (時を経て)瞳が透き通ってくる


ニルヴァーナの境地は、(悪しき、余計な)識別作用が滅尽し、完全にくつろぎ、ときほごされていて、怒ることがない境地、争うことが無い境地です。 したがって、いかなる手段を以てしても、ニルヴァーナの境地に至った人を驚かせたり、動揺させたり、怒らせたり、その人と争ったりすることは不可能です。

また、ニルヴァーナの境地は、一旦達すればその後は一瞬たりとも途切れることなく常にこころを安穏ならしめる境地です。 しかも、ニルヴァーナの境地を維持するために行うべき継続的な努力は何も必要ありません。 なぜならば、ニルヴァーナの境地は、世間におけるいわゆる修行や努力の見返りとして生じた境地では無いからです。 ニルヴァーナの境地は、一大事因縁によってのみ顕現する出世間の境地であり、それゆえに一旦達すればあらゆる世間の事柄から離れることができるのです。


[補足説明]
釈尊の原始経典では、ニルヴァーナの境地について次のように記しています。

○ 「ヘーマカよ。 この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。 世間の執着を乗り超えているのである。」と。(スッタニパータ)



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感謝と質問

発言番号:18
名前:earth
43歳
2004年01月13日14時51分

SRKWブッダ 様

悟りの境地についての平易で明晰なご回答、誠にありがとうございます。
私のような凡人にはとうてい及びのつかない境地だとは思いますが、貴兄の説明でぼんやりとしたイメージくらいは描けるような気がします。
一つだけ質問ですが、貴兄はどのような過程を経て、ニルバーナの境地に達したのでしょうか。文面から推し量って難行苦行の果てに達したようには見えないので。差しつかえの無い範囲で教えてもらえれば幸いです。

まだこのコーナーを見ていてくれることを祈って。

旧名 なんでだろうマン

会員登録して名前がearthになりました。


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覚りの境地に至るプロセス

発言番号:19
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月14日23時54分

覚りの境地に至るプロセスは、すべてが後付けで理解される性質のものであって、それを(プロセスとして)事前に説明することはできない性質のものです。 ここで言えることは、覚りの境地に至る道は確かにあり、それは虚妄ならざるものであり、そしてそれは自分のみに依拠し、自ら気をつけて行い、自ら知って、自ら決心し、自ら至る道であり、それは如何なる誰もが達し得る道であるということだけです。 そのことは、間違いありません。

ただし、無理を承知で以下では敢えて説明を致します。

覚りの境地に至るために日常で行うべき最初の一歩は、正しい発心を起こすことです。 ここで、発心とは覚りの境地に至ることを自ら願う真実のきっかけのことです。

ところで、発心は、書物や人の話を聞いたりして何か学んだことで生じるものではなく、誰からか教え諭された結果生じるものでもなく、誰かにけしかけられた結果生じるものでもなく、(ブッダを含めた)誰かに憧れた結果生じるものでもありません。 発心は、一切の外的要因とは直接関係なく、自ら生じた覚りに向かおうとする本当の気持ちであるからです。

そして、発心は、驚くべきことに聡明で冷静な精神状態においてのみ現れるのではなく、動揺し、散乱した精神状態においてさえ現れることがあります。 例えば、自分が本当はどこか不本意な行為を為しているのだと自ら恥じる気持ちを持った人が、お酒を飲み酔っぱらった精神状態において、理法について人と語り合う中でふとしたことから発心を起こすことさえあります。

また、発心は、本人を覚りの境地に向かわせるだけでなく、その発心の言葉を何気なく横で聞いていた周りの人々をさえ巻き込んで、人をして覚りの境地に向かわせる力を持っています。 なぜならば、どのような境涯にいる人が起こした発心であっても、そのときその人は気高く、美しく、輝いているからです。 そして、その様子を見た人は、その気高さに心打たれて自分のあやまち(勘違い)に気づき、自らも真実の発心を起こすに至るのです。

世間において、「魔がさしたのだ」と言われることがありますが、この言い方を借りるならば、発心とは「仏がさした」ということです。

覚りの境地に至るプロセスを大胆に要約するならば、それは次の四つであり、第五のものはありません。

@ 正しく発心すること
A 気をつけること(精励)
B 第二の気をつけること(観自在)
C 最後の気をつけること(観照)

なお、Cは覚りの境地に至った後で行うべきことです。

また、覚りの境地に至るプロセスを別の表現にまとめるならば、次のようになります。

● 人をして安穏の境地に至らせ、そこに安住せしめる不滅の法(ダルマ)の存在とその威力についての正しい信仰があり、その法を知って自らがブッダになろうと決心する正しい発心を起こした人が、徳行において精励し、聡明であって、真実の教えを聞こうと熱望し、善知識が発する法の句を聞いてそれが正法そのものであることに気づき理解し、諸仏の智慧を一つでも自らのものとするならば、ついに覚りの境地に至る。

これが、覚りの境地に至る道です。



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お返事ありがとうございました

発言番号:20
名前:earth
43歳
2004年01月15日23時48分

またまた丁寧なご回答を頂き、ありがとうございました。

貴兄の説明は確信に満ちており、尚且つ、最近の新興宗教の教祖様のようないかがわしさは微塵も無く、とてもスッキリとしており、好感が持てました。

人それぞれ、背負っている因縁は異なるわけですから、覚りに至るプロセスも十人十色、百人百色となるわけで、このようにすれば必ず覚りの境地に至れるという統一したマニュアルを作れるはずはない、ということなのでしょう。
私も含めて大多数の人々は、覚ることも無く、本気で覚りを目指すことも無く、一生を終えてしまうのだろうと思いました。

「覚りの境地に至るために日常行うべき最初の一歩は、正しい発心を起こすことです。ここで、発心とは覚りの境地に至ることを自ら願う真実のきっかけのことです。」

愚問と知りつつお尋ねしますが、「正しい発心」というものはどうやったら生じてくるものなのでしょうか?おそらくそれも十人十色で、こうすれば生じると言う型はないのだろうとは思いますが。誰もが覚りに至る可能性を持っているのに、「正しい発心」が起きないから、覚りに至ることもない。でも、どうやったら「正しい発心」が起こるのかもわからない。これが大多数の人々の現状だと思います。

私は今だかつて覚りを得た人にお会いしたこともなければ話をしたこともないので、そういう人がどのような生活をして、どのように考え、どのように周りの人に接して、どのような影響を与えていくのか、とても興味があります。

会員登録をすると、非公開で一対一の意見交換もできるようです。もしお嫌でなければ是非とも一度お願いしたく、よろしくお願い致します。

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正しい発心

発言番号:21
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月16日00時13分

正しい発心とは、覚りの境地に至ることを願うことではなく、覚りの境地に至ろうと(壮絶なる)決意をすることでもなく、覚りの境地に至った人(ブッダ)に憧れることでもありません。

正しい発心とは、予め覚りの境地を目指す人が、あることをきっかけにしてそれまでの覚りの境地を目指して行ってきた行為についての勘違いに(誰かに指摘してもらうことなく)自ら気づくことです。 しかも、気づくとは言っても、発心は気づきではありません。 発心は、その人が覚りの境地に至った後で、過去を振り返ったとき、「あれこそが発心であった」と後付けで気づくことです。

しかしながら、発心は確かにあることで、それはその人にとっての(第一の)善知識によってもたらされます。 人は、善知識、すなわち化身(一瞬の化身仏)の放つ「法の句」(善知識と名づく)を聞いて、正しい発心を起こします。

そして、一度正しい発心を起こした人は、それ以後は正しく気をつけるようになります。 そしてまた、そのように正しく気をつけている人が、(第二の)善知識に逢い、本当の「法の句」を聞いてそれを正しく理解したとき、その人は直ちに覚りの境地に至ります。 そのとき、それを正しく理解できるかどうかは、一大事因縁に依っています。 そして、その人に一大事因縁が起こり、正しく覚りの境地に至った人は、その後(第三の)正しく気をつける行為を為すことになります。 これを諸仏の誓願と名づけ、この誓願に生きる人が覚れる人、ブッダに他なりません。 正しい発心について、要約すればこのようになります。



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宝くじのたとえ

発言番号:22
名前:earth
43歳
2004年01月16日12時17分

これまでのSRKWブッダ様のご意見をお聞きして、大変卑近な喩えで申し訳ありませんが、宝くじの喩えを思いつきました。当たりくじが「覚り」という宝くじです。

宝くじは何百万人の人が購入して、そのうち1等が当たるのは何万分の1、何十万分の1という確立です。これと同じように「覚り」という当たりくじを目指して、何百万の人がそれぞれに、思い思いに修行に励んだとしても、その内覚れるのは数人、または数十人程度。一生宝くじを買い続けても当たらない人もいれば、数回買っただけで当たる人もいる。けれども宝くじを買わない人(覚りを目指さない人)には決して当たることはない。宝くじを買い続けるかどうかは本人次第(本人の努力次第)であるが、当たるか当たらないかは、偶然(さまざまな外的条件、一大事因縁)によって左右される。諦めたらそれまで。諦めずに買い続けても生きている間に当たる保障はない。しかし、せっかく人間に生れたからには「覚りの境地」を目指して宝くじを買い続けるべきだ。

大変荒っぽい喩えになりましたが、このような理解でよろしいのでしょうか。





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さまざまな譬え

発言番号:23
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月16日12時47分

おっしゃるとおり、覚りの境地に至る道は宝くじが当たる過程と似ています。 ただし、違うのは覚りの境地に至るためには一円のお金も不要であり、どのお店が当たるというような情報(誰がブッダであるかどうかというような)も不要であり(師は無用)、覚りは有限のものが手にはいるのではなく無尽蔵の智慧が手に入るという点であり、手に入った後でも気が動転したりせず、使い道に困ることもなく、すべての苦が滅尽し、ときほごされて、一切の煩いが消滅し、為すべき事をすべて為し終えたという正しい智を生じることです。 なお、一大事因縁は、確かにその確率は宝くじ以上に小さく見えますが、正しく法(ダルマ)を求める人にとっては100%の確率で当たるものです。 それが0%となるか、100%となるかは、すべてその人自身に依拠したことです。

ところで、実は昨年の暮れ(’03年12月19日)から、下記に記す他の方のサイトの談話室(掲示板)におじゃまして覚りの境地についての談話に参加しています。 そこにかなりの書き込みをしておりますので、earthさんがお知りになりたい当面のことは、そこで読めると思います。 ご興味がお有りでしたら、是非どうぞ。

Noboruさんの談話室(掲示板): http://bbs3.otd.co.jp/312564/bbs_plain

同サイトのトップページ: http://www.geocities.co.jp/NatureLand/1702/case/index-c.html

P.S
なお、上記談話室における過去ログは、ページの一番下にある「天使の羽の上にBackと書かれたロゴ」をクリックすることで順次遡ることができます。 また、表示形式は、同ページの上部にある[Plain] - [Tree] - [Index] - [Thread]を予めクリックすることで4つの表示形式から任意に選択できます。


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お礼

発言番号:24
名前:earth
43歳
2004年01月16日18時02分

ご紹介の談話室、SRKWブッダ様の発言のところだけざっと読まさせて頂きました。
「誰にでも、いつでも、覚りに至る可能性はある」との記述があり、大変力づけられる思いがしました。私も諦めることなく、希望を棄てずに、生きてゆけたらと思います。ありがとうございました。

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それはそれとして

発言番号:25
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月16日18時22分

earthさんへ。

あちらの掲示板の件。 了解致しました。 それはそれとして、この掲示板においてもやり取りは致しますので、なにかありましたらこれまで通りに是非どうぞ。 なお、当面は公開の場(掲示板)における談話のみを考えております。 ご了承下さいませ。


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お言葉に甘えて

発言番号:26
名前:earth
43歳
2004年01月18日12時13分

お言葉に甘えて一つ質問させていただきます。

「覚りの境地に至ったものは一切の争いごとに無縁になる」とのことですが、世間において、自ら覚りを得たと称する人の中には、大変好戦的な方もおられるようです。また、歴史上においても、ある宗派(仏教の)の始祖が、特に他の宗派に対して、極めて批判的であったり、挑戦的であったりした例は多数あったかと思われます。このような場合、それらの方々は、今だ覚りとは縁遠い方々と見るべきなのか、それとも、他人と争う気持ちはなくとも、大衆に対する様々な影響を考えて、あえて、そのような戦闘的な態度をとるに至ったのか、どちらだと考えればいいのでしょうか。具体的な話ではないので、お答えにくいかとは思いますが、一般論として、真に覚りに至った者が、たとえ演戯ではあれ、他人と争うということがあり得るのでしょうか。

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争う心

発言番号:27
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月18日12時41分

覚りの境地に至った人には、一切の争いの心はありません。 それを演技することもありませんし、敢えて演技しようとしても不可能です。

例えば、幼稚園児達が大好きなお遊戯も、大人になれば不可能になるようなものです。 大人にとってお遊戯は、演技さえもできないものです。 恥ずかしいとか恥ずかしくないとかの問題を超えて、演技することさえできないのです。 それと同様に、覚りの境地に至った人は争うという相を見せることはありません。

覚りの境地に至った人の特徴は、次のようなものです。

● その人は、誰とも争うことが無い
● その人は、識別作用が止滅している
● その人は、すべての苦しみから脱れている
● その人は、始まりも、中間も、終わりもよい話をする
● その人は、誰も苦しめない
● その人は、誰にも影響を受けず、同時に誰にも影響を与えない
● その人は、他の人に何かをけしかけることがない
● その人には、貪嗔痴が認められず戒定慧が見られる
● その人には、迷いが存在しない
● その人には、嫌いな人は一人としていない
● その人の行為は、本人も他の人々も後悔することがない



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「誰にも影響を与えない」とは?

発言番号:28
名前:earth
43歳
2004年01月18日14時52分

言葉尻を捕えるようで申し訳ないのですが、真に覚りを得た人が「誰にも影響を与えない」ということを文字通り解釈すれば、釈迦が覚りを得た後に、説法を始めたのはなぜでしょうか?たとえ、最終的には覚りを目指す個々人の、自らの力によって覚りに至るのだとしても、そこに至る道筋において、何らかのヒントを与えるために、説法を始められたのではないでしょうか。そして、そのことによって、覚りに達した人が、当時はたくさんいたのではないでしょうか。
同様に、SRKWブッダ様が、ネット上において意見を述べることによって、何らかの影響を他人に与えることは、必至なのではないでしょうか。

人は生きている限り、他人から影響を受けたり、他人に影響を与えたりして生きていくのではないでしょうか。(無人島に流された人は別にして)

影響を受ける、与える、をどのような意味で使っているのか教えてください。

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影響を与えないこと

発言番号:29
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月18日15時40分

他の人をして、自分(ブッダ)と等しく異なることが無いようにしようという誓願。 これを諸仏の誓願と名づけ、この誓願のみにもとづいて行為する人が覚りの境地に至った人(ブッダ)に他なりません。

それゆえ、覚りの境地に至った人は、未だ覚りの境地に至っていない人々の切実なる問いに過不足なく答え、あるいはそのような人々の望みを本人および他のいかなる誰もが後悔しない形で叶えてあげたいと常に思っています。

それを実現するためには、人々の状況を正しく把握することが必要であり、そのために為すブッダのありようを観照と名づけます。 ところで、人は誰かと対峙しているとき、相手の言葉やしぐさ振る舞い、目の動きなどを見て一瞬のうちに自分自身に都合のよい対応を為してしまいます。 つまり、自分が相手に与えた影響による相手の変化を見て、自分の様子を変化させてしまいます。 しかし、それでは自分の本当の姿を相手に見せていないことになります。 したがって、ブッダは相手に一切の影響を与えず、相手が最も自然に振る舞う状況を作り出し、それによって相手の状態を正しく観照し、そして相手に正しく対応するのです。

そして、ブッダはそのように如何なる相手にも影響を与えないことによって、如何なる誰からも影響を受けず、自らの安穏の境地を(そうとは意識せずに)保持するのです。 これが、覚りの境地に至った人が誰にも影響を与えないということの真実です。

やや強引に譬えれば、例えば名医が、患者がどんなに悪い状況にいてもそのことを微塵も顔に出さず、つまりそのことについて何ら影響を与えないようにして「これは治りますよ」と確信をもって言うようなものです。 そして、そのように嘘いつわりなく言うことによって、患者が自分の病気と闘う力を最大限に引き出します。 そうしなければ、どんな患者も治癒しないことを名医は知っているからです。 それと同様に、覚りの境地に至った人も世間的ないわゆる影響は与えません。 そのように、ご理解下さい。



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ただ一つでも苦を真実に滅すれば・・・

発言番号:30
名前:earth
43歳
2004年01月19日10時45分

「ただ一つでも苦を真実に滅すれば、すべての苦が滅尽する」
とありますが、またまた卑近な話で申し訳ないのですが、例えば、
「自分の妻との人間関係における苦を、真実に滅すれば、すべての苦が滅尽する」と置き換えてもよろしいのでしょうか。
「正しい発心」と言われてもなかなかピンと来ないので、より具体的な、個人的目標としてどうかなと思ったものですから。
私としては、それすらも至難の業のように思えるのですが。

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苦の滅尽(縁起)

発言番号:31
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月19日12時44分

ただの一つでも、苦を正しく滅することができれば、あらゆる苦の原因がすべて滅する。 これが、覚りの縁起です。 なお、この場合の苦とは、世間的な苦ではなく、根本的な苦、すなわち煩悩を指しています。 つまり、煩悩の数だけ覚りの道があるのです。 そして、煩悩は未だ覚りの境地に至っていない人が、名称と形態(nama-rupa)を心に有し、それを真実のこころだと(誤って)認知しているゆえに現れるものです。

なお、煩悩はご質問に記されているような「人間関係」の中にこそ含まれており、煩悩を滅するとは人間関係を正常ならしめることに他なりません。 そのためには、「慈悲観」と「平等観」を行い、自らの本心に(正しく、しかも気づきではなくして)気づかなければなりません。 それによって、人無我を(意識することなく)知り、その状態において善知識が放つ「法の句」を聞き、あるいは想い出し、それを正しく理解することによって「法無我」を知るに至ります。 この法無我を知ることが、覚りの境地に他なりません。

人間関係において、自らの本心が求めていることは、実は他の誰もが(本心においては)等しく求めていることであると知り、それを邪魔している障碍こそ名称と形態(nama-rupa)であり、それらゆえに人は本心で行為することが出来なくなっているのだと(正しく行う観において)知らなければなりません。 そのようにして、自ら得た(正しい)結論は、全人類において普遍の(正しい)結論であると言えるのです。 そのように自ら知って、そのようにして自ら得た(正しい)知見にもとづいて行為する決心を為したとき、人はあらゆる煩悩から解放され、覚りの境地に至るのです。


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スポーツについて

発言番号:32
名前:earth
43歳
2004年01月20日13時25分

いつも心のこもったご回答を頂き、誠にありがとうございます。

正直言って、今の私には理解不能の点も多々あるのですが、いくら聴いても分からないものは分からないだろうと言う予感もするので、また、身近な例に即して、ひとつお尋ねいたします。

私はスポーツ観戦が好きで、よくテレビでいろいろな試合を見たりしています。また、自分でも何種類かのスポーツをやっています。健康のためと言う名目もあるのですが、本心は、試合中のワクワク感が、何とも言えず好きだからです。たとえルールの範囲内であるとはいえ、スポーツは争いごとであり、それを楽しんでいる自分がいます。

競技としてのスポーツを楽しんでいるうちは、覚りに至ることはない、と考えた方がよろしいでしょうか?

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楽しみ

発言番号:33
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月20日14時06分

子供には、子供ならではの楽しみがあります。 例えば、プラモデルを作ったり、友達と独楽を回して競ったり、仲間達と子供らしいカードゲームに興じたりというようなことです。 ところが、子供が大人になったとき、それらの子供じみた楽しみはすべて無くなってしまいます。 そして、それは順次起こるのではなく、子供が大人になった瞬間にすべての子供じみた楽しみは消滅し、大人としての楽しみが新たに現れるのです。

それと同様に、未だ覚りの境地に至っていない人が楽しみとするところのものは、覚りの境地に至った人は楽しみとせず、覚りの境地に至った人にはそれとは違う、そのような楽しみを超越した(本当の)楽しみが起こるのです。 その楽しみとは、自らの行為が一切後悔を生じることが無いことを常に知って楽しむことであり、煩いを生じるあらゆる識別作用が消滅している自分を如実に発見して楽しむということであり、自らが他の人と較べてすぐれているとも、劣っているとも、等しいとも思わないという楽しみであり、如何なる誰にも振り回されず、しかも如何なる誰とも争う心が無くなった自分を見て楽しむということです。

すなわち、未だ覚りの境地に至っていない人が楽しみとするところのものは、名称と形態(nama-rupa)ゆえに感受するものであり、しかしそれゆえに、瞬時にして生起する自分成らざる好ましからざる衝動や感情、情動、熱情、気分があるのだと知らなければなりません。 それは、確かに人を(世間的に)感動させる要因であるのは確かですが、しかしそれゆえに人を煩わせ、悩ませ、苦しめているのも間違いありません。 

ゆえに、覚りの境地を目指す人は、つまらぬ楽しみを(正しく)捨て去って、真実なる楽しみをこころに知って、その楽しみの境地に安住することを熱望すべきです。

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ひとつの努力目標として

発言番号:34
名前:earth
43歳
2004年01月21日13時28分

人間関係におけるトラブルの大半は、お互いのエゴとエゴのぶつかりあいが原因になっていると思われます。

「あなたは、いつも、自分のことしか考えていない。」
「そういうおまえだって、いつも身勝手なことばかりしている。」

夫婦喧嘩の根底には、上記のような感情が渦巻いているように思います。
互いに相手のエゴはよくみえ、なじり、そのくせ自分のエゴを指摘されると、反発し、素直に受け入れることが出来ない。なんとも情けない状況にあるわけです。
これは、夫婦関係に限らなくても、一般的な人間関係のトラブルの根底には、エゴとエゴのぶつかりあいがあると考えても良いでしょう。

そこで、一つの努力目標として、

「できるだけ相手の立場にたって、物事を考え、行動するようにする。」

というのは、いかがなものでしょうか。
いきなり、「エゴを滅せよ、無我になれ。」といわれても、我々凡人にはとうてい不可能なので。まずはできるところから。

このように努力するならば、それは「正しい発心」になりうるでしょうか。


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自我(エゴ)の滅尽に向けて

発言番号:35
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月21日15時27分

結論を先に言えば、「相手の立場に立って考える」、「相手の立場に立って行動する」などということは自我(エゴ)を滅尽せしめることには何らつながりません。 それは全く無駄な行為に終わります。

なぜならば、相手の立場を100%完全に理解したり、相手の立場に立って自分が行動することが100%相手の意向に添うことはあり得ないからです。 このため、そのように思って為したあらゆる努力は報われず、結局は後悔の念が残ることになります。 しかも、その行為にあたって自分の欲求を(予め)抑圧しているために、その反動が暴力的に返ってきます。 そして、その暴力的反動の真の原因がまさか自分の方にあるとは思えないために、一方的に相手を責め、一方的に相手を嫌い、相手との正常なる人間関係を一方的に破壊してしまうという本末転倒な結果に終わります。

したがいまして、正常なる人間関係を築こうと希望する人は、次のように考え、行動すべきです。

■ 相手の立場が100%理解できないことを知りつつも、敢えて相手の意向に100%添うことを目指す自分であることについて100%の努力を惜しまないこと
■ 目指した通りの(善き)結果になることを喜ぶのではなく、結果のよいことを喜ぶこと(結果オーライを最高とすること)
■ 例え相手に配慮した結果だとしても、言いたいことを言わない自分を喜ぶのではなく、相手に例え嫌われるとしても言うべき事をはっきり言う自分を喜ぶこと
■ 例え不合理な意見だと思えても、自分に向けて言葉で為される相手の忠告に(正しく)耳を傾けること
■ 明らかに自分より劣ると思える人、あるいは明らかに自分よりも弱いと感じる人が自分に為す理不尽な行為に対して、(正しく)堪え忍ぶこと
■ 相手が何を言おうとしているのかについてではなく、何故相手はこのように言わなければならないのかということを考えること(理解するのではなく、理由を知ること)
■ 少なくとも、自分の方から進んでコミュニケーションを絶たないこと
■ 相手と自分は同じ人間では無いが、詰まるところは同じことを目指しているとのだとこころに知ること(少なくとも、そのように知ろうと努力すること)

そして、上記のように考え行動しつつ、しかもその根底においてはあくまでも自分自身のみを拠り所として行為すべきです。 そのように行為する人は、ついには正常なる人間関係を自ら築くことができるに違いありません。




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すみません 違いがよく分かりません

発言番号:36
名前:earth
43歳
2004年01月21日17時15分

「できるだけ相手の立場にたって、物事を考え、行動するように(努力する)」ことと
「相手の立場が100%理解できないことを知りつつも、敢えて相手の意向に100%添うことを目指す自分であることについて100%の努力を惜しまないこと」はどのように違うのでしょうか?

所詮他人は他人だから、100%理解しあうことなど有り得ない、と最初にきちんと線引きをしておいて、その上で相手の立場を理解するべく、100%の努力をするべきだ、ということでしょうか。そのようなスタンスで臨めば、たとえ相手がこちらの意向に添わないような反応を示しても、なんら怒りを感じることもなく、冷静でいられるから。

相手の立場にたち、相手にとって善い事をしようとしても、所詮は自分のエゴを相手に押し付けてしまう愚を犯すな、ということでしょうか?

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微妙ですが、決定的な違いがあります

発言番号:37
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月21日18時10分

「できるだけ相手の立場にたって、物事を考え、行動するように(努力する)」ことと「相手の立場が100%理解できないことを知りつつも、敢えて相手の意向に100%添うことを目指す自分であることについて100%の努力を惜しまないこと」との違いは、文章の最後の部分、すなわち「○○することを目指す自分であることについて〜」という点です。 つまり、自分に嘘をつけない点において違いがあります。

単純に相手の立場に立つと言うことは、自分自身に(無意識的にせよ)嘘をつくことがあり得ます。 一方、「○○することを目指す自分であることについて〜」と言うとき、そこには自分自身に嘘をつけない状況があります。 すなわち、人間関係が正常であるかどうか、人間関係がうまくいくかどうかは、自分自身に嘘をついているかどうかで決まります。 従いまして、もし本当に自分自身に(無意識的にさえ)嘘をついていないのであれば、「できるだけ相手の立場にたって、物事を考え、行動するように(努力する)」ことによっても人間関係を正常ならしめることができるでしょう。 しかしながら、どこかに心(エゴ)の逃げを残した態度では、やはりそれを実現することは難しいでしょう。 それゆえに、後者の立場がすぐれていると言えるのです。

それゆえ、このことは、所詮他人は他人だから100%理解しあうことなど有り得ないと最初にきちんと線引きをしておいて、その上で相手の立場を理解するべく100%の努力をするべきだ、ということではありません。 

そうではなくて、所詮他人は他人だから100%理解しあうことなど有り得ないのだから、それゆえにこそ敢えて他ならぬ自分は100%を超える努力をしてあげるべきだと自ら決心することに他なりません。 そこに、相手の如何なる意向も必要ありません。

例えば、人にお金を貸す必要に迫られたとき、「あげるつもりで貸せ」と言います。 もし、「返してもらうつもりで貸す」ならば、貸した相手はあなたに対して(例え意識することは無いとしても)拭えない負い目を背負うことになるでしょう。 そんな負い目を背負わせるぐらいならば、お金など貸さない方がましであることに似ています。 そして、もし敢えてお金を貸すのであるならば、それが絶対に無駄にならぬように、最悪の事態をも想定し、仮に最悪の事態に臨むことがあったとしても自らが後悔しないために、あげるつもりで貸すべきです。

何にせよ、覚りの境地を目指す人は、もし貸し借りの感情が残っているならば、常にそれが怒りに転じる恐れがあるのだと自らのこころに知らなければなりません。 そして、そのようにして生起する(実は自分ならざることに基づいている)怒りは、互いに対等で、平等なる関係にのみおいてのみ払拭できるのだと知るべきです。 上下の念を捨て、順逆の念を捨て去ったところにその怒りは静まります。

なお、それを極めるための具体的なアプローチとして、例えば基本的公案に取り組むことをお勧めします。

基本的公案: 「どうしてもいけなければどうするか」

なお、基本的公案は、次のように解かなければなりません。

● ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。 ── このように理解した者の形態(rupa)は消滅する。 けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。(スッタニパータ)

それを正しく為し遂げたとき、正しく相手の立場に立ち、相手にとって善い事を為す、エゴを捨て去った自分自身を自ら発見される筈です。 そのようになったとき、その人は自らのみに依拠して自由に振る舞いつつも、一切後悔することのない行為のみを為す自分を見いだすのです。 なぜならばそのとき、その人の行為は、相手が喜び、自らも喜び、目撃した人(ギャラリー)も喜び、未来の人類も喜び、かつ賞賛するであろうという確信をもって為される行為となっているからです。



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詳細なご説明ありがとうございます。

発言番号:38
名前:earth
43歳
2004年01月21日23時04分

微妙ではあるけれども、決定的な違いについての詳細なご説明、誠にありがとうございます。少しずつではありますが、分かってきたように感じます。
自我(エゴ)の問題は、人間関係において最も顕著に表れてくるものではあるけれども、畢竟は自分自身の問題であり、他人との関係を何とか上手くやっていくことによって解決できるような問題ではない、そこのところを決して誤解してはならない。いくら相手のことを考えて行動したとしても、そこに1ミリでも「貸し借りの感情」が存在するのであれば、それはエゴから出た行為に過ぎず、必ずや怒りに転ずる。そこのところを絶対に自分自身に対して誤魔化してはならない。微妙ではあるけれども重大で決定的な違いがそこにある。このように理解しました。

基本的公案については、スミマセン、まったく理解不能です。問いも答えも全くわかりません。

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基本的公案について

発言番号:39
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月22日01時00分

基本的公案:「どうしてもいけなければどうするか」は、無分別智を呼び覚ますのに役立つ公案です。 公案ですから、説明の必要は無く、説明することで公案の意義を失ってしまう恐れがありますが、その効力を失わないとお約束できる限度内の説明を致します。

「どうしてもいけなければ」という設定は、「どうしてもいけない」という設定よりも遙かに厳しい状況です。 この公案は、それを突き詰めることによって、人智を超えた智、すなわち無分別智を呼び覚ますのです。

さて、「どうしてもいけない」という場合、例えば次のような選択肢を容易に思いつくことでしょう。

◇ どうしてもいけないのだから、何もしないでよい
◇ どうしてもいけないのだから、何をしてもよい
◇ どうしてもいけないのだから、適当でよい
◇ どうしてもいけないのだから、運に任せよう
◇ どうしてもいけないのだから、サイコロを振って決めよう
◇ どうしてもいけないのだから、自分がやらなくてもよい
◇ どうしてもいけないのだから、他の人がやらなくても平気だ
◇ どうしてもいけないのだから、相手の出方を待とう
◇ どうしてもいけないのだから、先手を打とう
◇ どうしてもいけないのだから、いくつかの手を打っておこう
◇ どうしてもいけないのだから、皆で考えよう
◇ どうしてもいけないのだから、皆と同じ事をやればよい
◇ どうしてもいけないのだから、多数決で決めよう
◇ どうしてもいけないのだから、誰かに従おう
◇ どうしてもいけないのだから、先例に倣おう
◇ どうしてもいけないのだから、....

しかしながら、「どうしてもいけなければ」の状況においては、上記のような対応はすべて意味を為しません。 なぜならば、「どうしてもいけなければ」の場合、自分のみに依拠しなければならないからです。(上記は、すべて自分以外の何かに依拠しています)

また、「どうしてもいけなければ」の状況においては、自らの本心に適う、嘘いつわりのない決心が必要であり、それは「敢えて為す」ということをも超越しています。 その答えを、自らの心の深奥に見いだしたとき、基本的公案は(正しく)解けるのです。

ところで基本的公案を解いたそのとき、人は特殊な感動を味わいます。 この特殊な感動は、生まれてこの方、初めて味わう感動であるということに自ら気づくため、それがそうであると自ら分かります。 なぜならば、この特殊な感動は、世間的な如何なる感動とも根本的に違っているからです。 この特殊な感動を味わい、そしてこの特殊な感動のルーツを自ら知ることが基本的公案の狙いであり、それ自身が公案そのものとなっています。 基本的公案は、このように取り組み、このように解かなければなりません。



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基本的公案に取り組むとした場合

発言番号:40
名前:earth
43歳
2004年01月22日09時41分

基本的公案に取り組むとした場合、日常生活をしながらでも取り組めるものでしょうか。(その場合、座禅とか特殊な行を行うべきか)
それとも、専門的な道場に行かなければならないのでしょうか。


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基本的公案に取り組む方法

発言番号:41
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月22日09時59分

基本的公案は、覚りの境地を目指す人が観の一方法として行うものです。 従いまして、この公案に取り組む方法を説明することは、観の方法を説明することと同じです。

観は、目を普通に開けて行います。 すなわち、目をつぶったり、あるいは半眼にしたり、どこかの一点を見据えたりする必要はありません。 また、部屋を暗くしたり薄暗くしたりする必要は無く、通常の明るさで問題ありません。 できれば静かな場所で行うのが良いとは思いますが、周囲の音や声が特に気にならないのであれば、無理に静寂な場所を探す必要はありません。 従って、特別な道場に行って行う必要はなく、ご自宅で出来ることです。 またこのとき、呼吸を意識的に整えようとしたり、座り方にこだわったり、背筋を無理に真っ直ぐに伸ばしたりする必要はありません。 要するに、眠り込まない程度の、楽な姿勢をとって行えばよいのです。 ただし、観が完成したとき、特殊な感動とともに涙が止めどなく流れます。 そのことが気恥ずかしいと予め思う人は、人のいない場所で観を行うことが望ましいと思います。

観に限らず、覚りの境地に至る道は日常的なところに偏在しています。 ただし、現実にいる有情の人々(衆生)を対象にして観や基本的公案に取り組んでしまうと、どうしてもそれは不完全なものにならざるを得ません。 なぜならば、現実の有情なる衆生は完全な衆生ではないからです。 このため、実際に観を行う場合には、その対象として架空設定した衆生を用いるのです。 逆に言えば、純粋な衆生の姿を自ら想念することができたとき、基本的公案は解け、観は完成するのです。 「どうしてもいけなければ」ということは、純粋なる衆生の姿を見極めることに他なりません。 そして、純粋な衆生の姿を見た人は、「どうするか」ということについて直ちに理解し、自ら決心し、そして覚るのです。

基本的公案を解くにあたって、師に進境を相談(参禅)する必要はありません。 それが正しく解けたかどうかは自ら分かることであるからです。 例えば、知恵の輪が正しく解けたとき、それはまぐれや偶然ではなく、確かに解けたのだと分かるようなものです。 もし、偶然に知恵の輪を分離してしまった人がいるとするならば、その人は不幸な人であると言えるでしょう。 その知恵の輪を解くことで得られる筈の感動をもう味わうことはできないからです。 しかしながら、基本的公案はまぐれや偶然に解けることはあり得ません。 そして、それは解けたか解けないかであり、途中がどうこうということはありません。 その様は、知恵の輪の途中経過が意味を為していないことと同様です。


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無題

発言番号:42
名前:earth
43歳
2004年01月22日18時06分

逃げ場所のない袋小路に追い詰められた気分。

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基本的公案についての注釈

発言番号:43
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月22日18時18分

基本的公案についての久松真一氏ご本人による説明(ヒント)をご参考までアップしておきます。

[公案]

 「どうしてもいけなければどうするか」


[久松真一氏ご自身による注釈]

どういう在り方でも、われわれの現実の在り方は、特定の在り方であり、何かである。 何かである限り、何かに限定され繋縛された自己である。 何ものにも繋縛されない自己、それをまずわれわれは自覚しなければならない。

「立ってもいけなければ、坐ってもいけない。感じてもいけなければ、考えてもいけない。死んでもいけなければ、生きてもいけないとしたら、その時どうするか」

ここに窮して変じ、変じて通ずる最後的な一関があるのである。禅には、古来千七百どころか無数の古則公案があるが、それらは結局この一関に帰するであろう。

『絶対危機と復活』(著作集第2巻、法蔵館)より(p.191) 



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ひとり言

発言番号:44
名前:earth
43歳
2004年01月23日22時34分

「どうしてもいけなければ・・・」にどこまで向い続けられるかが、自分自身に試されているのかもしれない。
続けるも止めるも自分次第ということか。

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試されているのではありません

発言番号:45
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月23日23時07分

基本的公案を解くこと、ひいては覚りの境地を目指すことは、自分ならざる何かに自分が試されているのではありません。 この道において、そのような試練などは一切ありません。

それは、例えば、学生の身分である間はいろいろな形で試験がありますが、卒業して仕事に就けば試験などは無いようなものです。 一方、仕事では(これ見よがしな)試験はありませんが、お客さんから、また他ならぬ自分自身から常に100%が要求され、誰かに試されることはありませんがその人が本当にその仕事に恥じないことを為しているかについては、他ならぬ自分自身に日々問われます。 そして、例え未熟であっても、自分自身に恥じることなく精進していけば、いつかその仕事はその人にとっての天職となることでしょう。

それと同様に、基本的公案は人を試すものではありませんが、それが解けないという事実は、その人に善い意味でつきまとうことになるでしょう。 もし人が、基本的公案などどうでもよい。 覚りの境地などどうでもよいと言うのであれば、それはそれとして頷けることですし、無理からぬことだと思います。 そうであれば、先ずは正しい発心が起きるまで(正しく)待つことだと思います。 例えば、知恵の輪がどうしても解けない人が、それを解くことを諦める訳では無いけれども、一旦その知恵の輪から距離をおくことは、後にそれを正しく解くために意義のある一方法だと考えられるようなものです。

いずれにせよ大事なことは、試されているというのは自分以外の何かに依拠したことであり、誰も自分を試す人などいないのだと言うことを先ずはこころに理解されるべきです。 そして、自分を試す人などいないと言う事実は、自分だけが孤独なのではなく、未だ覚りの境地に至っていないすべての人々(衆生)は、自分と等しく孤独な存在であるのだと(気づきではなくして)気づかなければなりません。 つまり、人々(衆生)は、自分自身のことだけで既に精一杯なのであり、心ならずも、他の人のことまでは良くも悪くも気が回らないのが世の真実です。 それゆえに、そのことに気づいた人は、先ずは自らの孤独を破り、他の人々の孤独を解決すべく基本的公案に(正しく)取り組まれるべきです。 基本的公案は、基本的公案にまつわるあらゆることについて(いわば繰り込まれるように形成された)公案なのであり、それゆえに「基本的」という言葉が付いているのだとお考え下さい。 知恵の輪は、その過程において悪戦苦闘した人ほど感動が深いように、基本的公案もよい意味で悪戦苦闘した人ほど正しく解けるのだとお考え下さい。 諦めなければ、いつかはきっと解ける筈です。


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諦めることなく・・・

発言番号:46
名前:earth
43歳
2004年01月24日08時36分

「それゆえに、そのことに気付いた人は、先ずは自らの孤独を破り、他の人々の孤独を解決すべく、基本的公案に(正しく)取り組まれるべきです。」とありますが、「どうしてもいけなければ」の問いは、自分自身の身において考えるべき問いだと捉えたのですが、それは間違いだということでしょうか。

自分自身の身において考えた場合、「どうしてもいけなければ」の先には一歩も進めないと言うのも事実なのですが。

自分ならざるものを自分だと勘違いしているということなのか。

正直言って基本的公案に関しては、どん詰まりです。が、少しリラックスして、また取り組んでみようかと思います。

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独りよがりになることなく解くべき

発言番号:47
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月24日09時20分

基本的公案は、独りよがりになることなく解かなければなりません。 もし、人類が一人しかいないのであれば、この公案を解く必要はありません。 人々(衆生)は、他の人々との関わりの中で苦楽を生じていて、そのほぼ完全な解決を為すのが基本的公案に他ならないからです。

基本的公案は、自分のみに依拠して解かなければならない公案ですが、公案を解くべく設定するシチュエーションの対象はあくまでも(架空設定した)衆生であり、衆生との関係の中で公案を解かなければならないのです。 自分が人々(衆生)と関わる中で現れる「どうしてもいけなければ」の状況を究極まで突き詰め、苦しみの中にいて、しかも自分ではそれを苦しみだと認知していない(純粋なる)衆生を観じ、衆生を救おうとして差し出されるあらゆる手を自ら(大きなお世話だと)振り払う衆生に対して、少なくとも自分だけは(そうだと知っていても敢えて)手を差し伸べなければなりません。 どのように手を差し伸べれば、こころに後悔しないか。 どのように手を差し伸べれば、衆生を真実に救ったことになるのか。 それを、自らのみに依拠して観じることが基本的公案を解くアプローチです。

そのためには、他ならぬ自分自身が(楽だと思って実は)苦の中にいることを知らねばなりません。 この世がすべて顛倒した世界であることを観じなければなりません。 人々(衆生)が顛倒の世界の中にいて、苦を楽だと思い、善かれと思ってまさに苦の道を選択していることを知らなければなりません。 それが完全に達成されたとき、「どうするか」と言うことは、ほとんど自動的に出てきます。 そして、それこそが自分の本心に他なりません。 そして、それこそが諸仏の誓願に他ならないのです。 それに正しく気づいた人は、自らが仏になる正しい決心を為し、そして仏になるのです。


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順序について

発言番号:48
名前:earth
43歳
2004年01月24日10時13分

「他ならぬ自分自身が(楽だと思って実は)苦の中にいること」をきちんと知ってから基本的公案に取り組むべきなのか、それとも、基本的公案に取り組むことによってそのこと(自分自身が苦の中にいること)が分かってくるのか。どちらが先なのでしょうか。

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どちらが先でもOKです

発言番号:49
名前:SRKWブッダ
43歳
2004年01月24日11時18分

例えば知恵の輪が解けたとき、解き方が分かります。 逆に、知恵の輪の解き方が分かった時は、解けたときです。 知恵の輪を解こうと思って解くのもよく、知恵の輪の解き方を知りたいと思って解くのもよいのです。

それと同様に、苦の真実を知って基本的公案を解くのもよく、基本的公案を解くことで苦の真実を知るのもよいのです。 なお、真実に苦を知ることによって、人は次のようにしてついには覚りの境地に至ります。

【四諦:苦集滅道】
苦を滅する道、すなわち四諦とは、要約すれば次のことを言っています。

苦諦: この世は、すべてが顛倒(さかさま)しており、すべてが苦である。 人々(衆生)が楽だと思っているまさにそのことが、実は苦に他ならない。

集諦: この世において、それを楽だと見せているのは名称と形態(nama-rupa)の為せる業である。 それは悪魔とその軍勢と呼ぶべきものであり、1)欲望 2)嫌悪 3)飢渇 4)妄執 5)惰眠 6)恐怖 7)疑惑 8)傲慢の八つである。 これら8つのことを根本にして、あらゆる煩悩(本能に基づく心の動揺)は起こる。

滅諦: さまざまな苦の原因と苦とは互いに相依関係群にあり、もし苦の原因をただの一つでも正しく滅することができたならば、さまざまな苦の原因はすべて同時に消滅し、苦を滅するに至る。 これが滅諦であり、あるいは縁起の法とも呼ぶ。

道諦: 人々(衆生)には、徳目において欠けるところがある。 それは8つのタイプに分類され、それぞれが悪魔とその軍勢に対応している。 したがって、それを自ら見いだし、身につけるためには8つの道があることになる。 それを八正道と名づく。

基本的公案を解くことによって、苦諦および集諦を如実に知るに至ります。


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「自分ならざるものに依拠しない」ということについて

発言番号:50
名前:earth
43歳
2004年01月25日16時38分

「自分ならざるものに依拠しない」ということが、とても重要だと思うのですが、我々衆生が「本来の自分」と「自分ならざるもの」をどうやって区別したらよろしいのでしょうか。我々衆生が自分だと思っているもののほとんどは、覚りの境地から見れば「自分ならざるもの」なのだろうと推測されるので。

「自分ならざるものに依拠しない」ためには、その前提として、「本来の自分」と「自分ならざるもの」の区別がついていなければならないと思うのですが、その区別がつかないのが衆生の特徴であり、そような衆生に対して、「自分ならざるものに依拠してはならない」ということは、全盲の人間に対して、「道路を横断するときは、左右をよく見て渡りなさい」と言っているようなものなのではないでしょうか。そこらへんがよく分からないので、ご説明いただけるとありがたいです。



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