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自分ならざるものと自分自身 発言番号:51 名前:SRKWブッダ 43歳 2004年01月25日18時02分 名称と形態(nama-rupa)によって現れる心。 これを人々(衆生)は、自分のこころだと誤解しているのが世の真実です。 そして、この名称と形態(nama-rupa)を滅尽することが解脱であり、そのようになった人が覚りの境地に至った人です。 さて、未だ覚りの境地に至っていない人は、勿論上記のように名称と形態(nama-rupa)を自分のこころだと見なしているのであり、しかもその心によって覚りの境地を目指すというのですから、矛盾をかかえているように見えるのは無理もないことです。 しかしながら、実際には、覚りの境地に至ることを目指す人は、その動機においては名称と形態(nama-rupa)を離れ、自らの本心(名称と形態に依拠しないこころ)が働いており、それゆえにその人は自分にのみ依拠した人であると呼ばれます。 例えば、やさしい人は、常にやさしい訳ではりませんが、いざというときに誰よりもやさしい人であるゆえに、その人は「やさしい人」と皆から呼ばれるに至ります。 それと同様に、いざというときに自ら本心を喚起して覚りの境地を目指すに至ったゆえに、その人は自分にのみ依拠した人だと呼ばれるのです。 これを発心と名づけ、この発心は具体的には(第一の)善知識を聞くことで自らのこころに喚起されます。 そして、すでに発心を起こしている人は、その後も(いざというときに)自分にのみ依拠する人であるゆえに、(正しく)気をつけることによって(第二の、本当の)善知識と出会い、その声を聞き、その声を理解して覚りの境地に至るのです。 ところで、未だ覚りの境地に至っていない人であり、かつ未だ発心を起こしていない人の場合、本当の意味で自分にのみ依拠することは恐らくできないでしょう。 しかしながら、そのような人であっても、自分にのみ依拠するということについて常に気をつけているならば、必ずや「自分にのみ依拠している人」を目撃し、その時に自分にのみ依拠するということが何であるかを(気づきではなくして)知ることになるでしょう。 したがいまして、そのような人は、自分にのみ依拠するということが本当に難しいのだと言うことを自らの心に理解し、常に頭の隅において、自らは徳行に勤しみ、そのような人が現実にいる筈がないという疑念を超えてよく気をつけて周りの見渡されるべきです。 そのようによく気をつけて精励するなかで、ご自分の身近かにそのような人が確かにいることを発見し、正しい発心を自ら起こすことは間違いありません。 自分にのみ依拠することは、このようにして達成されます。 |
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自分ならざるものと自分自身 発言番号:52 名前:SRKWブッダ 43歳 2004年01月25日18時03分 名称と形態(nama-rupa)によって現れる心。 これを人々(衆生)は、自分のこころだと誤解しているのが世の真実です。 そして、この名称と形態(nama-rupa)を滅尽することが解脱であり、そのようになった人が覚りの境地に至った人です。 さて、未だ覚りの境地に至っていない人は、勿論上記のように名称と形態(nama-rupa)を自分のこころだと見なしているのであり、しかもその心によって覚りの境地を目指すというのですから、矛盾をかかえているように見えるのは無理もないことです。 しかしながら、実際には、覚りの境地に至ることを目指す人は、その動機においては名称と形態(nama-rupa)を離れ、自らの本心(名称と形態に依拠しないこころ)が働いており、それゆえにその人は自分にのみ依拠した人であると呼ばれます。 例えば、やさしい人は、常にやさしい訳ではりませんが、いざというときに誰よりもやさしい人であるゆえに、その人は「やさしい人」と皆から呼ばれるに至ります。 それと同様に、いざというときに自ら本心を喚起して覚りの境地を目指すに至ったゆえに、その人は自分にのみ依拠した人だと呼ばれるのです。 これを発心と名づけ、この発心は具体的には(第一の)善知識を聞くことで自らのこころに喚起されます。 そして、すでに発心を起こしている人は、その後も(いざというときに)自分にのみ依拠する人であるゆえに、(正しく)気をつけることによって(第二の、本当の)善知識と出会い、その声を聞き、その声を理解して覚りの境地に至るのです。 ところで、未だ覚りの境地に至っていない人であり、かつ未だ発心を起こしていない人の場合、本当の意味で自分にのみ依拠することは恐らくできないでしょう。 しかしながら、そのような人であっても、自分にのみ依拠するということについて常に気をつけているならば、必ずや「自分にのみ依拠している人」を目撃し、その時に自分にのみ依拠するということが何であるかを(気づきではなくして)知ることになるでしょう。 したがいまして、そのような人は、自分にのみ依拠するということが本当に難しいのだと言うことを自らの心に理解し、常に頭の隅において、自らは徳行に勤しみ、そのような人が現実にいる筈がないという疑念を超えてよく気をつけて周りの見渡されるべきです。 そのようによく気をつけて精励するなかで、ご自分の身近かにそのような人が確かにいることを発見し、正しい発心を自ら起こすことは間違いありません。 自分にのみ依拠することは、このようにして達成されます。 |
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自分にのみ依拠するには 発言番号:53 名前:SRKWブッダ 43歳 2004年01月25日18時05分 名称と形態(nama-rupa)によって現れる心。 これを人々(衆生)は、自分のこころだと誤解しているのが世の真実です。 そして、この名称と形態(nama-rupa)を滅尽することが解脱であり、そのようになった人が覚りの境地に至った人です。 さて、未だ覚りの境地に至っていない人は、勿論上記のように名称と形態(nama-rupa)を自分のこころだと見なしているのであり、しかもその心によって覚りの境地を目指すというのですから、矛盾をかかえているように見えるのは無理もないことです。 しかしながら、実際には、覚りの境地に至ることを目指す人は、その動機においては名称と形態(nama-rupa)を離れ、自らの本心(名称と形態に依拠しないこころ)が働いており、それゆえにその人は自分にのみ依拠した人であると呼ばれます。 例えば、やさしい人は、常にやさしい訳ではりませんが、いざというときに誰よりもやさしい人であるゆえに、その人は「やさしい人」と皆から呼ばれるに至ります。 それと同様に、いざというときに自ら本心を喚起して覚りの境地を目指すに至ったゆえに、その人は自分にのみ依拠した人だと呼ばれるのです。 これを発心と名づけ、この発心は具体的には(第一の)善知識を聞くことで自らのこころに喚起されます。 そして、すでに発心を起こしている人は、その後も(いざというときに)自分にのみ依拠する人であるゆえに、(正しく)気をつけることによって(第二の、本当の)善知識と出会い、その声を聞き、その声を理解して覚りの境地に至るのです。 ところで、未だ覚りの境地に至っていない人であり、かつ未だ発心を起こしていない人の場合、本当の意味で自分にのみ依拠することは恐らくできないでしょう。 しかしながら、そのような人であっても、自分にのみ依拠するということについて常に気をつけているならば、必ずや「自分にのみ依拠している人」を目撃し、その時に自分にのみ依拠するということが何であるかを(気づきではなくして)知ることになるでしょう。 したがいまして、そのような人は、自分にのみ依拠するということが本当に難しいのだと言うことを自らの心に理解し、常に頭の隅において、自らは徳行に勤しみ、そのような人が現実にいる筈がないという疑念を超えてよく気をつけて周りの見渡されるべきです。 そのようによく気をつけて精励するなかで、ご自分の身近かにそのような人が確かにいることを発見し、正しい発心を自ら起こすことは間違いありません。 自分にのみ依拠することは、このようにして達成されます。 |
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ご回答ありがとうございます 発言番号:54 名前:earth 43歳 2004年01月25日20時50分 少しずつではありますが、おぼろげに掴めて来た様な気がします。 やはり普段の生活から気をつけていなければいけないということですね。 自分ならざるものに依拠して行動した場合、後悔の念が生じることがあるとおもうのですが、この後悔の念も自分ならざるものだと考えた方がいいのでしょうか。 |
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後悔の念 発言番号:55 名前:SRKWブッダ 43歳 2004年01月25日22時06分 後悔の念は、本心から発せられるものです。 後悔の念は、名称と形態(nama-rupa)の為せる業ではなく、心の奥底からの叫びに他なりません。 このことは、「行為」ということに直結しています。 【行為】について 何かを行為したときに、後になってそれが善かったと思うのであれば、その行為を為したことは間違いなく善かったのです。 そのとき、何も考えずに適当に行為していたのだとしても、後になってそれが善かったと思うのであれば、その行為を為したことは間違いなく善かったのです。 例え、そのときどこかに意地悪な気持ちを抱いて行為していたのだとしても、後になって結果的にそれが善かったと思うのであれば、その行為を為したことは間違いなく善かったのです。 逆に、何かを行為したときに、後になってその行為が善かったとは思えずに後悔するのであれば、いかなる理由があるにせよその行為を為したことは間違っていたのです。 すなわち、それについてあなたが大変な努力をしたのだとしても、それについてあなたがどんなに周到に準備したのだとしても、またそれについてあなたが心から善かれと思ってしたのだとしても、後になってその行為を為したことを後悔するならば、その行為は間違っていたのです。 その行為を為したことが善かったのか、それとも間違っていたのかは、後になって振り返ったときに誰にでもはっきりと分かります。 その様は、例えば目覚めたときに、ぐっすりと眠れたのか、それとも眠りが浅かったのかが直ちに分かるようなものです。 また、その様は、例えば食事を終えたときに、料理の味と量について完璧に満足できたのか、それとも満腹感はあるものの食べ足りない心地がするかが直ちに分かるようなものです。 前者は、料理のすべてを美味しく、かつ丁度良い量でいただけた証拠であり、後者は、料理のどれかかあるいは全部についてどこか不満が残るものであったことを示しています。 すなわち、その行為を為したことが善かったのかどうかを、誰かに聞いて確かめたりする必要はありません。 それは、自分の胸に手を当てて振り返れば誰にでもはっきりと分かることであるからです。 そして、何にせよ予め結果を気にしないで行為し、その結果としてその行為を為したことが善かったと思えるのであれば、すなわち結果オーライは、最高に善い行為の結果であると考えるべきです。 ある人々は、何かを行為しようとするとき、後悔しないためにはそれがうまくいった場合のことだけでなく、裏目に出た場合のことも考えるべきであると思うことでしょう。 そして、その上で最良の選択を行うべきであると考えることでしょう。 しかしながら、予め何をどのように考えようとも、結果はそれとは違ったものになります。 人々(衆生)の考えは、元々虚妄であるからです。 その様は、例えば錯覚によって曲がって見える直線を、如何にして真っ直ぐに補正するかをあれこれ考えるようなものです。 しかしながら、それは空しい行為です。 なぜなら、錯覚図形の場合、曲がって見えるという事実自体が元々虚妄であるからです。 そして、そのことを予め理性的に補償することは本来的に(生理的に)できないことであるからです。 つまり、これは錯覚であることを頭で知っていたとしても、錯覚図形が曲がって見えるという事実は相変わらずに感受されるのです。 そのように(誤って)感受されることからのがれる術はありません。 そして、もしそれが錯覚であることさえ知らなかったとしたら、その真実が水平・垂直な直線のみであるということを信じることはほとんど不可能でしょう。 このようなことから、そのようなあらゆる場合についてあれこれと思いつめた結果、何も行為できなくなってしまう人も出てきます。 つまり、何もしないことが一番善い行為であるのだと、頑迷に決め込む人も出てくるのです。 しかしながら、何もしないことが悪い行為である場合があります。 何もしないのは、やさしくない(冷たい)行為である場合があるからです。 本当は(恥ずかしがらなければ容易に)できることなのに、(例えば恥ずかしがって)敢えて何もしないことは悪い行為である場合があるからです。 逆に、何の役にも立たないと思えても、敢えてそれを行うことが結果的に善き行為を生む場合もあるのです。 例え相手に誤解されるとしても、真実に相手を思いやって行う善き行為もあります。 そしてまた、例え相手に誤解されるとしても、そのことを覚悟の上で、真実に相手を思いやって敢えて何もしないことが善き行為となる場合もあるのです。 ただし、それらを理性的判断の結論として予め導き出したり、あらゆる哲学的見解の帰結や何らかの教義にもとづく固定的な規範行為として位置づけることはできないのです。 それらによって為された行為が、すべて善き行為となることはあり得ないからです。 もし、あなたが何においてもすべからく後悔の無い行為を為したいと思うのであれば、「平等」「信」「徳行」について正しく精励する人であるべきです。 そして、そのような正しい精励の究極として、何においても一切後悔することがない善き行為が本当に実在するということをあなた自身が信じなければなりません。 同時に、そのような一切後悔することのない善き行為を、究極の境地において(勿論あなたを含めて)人は誰でも行為することができるのだということをあなた自身が信じなければならないのです。 そのように信じる究極において、あなたは覚りの境地の何たるかを身を以て知り、そのように信じたこと自体が善き行為であったのだと諒解するに違いないからです。 ところで、覚りの境地に至った人は、一切後悔しない行為しか為すことができません。 また、善知識は、(それとは意識せずに)時として誰かに対して一切後悔しない行為を為す人のことです。 |
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結果が先生だと考えればいい? 発言番号:56 名前:earth 43歳 2004年01月25日23時21分 どのような思いや気持ちに基づいて為した行為であったとしても、その結果、本人が後悔する羽目になったとしたら、その行為は「自分ならざるものに依拠して」行われた行為であったのだと理解しなければならない、ということですね。そして我々衆生ができる精一杯のことは、こんなことをしたら後で絶対に後悔するだろうと事前に予想できる事(過去の経験に照らして)は、極力慎むべきだということですね。 |
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後悔の念が残らない行為 発言番号:57 名前:SRKWブッダ 43歳 2004年01月26日00時36分 *** 引用と回答 どのような思いや気持ちに基づいて為した行為であったとしても、その結果、本人が後悔する羽目になったとしたら、その行為は「自分ならざるものに依拠して」行われた行為であったのだと理解しなければならない、ということですね。 → おっしゃるとおりです。 そして、後悔しない行為をこころに見たならば、それを繰り返すべきです。 そしてまた、後悔する行為を為してしまったならば、それは繰り返さないようにすべきです。 そのようにして、よく気をつけて行為することによって、ついに真実の善き行為を知るに至る筈です。 そして我々衆生ができる精一杯のことは、こんなことをしたら後で絶対に後悔するだろうと事前に予想できる事(過去の経験に照らして)は、極力慎むべきだということですね。 → 世間は常に変化しています。 過去においては善からぬことであったとしても、今は善き行為であることもあります。 逆もまたしかりです。 その意味で、過去の経験は究極のところでは、ぎりぎりのところでは、いざというときには役立ちません。 後悔しない行為を為すためには、過去にこだわらず、未来の結果を恐れず、現在において本心に照らした行為を為すべきです。 つまり、少なくともいざというときにおいては、「どうしてもいけなければどうするか」という思考を超えた思考で得た結論を以って行為し、結果については自らが全責任を負うのだと(しかし悲壮なる決意ではなくして)決心しなければなりません。 具体的には、「今の自分ではこうせざるを得まい」「今の自分において精一杯のこととして、これでよしとしよう」という静かなる、しかし熱き決意が必要です。 覚りの境地に至る道においては、「○○をしてはならない」というこれ見よがしな禁止事項は一切ありません。 むしろ、恥じなくてよいことを恥じ、恥じるべきことを恥じない自分の姿を目をそらすことなく見極めて、行為するときには断固として行うべきです。 もちろん、好き勝手に行うということではありません。 自分もよく、相手もよく、目撃した人々にとってもよく、伝え聞いた人も満足し、未来の人々も満足する。 そのような行為を断固として為すべきです。 そして、それは自分にのみ依拠することによってのみ得られることです。 過去の経験に頼るのは、自分ならざるものに依拠することに他ならず、それは必ず後悔の念を生じる行為だと知らなければなりません。 |
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ご回答ありがとうございます 発言番号:58 名前:earth 43歳 2004年01月26日08時50分 「どうしてもいけなければ・・・」のシチュエーションが少しだけ見えてきた気がします。ありがとうございます。 |
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基本的公案を解くヒント(追加) 発言番号:59 名前:SRKWブッダ 43歳 2004年01月26日09時20分 基本的公案を解くヒントを追加しておきます。 自分には無関係なことだと席を立って逃げ出してもいけないし、自我(エゴ)に固執して坐わり込みを決めこんでもいけない。 それではと開き直って、相手の気持ちを闇雲に感じようとしてその表情を追いかけてもいけないし、逆に相手の真意を自分勝手にあれこれと推量しても当たるわけがない。 これではどうしようもないではないかと諦めて自分の真実の心が死んでしまっては本末転倒であるし、ここで敢えて何もしなかった結果相手の本質が死んでしまっては人と関わる意味がない。 まったくの八方ふさがりだからといって、自分の気持ちだけが落ち着ける道を探してもいけないとしたら、あるいはだからといって相手だけが生き残れば良いのだと決死の心を決め込んでもいけないとしたら、その時あなたはどうするか |
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今のところ 発言番号:60 名前:earth 43歳 2004年01月26日14時18分 私たちは、一人でいる時はそうでもないのに、誰かと道であったり、誰かと対面したりすると、瞬時に(条件反射的に)「自分」を立ててしまう。そして、ああでもないこうでもないと考え始めたり、ああしようこうしようと考えたり、とにかく相手に対して対応することに必死になる。これは、条件反射的に「自分」というものを立ててしまうからそうなるのだ。 「どうしてもいけなければ・・・」ということは、「自分を立てた上でのどんな反応もすることなしに」ということであり、要は「自分」を一切立てることなく行動しなさい、ということである。 表面的な理解かもしれませんが、今のところこのような理解です。 |
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よく整えた自己を100%立てるべきです 発言番号:61 名前:SRKWブッダ 43歳 2004年01月26日14時59分 *** 引用 「どうしてもいけなければ・・・」ということは、「自分を立てた上でのどんな反応もすることなしに」ということであり、要は「自分」を一切立てることなく行動しなさい、ということである。 表面的な理解かもしれませんが、今のところこのような理解です。 *** → むしろ逆です。 「どうしてもいけなければ」と言うことは、自らにのみ依拠してよく整えられた自分を対象から逃げることなく100%立てて、しかもそのことによって相手の尊厳が損なわれることなく相手をも100%確立せしめるということです。 それゆえに、対等、平等なのであり、正しくそれが行為されたとき、互いに立場が入れ替わっても構わないと確信されます。 それは、例えば二人で、一つの鯛焼きを分け合うようなものです。 平等に分け合うためには、例えば次のようにすると良いでしょう。 それは、一人が鯛焼きを半分に分割し、もう一人がそのどちらか好きな方を選んで自分のものにすることです。 このようにして分けあうならば、分割する人は出来る限りの工夫をして価値が同じになるように分ける努力をするでしょうし、選ぶ人はできるだけ利益が多い方を選ぼうとして目を凝らすことでしょう。 互いに嫌な思いをしたくなければ、1/2に分ける努力を怠るべきではないし、また選ぶ方も最良の選択を行う努力が必要です。 このように分け合うならば、互いに立場が逆でも良いと思えることでしょう。 すなわち、今の互いの立場は仮に決めたものであって、それが逆になっても不公平では無いと言い切れることでしょう。 このようなやり方を「平等」と名づけるのです。 ところで、「平等」を真に成り立たせるためには、互いがそれぞれの立場で持てる力を最大限発揮することが条件になるのだと言うことに注意すべきでありましょう。 互いが手抜きをしないで最善を尽くすことによってのみ、確固たる「平等」としての結論が出てくるからです。 逆に言えば、「どうしてもいけなければ」の局面とは、互いに対等で、平等なる局面にのみ世に出現するものであると知らなければなりません。 そして、正しく確立された「平等」は、当事者にとっても、目撃者(ギャラリー)にとっても、その経緯と顛末を聞き及んだ未来の人々にとっても、心を満足させる模範事例となるでしょう。 このことについて、いかなる人々に評定されたとしても、最大級の評価を得ることになるでしょう。 なお「平等」の最大の利益は、互いに争うことが絶対に無いということに尽きるでしょう。 それは、大いなる満足であり、大いなる安心(平安)の根拠となることでしょう。 そして、一切争わない境地こそが、覚りの境地に他なりません。 このような意味で、基本的公案は、「平等」について突き詰める公案と言うこともできるのです。 |
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全力を出し切ること 発言番号:62 名前:earth 43歳 2004年01月27日10時00分 また身近な例で恐縮ですが、 私はたまにスポーツの試合に出場したりするのですが、試合中全力を出し切って戦った場合(もちろん勝ち負けに拘ってですが)試合終了後にその結果に関らず、とても爽やかな気分になることがあります。全力を出し切った自分に満足し、相手を讃える気持ちが起こり、相手もまた満足げな顔で握手を求めてくる。それを目撃したギャラリーも惜しみない拍手を送ってくれる。(素人のスポーツですからギャラリーはとても少ないのですが)。そして試合結果に関らず後悔の念は一切起こりません。爽やかな満足感だけが残ります。 後悔の念を残さない行為とは、その時その場において、自分の持てる力を全て出し切るということなのでしょう。しかし、そのような行為を日常生活において常にやり続けるというのは至難の業に思われますが・・・。 |
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持てる力を出し切ること 発言番号:63 名前:SRKWブッダ 43歳 2004年01月27日11時21分 *** 引用 後悔の念を残さない行為とは、その時その場において、自分の持てる力を全て出し切るということなのでしょう。しかし、そのような行為を日常生活において常にやり続けるというのは至難の業に思われますが・・・。 *** → おっしゃる通りです。 後悔の念を残さない行為とは、その時その場において、自分の持てる力を全て出し切ることに他なりません。 もし、ある人が人間関係において一切後悔しない行為を為そうと希望するのであれば、一瞬一瞬においてよく気をつけて次のように関わるべきです。 ■ (自分を含めた)如何なる人に対しても、誠実に接すること ■ (自分を含めた)如何なる人に対しても、ものおしみしないで接すること ■ 目の前で何が起こっても、(正しく)堪え忍ぶこと ■ 自らのこころに問うて、(正しく)自制すること 如何なる立場の如何なる人であっても、人間関係においてこのように行為するならば、後悔する筈はありません。 しかしながら、もしこのように行為できない自分を知ったならば、自分に向けて言葉で為されるあらゆる忠告に耳を傾けるべきです。 そうすることによって、現在においてはそれが出来ない人であっても、ついには上記のようにのみ行為する人になるのは間違いありません。 そして、およそ覚りの境地を目指す人は、目の前にいる人を次のように見なければなりません。 ○ もし、目の前のこの人がこの世に居なかったとするならば、私は私自身が本当にやりたいことができなくなってしまうのだ ○ もし、目の前のこの人がこの世に居なかったとするならば、私は私自身が(心の根底から)本当に望むことが達成できなくなってしまうのだ 目の前にいる人が、家族や親族であっても、そうでなくても、上記のように常に見ることができるのであれば、その人は覚りの境地に至った人と何ら変わりはありません。 未だ覚りの境地に至っていない人には、そのような行為を日常生活において常にやり続けるというのは至難の業に思われるでしょうが、その至難の業を他ならぬ自分が敢えて行うという(正しい)決心を為したとき、その人は不可能を可能とし、至難の業をあたりまえのように為し遂げるご自分を発見されることでしょう。 |
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もしも・・・の設定について 発言番号:64 名前:earth 43歳 2004年01月28日09時50分 「もし、目の前のこの人がこの世に居なかったとするならば・・・」−@という設定と 「もし、目の前のこの人が亡くなってしまったとするならば・・・」−A という設定は違いがあるのでしょうか。 今、目の前に居る健康な人であっても、突然の事故や病気で亡くなる可能性は否定できない。そうなった時、自分に後悔の念が残らないと言い切れるだろうか。とても言い切れない。きっと後悔の念が残るはずだ。そうならないためには常に「一期一会」の気持ちで相手に応対しなければならない。 Aの設定は比較的分かりやすい(常にできるわけではないけれど)のですが、@の設定だと、相手となる人が最初からこの世に居ないという設定なので、イメージしにくい面があります。違いがありましたら教えてください。 |
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一期一会ではありません 発言番号:65 名前:SRKWブッダ 43歳 2004年01月28日10時38分 *** 引用 「もし、目の前のこの人がこの世に居なかったとするならば・・・」−@という設定と 「もし、目の前のこの人が亡くなってしまったとするならば・・・」−A という設定は違いがあるのでしょうか。 今、目の前に居る健康な人であっても、突然の事故や病気で亡くなる可能性は否定できない。そうなった時、自分に後悔の念が残らないと言い切れるだろうか。とても言い切れない。きっと後悔の念が残るはずだ。そうならないためには常に「一期一会」の気持ちで相手に応対しなければならない。 Aの設定は比較的分かりやすい(常にできるわけではないけれど)のですが、@の設定だと、相手となる人が最初からこの世に居ないという設定なので、イメージしにくい面があります。違いがありましたら教えてください。 *** → @,Aの違いは、ことに臨んで自らが自我(エゴ)を残しているかいないかという点で違います。 すなわち、@は自我(エゴ)を残していませんが、Aは自我(エゴ)を残しているからです。 Aには、互いの立場に主客の立場があり、優劣があり、互いの関係に気づいている人と気づいていない人の違いがあり、エゴがある人とエゴの対象である人があり、自分勝手な人とその欲望を満足させる対象となった人があり、後悔するであろう人と後悔させるであろう人があるからです。 @には、そのようなものがなく、お互いは常に対等で平等な清い関係にあります。 その具体的な例を挙げるとするならば、医者と患者の関係がそれにあたるでしょう。 医者が100%医者であるためには、目の前にいる人が100%患者でなければなりません。 患者は、100%患者であることによってのみ、治療の可能性が最大となり、医者はそのときにのみ持てる力を100%発揮できるのです。 このとき、互いの立場は100%それであるべきであるという意味で互いに対等、平等であり、人としての尊厳が100%保たれます。 そこには、主客は無く、優劣は無く、気づきは無く、エゴは無く、自分勝手は無く、医者が100%そのようであり患者が100%患者であるという行為において互いの行為に一切後悔はありません。 そして、そこには本当の信頼関係があります。 このような意味で、目の前にいる人がこの世にいなければということは、一期一会を要請しているのではありません。 目の前にその人がいるという事実は、あなたがその人を好こうが嫌おうが意味(縁)があって目の前の存在しているのであり、それを如何なる見解によっても消し去ることはできないと言うことです。 また、あなた自身が本当に望んでいることとは、目の前の人を含めたあらゆる関係する人と、正常なるコミュニケーションをとるということであり、目の前の人などいなくなってしまえということでは無いということです。 仮に目の前の人が、嫌いな人であったとしても、その人と正常なるコミュニケーションをとることがあなたの本当の望みに他ならないのです。 そして、もしそのようにしなかったとき、あなたは後になって必ず後悔の念を残すのです。 そして、そのことは目の前にいるその人にとっても同様です。 それゆえに、そのことを(こころに)知る人は、少なくとも自分は後悔しない行為を(敢えて)為し、それによって相手にも後悔させないように(知られることなく)すべきです。 後悔の念は、自分にも、相手にも残ってはならないのです。 |
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ありがとうございます 発言番号:66 名前:earth 43歳 2004年01月28日11時05分 やはり私はまだまだ、エゴを残さないと言うことの本当の意味が分かっていないようです。 SRKWブッダ様のご意見を参考に、自分なりに考えていかなければ、と思いました。 |
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師は無用ということ 発言番号:67 名前:SRKWブッダ 43歳 2004年01月28日11時32分 「自分なりに考えていかなければならないと思いました」とおっしゃったこと。 これこそが、師は無用であるということを自ら理解されたことを意味しています。 覚りの境地に至るということは、かくの如く行うべきことであり、そこに師は無用です。 例えば、学問においても、師や教科書に頼っている間は駆け出しに過ぎず、それらのものに頼らなくなったとき、その人は本当の学生と呼ぶにふさわしいのです。 それと、同様です。 |
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結果オーライで本当にいいのか? 発言番号:68 名前:earth 43歳 2004年02月10日20時50分 SRKWブッダさんが「行為」について語ったとき(発信番号55)に「何かを行為したときに、後になってそれが善かったと思うのであれば、その行為を為したことは間違いなく善かったのです。」と述べられていました。 例えば私は誰かを怒ったり、誰かと喧嘩をしたりして、その直後は「あ〜失敗したな〜。もう少し冷静に対処すればよかったな〜」と後悔することもありますが、もっと後になって、その怒ったり喧嘩したことによって相手との人間関係が以前よりも良くなったり、親密になったり、相手もこちらの気持ちを以前より気遣ってくれたりして、最終的には怒ったり喧嘩したりしたことが善かったんだと思うこともあります。 この場合、怒ったり喧嘩したりしたことは、「善い行為だった」と考えていいものでしょうか? |
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怒り、喧嘩、善き行為 発言番号:69 名前:SRKWブッダ 44歳 2004年02月11日09時32分 *** 引用 この場合、怒ったり喧嘩したりしたことは、「善い行為だった」と考えていいものでしょうか? *** → その人が、本当に怒ったり喧嘩したりしたのであるならば、そのように為された行為の結果は、必ず後悔する結果となります。 しかしながら、後で振り返って、その時には怒りや喧嘩したという想いがあったとしても、後になってその怒りが(本当に)跡形も無くなり、喧嘩したという事実さえも、全く根に持つことが無いのであるならば、それは元々怒りでも喧嘩でも無かったと言えるのです。 それは例えば、兄弟喧嘩のようなもので、その時には傍目にも怒りがあるように見えて、ふと気が付くとまた仲良く遊んでいる兄弟の姿を目撃することになります。 そして、兄弟喧嘩は喧嘩とは言っても、喧嘩では無いことを大人は知っています。 なぜならば、大人どおしの喧嘩と兄弟喧嘩は本質的に違っているからです。 その意味で、兄弟喧嘩のようなものは、他人との間において生じたとしても、それが悪しき行為である筈がありません。 ところで、後悔の念とは、次のようなものです。 ■ してはならないことをしてしまったという想い ■ (善くないことだと)分かっているのに、どうしてもそれを止めることができなかったという想い ■ その行為を為し終わって、自己嫌悪や人間不信を生じてしまったその行為 また、自らの怒りをよく御する人は、常に次の2つの勝利を得ることができます。 @ 相手にうち勝つ A 自分にうち勝つ |
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真の悟りとは 発言番号:70 名前:believer 41歳 2005年06月29日13時39分 私の実践している仏教(日蓮仏法)において、「悟り」というのは、成仏の境地、仏界を得ることをいいます。「誰にも、仏の生命はあるのだ」と覚知することが「悟り」なのです。法華経以前に説かれたあらゆる教え、特に小乗教では、この世の不幸の原因は「煩悩」にあるとして、「煩悩」を断じ尽くした境地を「悟り」としました。しかし法華経では、「煩悩」を断ずることなく、そのまま「悟り」へ転換できると説いたのです。これを「煩悩即菩提」といいます。末法における法華経は「南無妙法蓮華経」であり、正しい本尊に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えれば、自身に内在する仏界を涌現する、すなわち「悟り」を得ることができるのです。 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは生死の闇を照し晴して涅槃の智火明了なり生死即涅槃と開覚するを照則闇不生とは云うなり、煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり煩悩則菩提と開覚するを焼則物不生とは云うなり」(御義口伝) |
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真の仏教 発言番号:71 名前:earth 44歳 2005年08月04日22時27分 真の覚り、真の仏教がどのようなものか、私には分かりませんが、ここに登場されているSRKWブッダさんは「なかなかの人物」であると、私は思います。 |
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そうですか? 発言番号:72 名前:仏教徒 30歳 2005年11月15日19時11分 確かにSRKWブッダ氏は人間的には素晴らしいかも知れませんが、私からすれば、彼の論理は、例えてみれば、ある目的地に行こうとしている時に、全く別方向へ行っているという印象を禁じえないのです。 |
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法を根本としてください 発言番号:73 名前:いそしぎ 42歳 2006年08月17日18時31分 earth様へ 日蓮大聖人というお方は「仏(=釈迦)の遺言に、『私の説いた法(特に法華経)を根本とすべきであり、他の人の言うこと(釈迦以外の人間の勝手な解釈)を根本としてはいけません』とあります。それゆえ、仏の説いた経(=法)に則って説かない人は、どんなに立派な人であっても、信用されてはならないのです」と仰っています。 あなたは、「SRKWブッダさんは『なかなかの人物』であると、私は思います」と仰せですが、はっきり言いまして、SRKWブッダ殿は、今日における本当の仏教を知らない方である、と断言する以外にありません。 釈迦以来の仏教の正統は、今どこにあるのでしょうか? それは「S学会」にあると、私は断言します。 こう言えば、「勝手なことを言うなよ!」と反発されるかもしれませんが、私の言うことが嘘か本当か、是非ご自身で確かめてみてはどうでしょうか? あなたは仏教に興味があるとのことですね。一度しかない人生です。真の仏教にめぐり逢いますように! |
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いそしぎさん、それが創価学会のテーゼか? 発言番号:74 名前:タキシード仮面 28歳 2006年08月18日12時02分 釈尊死後、第一次結集〜第三次結集によって釈尊の教えを十二大弟子が集まり 師である釈尊の教えを確認し合って作った経典が「アーガマ」(唯一の物と言 う意)漢訳されると阿含経だがこれを長老部が釈迦の教えとして護持して来た。 で、釈尊の死後三百年経った後に大乗部と言う釈迦教団の反乱軍の様なグループが釈迦の残した解脱の為の修行法を修行せずとも念仏だけで成仏できると言う師が説きもしなかった嘘をデッチ上げ涅槃経や法華経等の創作経典を作りあげた。自分達に都合の良い偽経典を。 その証拠に法華経の内容は「成仏をしなさい、成仏をすればこんなに良い事があるよ、」と言う成仏の勧めは言うが具体的因縁解脱法は説明出来ない!薬の効能書きの様な物で薬自体ではない。 教団の宗祖の死後三百年も経ってから教団の異端者が宗祖の教えに反する様な偽経典=創作経典である法華経を以って釈迦の教えを伝えてる等と言えるであろうか? 創価学会ではなく創作経典学会と言うのが仏教学上の実体だな。余り法華経しか勉強してない幹部の言う事ばかり信用しない方が良いよ。 さらばだ! |
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定年までは長い 発言番号:75 名前:鍾軌 48歳 2006年08月18日19時01分 ロトシックス買い続けて早いく歳。最高4等が過去5回当たっただけ。そんで最高配当が約17、000円である。 ん〜最近悟った。地道に働けと言う事か。 できるものなら最高配当の4億当てて、退職願いを提出したいものだw |
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ふふ〜ん。 発言番号:76 名前:KR 46歳 2006年08月18日22時33分 ●「日蓮大聖人というお方は「仏(=釈迦)の遺言に、『私の説いた法(特に法華経)を根本とすべきであり、他の人の言うこと(釈迦以外の人間の勝手な解釈)を根本としてはいけません』とあります。それゆえ、仏の説いた経(=法)に則って説かない人は、どんなに立派な人であっても、信用されてはならないのです」と仰っています。 ■でもさ・・本来、釈迦の記した・・もしくは釈迦の口語を書きとめた言語は サンスクリットで口伝され、書き記されてきたわけだし・それ幾度と無く 翻訳されている事を考えれば・・全て信用できないのじゃない? S学会なんてその典型で翻訳どころか・・個人の意訳で成り立ってるが? 「悟り」とは・・宇宙じゃないの??思うに。 |
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悟りかー 真如苑からピックアップしてみました。 発言番号:77 名前:斯波 26歳 2006年08月19日07時32分 真如苑では、釈尊の入滅の姿を通し、悟りの究極が明かされる大般涅槃経を、仏陀の最後の教えとして仏典のなかでもとりわけ尊んでいます。 そこに説かれる「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」、すなわち誰もが仏となる可能性をもっているという理念に基づき、ひとりひとりが自らの内なる仏性を見出し、さらにそれを精進によって磨き上げて、悟りに至ることを主眼としています。真如苑では、その境涯を「常楽我浄」と呼びます。常楽我浄を生きること。それは、永遠の法とともにある如来の生命に触れて生きることであり、大涅槃の境涯にほかなりません。 とはいえ、特別なこと、たとえば一般に難行苦行と言われるような修行をするわけではないのです。真如苑はインドから中国をへて脈々と受け継がれてきた伝燈仏教、とりわけ弘法大師(空海)以来の密教を正統に継ぎ基盤としていますが、あくまで在家の教団です。つまり、出家のような修行に励むわけではなく、信徒ひとりひとりが実社会の中で生き、日々の生活の中に精進を重ねることによって、仏陀の教えに寄り添っていこうとする集まりなのです。人生において、私たちが遭遇する苦しみや悲しみ、そして困難は、充分に修行の糧となるものです。「身は苦しみの集まるところ いかでこれを楽しみとせん(大般涅槃経 純陀品)」の一節はその心得を教えています。 このように人生のさまざまな局面で起きてくる自分の心の執われやはからい、偏りに気づき、心を切り替え、行いを変えていくこと。そのために真如苑では「接心」という禅定を行います。自我に繋縛されがちな心を解き放ち「空」を得て、常楽我浄へ至るための祈りの行です。そして、あるがままに自分を見つめ、長所も短所も自覚していきながら自己を研鑽し、そこから職場、家庭、学校等、社会のなかで自らが為し得ることを知り、その如くに努め、それぞれの場においてなくてはならない人となっていくことが理想です。 しかし、常楽我浄の喜びは、ただ自己の究明の中にのみ得られてはいきません。内在する慈悲の心を実社会において現していくこと、他のためになす大乗利他の行いこそが、自分かわいい自我から離れ、悠々とした自在な境涯へと導くものと信じています。 真如苑では次のようなことを、それぞれの心に従って行っています。 法要に参座し、経典を読誦し、法幢(お話し)を聞くなどして仏の教えに触れます。 接心修行(真如苑における禅定行)により、心の執われや偏り、自分のもつ傾向性を見つめます。 接心での気づきを日々の生活の中に活かし、自分の言動や心の動きを修め、慈愛を周囲に現していくことに努めます。 教法を他にも伝え、悩み、苦しみを共にしつつ「菩提」(悟りを目指す心)の向上に努めます。 奉仕やボランティアの実践。早朝、全国5600箇所のおもに駅周辺など公共場所を清掃する「早朝奉仕」は代表的なもの。また、お参りに来る方のための奉仕や、それぞれの身近な社会で活動しているボランティアへの参加などを勧めています。 青年部など同世代が集まり、各種の行事や研修を実施しています。 これらの日々の営みを祈りに昇華して霊格の向上をはかる相承会座が行なわれます。 |
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法華経系教団の修行法である折伏や千日回峰行で 発言番号:78 名前:タキシード仮面 28歳 2006年08月19日10時00分 釈尊の言う悪因縁消滅、霊障断絶が出来るのか?精神力と体力と詭弁の弁舌だけは鍛えられるかも知れんが、悪因縁や霊障を解消できない仏教は本来の仏教ではない、エセ仏教です。 創価学会は日蓮正宗の「信徒総代的組織」=壇家的存在であって宗教組織とは言えんのだよ。在家組織で成仏法を知らんから組織拡大や政治的影響力拡大にしか狂奔出来ん、道徳を論じる分には構わんが仏教云々は言わない方が良いよ、と言う事です。 釈尊は成仏法に従えばが誰でも悪因縁を消滅し、霊障を解消出来ると説いたが 創作経典を基にしたエセ仏教の法華経系教団は未来成仏=未来に於いて成仏すると説いている。現世での成仏を諦め、来世での成仏を願うのは釈迦の仏教とは無関係のヒンズー教の思想ですよ。 創作経典を基にした法華経系等のエセ仏教教団の実体は仏教の形式を装った偽装ヒンズー教団です。ヒンズー教団に釈尊の仏教を批判できる資格は有りませんな、釈尊在世中ヒンズーは釈尊に何度も論戦を挑んでは論破され、神通力比べをしつこく挑んではその度に釈尊の足元にも及ばなかった。 そんなヒンズーが仏教にカモフラージュした様な教団から口先の巧さだけで 法華経以前の経は無効だ等と釈尊を貶める発言はして欲しくないですな。 しかし、自分達はそう信じ込まされている・・・。つくづく無知とは恐い物です。 |
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おいらに、返信してるのかな?? 発言番号:79 名前:斯波 26歳 2006年08月19日16時54分 真如苑は 日蓮などのエセ仏教ではないですぞお^^; |
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いや、管領様に言ったんではなく、 発言番号:80 名前:タキシード仮面 28歳 2006年08月19日17時30分 しりんぎさんに言った積りなんですが・・・。釈迦の仏教は創価学会しか受け継いでないと言うなら日蓮系の教団に釈迦の成仏法以上の修行システムが今現に存在するのか?と追求したい訳ですよ。 |
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ふむう 発言番号:81 名前:斯波 26歳 2006年08月19日21時50分 なるほどね〜^^ |
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あの〜〜〜 発言番号:82 名前:いそしぎ 42歳 2006年08月31日19時27分 そういう議論は「2ちゃんねる」の「創価・公明板」に書き込んだほうが、よほど有意義に思いますが・・・ |
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何を皆して騒いでいるの? 発言番号:83 名前:ハヤブサ 30歳 2006年08月31日21時40分 唯物主義者で形而下の問題しか感心のない「俗人根性トリプルA」の諸君が、何しに「悟り」という形而上の問題スレに来て、田んぼでゲロゲロ鳴くカエルの合唱のように騒いでいるの? 「学会憎けれゃ袈裟まで憎い」か。スレ主さんもさぞや大迷惑だろうて。 君らにとって「悟り」って何? どこかの道場に通って“「空中浮揚」すること”かい? まあ君らにとっては、「蚊取り」線香でも焚いて、「魔除け」ならぬ「蚊除け」でもするのが丁度よかろう! |
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悟り 発言番号:84 名前:タオの穴ぼこ 48歳 2006年10月06日01時57分 「釈迦といういたずらものが世に出でて 多くの人を迷わするかな」一休 言語は共通認識の内でしか効力が無く その共通認識も非常に主観的なものの集まりでしかないし しかも言葉は二元的世界観を作り出す そう 断片化ですね 突き詰めれば突き詰めるほど断片化が進み そこに待ち受けるのは争い 争いの後に良くも悪くも新たな秩序が訪れ より大きな共通認識体(共同体)が形成される そのように 断片化と組織化が進行していく これは宇宙の摂理なんでしょう 心理学で言う「至高体験」が真理を垣間見せ それを言語化し伝えようと試みた過程で「悟り」という言葉も生まれたのでしょう 真理は思考に収まるものでは無く 瞑想や座禅 禅の考案などが発明されたのでしょう しかし禅では 至高体験が大悟では無いと言っている 至高体験にも囚われない それが 悟りの境地だと 「悟りとはどんな状態?」 結局は まさに「刻々の今そのままのあなた」こそ悟りの状態だと思います それに気づくことを「覚り」と言うのでしょうね ^^ 「我はただ 後世の教えを知らぬなり 阿吽の二字の有るにまかせて」一休 |
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さすが一休さん!! 発言番号:85 名前:普通人 42歳 2006年10月06日15時23分 飛び入り失礼します。 人間が飢えると体と同時に脳細胞も劣化し、ほとんどの人は動物と変わらない状態になるそうです。 しかし、例外的に、1万人に一人くらい、飢餓状態でも道徳という人間状態を保てる人がいると聞いています。 悟りの境地に達することができるのはこういう人ではないかと思います。(体力を落としても脳を活性した状態に保てる) ある意味先天的素質に起因するようなことを、一般化しようとした釈迦を、いたずらものと喝破する一休さんはさすがです。 どう考えても、精力絶倫そうなお坊さんが悟りの境地に達するのは無理ですよ。 悟りの一般化は詐欺に近いと私も思います。 |
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覚り 発言番号:86 名前:タオの穴ぼこ 48歳 2006年10月13日11時08分 一般的に悟りに対する固定観念が強すぎる気がします 悟りとは ただ気づくこと 何が何に気づく? 結局 何も変わるものは無い あるがまま 唯「気づき」が「在る」だけ それは見えるものじゃない 分かるものじゃない 説明できるものじゃない なぜ? それは 思考という断片化装置がチョキチョキチョキチョキ世界をつぎはぎにしているから 自と他 内と外 表と裏 言葉と・・・「痴者は 月を指す指を見て月を見ない 言葉に囚われる者は 真実を観ることはできない」楞伽経 「蓮葉の 濁りに染まぬ 露の身は ただそのままの 真如実相」一休 な〜んて 悟ってもないのに ごめんなさい m(_ _;)m ついでに^^; ソニーロリンズのビレッジバンヴァードライブ に悟りを感じるのは私だけでしょうか^^; |
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固定観念も何も… 発言番号:87 名前:普通人 42歳 2006年10月15日00時11分 悟りに対する固定観念も何も、どんなものなのか皆知らないのじゃないですか。 悟りという超レア体験を表現する言葉をいつどのように教育するのでしょうか。 悟り境地に達したものがいたとしても、説明される方はわかりようなありません。 座禅というのは粗食で体力を抑え、瞑想によって脳を活性されるトレーニングなのです。 眠ってしまったらトレーニングにならないから活を入れる訳で、ちゃんと筋の通った方法です。 煩悩のもとは肉体にありますから、この方法なら悟れるかもしれません。 が、ものになるものがほとんどいないのは、今も昔も変わらず、ということでしょう。 私は凡人なので煩悩と道ずれの人生を歩むしかないと「悟って」います… |
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池の音 発言番号:88 名前:タオの穴ぼこ 48歳 2006年10月15日10時55分 >悟りに対する固定観念も何も、どんなものなのか皆知らないのじゃな>いですか。 *そのとうりだと思います!「知らない」この言葉が指し示す先に・・・ >悟りという超レア体験を表現する言葉をいつどのように教育するので>しょうか。 *成長する過程でどこかで出くわすんでしょうね >悟り境地に達したものがいたとしても、説明される方はわかりような>ありません。 *まったくそう思います じつは 前の書き込みに同じ事書いたんですが消しました それで終わっちゃう気がして ^^; 悟りと修行はなんら関係無いと思います たしかに有効な手段ではある様ですが 座禅や瞑想も 言葉で説明するのと同じくらい 方便だと思います 変性意識から悟りをもたらそうというものでしょう 変性意識そのものが悟りでは無いようです もちろん心理学でいう至高体験は それをもたらしてくれるようですが 禅ではさらに 至高体験に囚われるな と言います 盤珪や一休も師匠にそれをためされてます なにものにも囚われない境地 あらゆる修行は無駄だった と 仏陀も言ってますね しかしこれも方便でしょうが^^; 芭蕉の句 かわず飛び込む池の音 から 静寂を感じます 静寂そのものは表現できませんから 何かが必要です 芭蕉はみごとにノイズで表現しました そう私はとらえてます 悟り も ノイズで表現するしかないのでしょう >私は凡人なので煩悩と道ずれの人生を歩むしかないと「悟って」いま>す… 同じく!! おしなべて 悟ったと思われる方々はみなこう言ってます 「気楽に行こう」 Take It Easy ご無礼いたしましたm(_ _;)m |
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いい意見ですね 発言番号:89 名前:普通人 42歳 2006年10月15日23時20分 悟りと修行はなんら関係無いと思います というのは、挑戦的で実にいい意見です。 |
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訂正! ^^; 発言番号:90 名前:タオの穴ぼこ 48歳 2006年10月16日13時48分 前回 芭蕉の句の 水の音 と書いたつもりが 池の音になってました失礼いたしました m(_ _;)m 〜古池や 蛙飛び込む 水の音〜 思考が 静かに 静かに 静かに 静か〜に 鏡の様な水面状態に在る時 チャポンッ っと 静寂に波紋が広がる かえるじゃなくてもいい ましてや 雄でも雌でも関係ない どんな種類のかえるだろうが何匹だろうが 汚い池だろうがどうでもいい 静謐なる静寂とノイズ 意識の始まる際 隻手の声を聞き 思考という鎧いを脱ぎ捨て 存在の海に漂う ブラフマーナ ≧ アートマン |
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srkwブッダさんの説いた理法について 発言番号:91 名前:BABAa 25歳 2006年11月29日11時37分 私は、過去に、幾度か禅における光明と言われる体験を見たことがあります。 空について悟り、あたかも自分が秀でたものであると錯覚していました。 とある別のサイトで、SRKWブッダさんと思われる方の発言を見て、「本物が出た。」と、即時に可解しました。乱れることのない文章、言うべき事を過不足なく言う、彼は覚者だと思いました。 光明を見て、空について悟っていた私は、自分などない、自分と他人の境などないと固く信じていました。しかしSRWKブッダさんは、自分自身を拠り所とせよと、説きました。私は混乱しました。空についての体験による私の確信は虚妄であり、彼(SRKWブッダさん)が説くことが真実である、そう思ったとき、私は動揺しました。自分など無いと信じて、空の様になるべく瞑想などを行っていた私は行き詰りました。更に、SRKWブッダさんは、無執着について説いていました。私はそれが理解できませんでした。私は自由になりたかった。自由と無執着が、当時はうまく結びつきませんでした。 そして、悩んだ私は精神的なトラブルを起こし、神経症になりました。 消滅してしまっているのか、今はアクセスできないSRKWブッダさんのHPに、空往と、無往についての記述がありました。私はそれを心に了解したい。 いつの時か、自らが成仏するのだろうと、今は思っています。 http://www.geocities.jp/srkw_buddha/ |
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他ならぬ自らによって... 発言番号:92 名前:SRKWブッダ 46歳 2006年12月02日13時42分 人が自分はいつかは覚りの境地に至るであろうと考えても、そのことによって(そのことに随順して)覚りの境地に至るということはない。 しかしながら、人が、人は誰しもが覚りの境地に至り得るのであるということを確信するならば、かれはついに究極の境地に至るであろう。 こころある人は、他人をも、自分をも苦しめる不当なる思惟の根本(=我執(我ありという思い))を捨て去れよ。 人をよろこばせることではなく、人を悲しませないことを心の銘とせよ。 世間にまつわって起こるあらゆることがらを平らかに見て、よく気をつけて世を遍歴せよ。 何かを語るときには、借り物ではない自分の言葉で語り、(自分を含めて)けっして人をけしかけない人であれ。 また、それにも増して、真実に耳聡き人であれ。 明知の人は、これらのことは円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に役立つものであるとこころに知って、人と世の真実を見極め、他ならぬ自らによって虚妄ならざる究極の境地に到達せよ。 *** |
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日蓮仏法における「悟り」 発言番号:93 名前:いそしぎ 42歳 2006年12月04日17時58分 「夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり」(一生成仏抄) −通解− 無限の過去から繰り返されてきた生死の苦悩を留めて、今この人生で間違いなく最高の悟りを得ようと思うならば、必ず衆生に本来具わる妙理を自身の生命の中に見ていくべきである。 衆生に本来具わる妙理とは妙法蓮華経のことである。ゆえに、妙法蓮華経と唱えれば衆生に本来具わる妙理を自身の生命の中に見ていることになるのである。 |
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私の気持ち 発言番号:94 名前:BABAa 25歳 2006年12月16日18時48分 人の道は歩めても、仏の道は、、と思ってしまったりしています。 一切皆苦なんて、悲しすぎます。知りたくない真実なのでしょうか。 SRKWブッダさん、いそしぎさん、日にちも隔たっているのに、レスポンスを下さりありがとう御座います。尋ねたいこともやまとありますが、(例えば、仏が無量の慈悲で観ずる故に、無量の慈悲でもなければ救い難い衆生が生まれるのではないか、等)ひとまずとりおいておきます。 ブッダに会えると言う事は稀有の事だろうから、すぐにでも質問すべきなのかもしれませんが、今の私では、ろくな質問もできやしないでしょう。きっと、皆も自分も惑うだけです。 分かる範囲から、やっていきます。よろこばすよりも、悲しませない、なんで?我ありという思いは不当、なんで?「人は誰しもが覚りの境地に至り得るのである」ああ、そうかも。。。わからないことだらけです。あなたの説かれたことをほとんど理解していません。理解したくないという気持ちさえ出てきます。今は、よく聴こうとする、それくらいしかできません。又機会があれば、理法を説いて聞かせてください。 ありがとうございました。 あっ、これだけ、おききしたい、おたずねしてもいいかなと思うことがあります。 以前、ラクダというハンドルネームで、生活の術についてあなたに尋ねたことがありました。その中に、「己に打ち勝った勇者」という表現が御座いましたが、「己に打ち勝つ」とはどういう意味でしょうか。 もし、この書きこみをご覧になったなら、そしてもしよろしければ、SRKWブッダさん、ご教示ください。では。 |
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己に打ち勝った勇者 発言番号:95 名前:SRKWブッダ 46歳 2006年12月24日09時30分 制し難き自己を制し、世間の何に触れても心が汚されない人。 かれは、何ものにもけしかけられることがなく、また他の人をけしかけることも無い。 かれは、敵対するということが無い。 かれは、自ら奮励努力して、究極の境地に至る道を自ら見出し、自ら歩む。 このような人こそ、「己に打ち勝った勇者」とも「無敵」とも称される。 *** |
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仏とは…… 発言番号:96 名前:いそしぎ 42歳 2006年12月26日17時00分 「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(一生成仏抄) −通解− 人々の生命が濁れば生活の環境も濁り、逆に人々の生命が清らかであれば、生活の環境も清らかになるのであって、浄土(幸福な仏の世界)といっても穢土(悩みにみちた世界)といっても、別々にあるものではありません。ただそこに住む私たちの生命のよしあしによって決まると説かれています。衆生と仏という違いもこれと同じで、生命の実相に迷っているときを衆生といい、悟ったときを仏というのです。 |
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SRKWブッダさんへ 発言番号:97 名前:BABAa 25歳 2006年12月27日17時15分 もし人が(たとえ愚人であっても)、自ら道を求め、自ら道を見出し、それを歩むならば、彼は他の人のためにもよく生きているのだと言ってよいでしょうか。 もし人が(たとえ愚人であっても)、自ら道を求め、自ら道を見出し、それを歩むならば、彼は疑惑を超えて、人生の意味を見出すに至ると言ってよいでしょうか。 |
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いそしぎさんへ 発言番号:98 名前:BABAa 25歳 2006年12月27日17時20分 おっしゃられたことはなんとなくわかります。 なんと表現すればよいのかわかりませんが、(自己を清らかにすることを望む人は)浄土に行くというより、浄土を成す、というようでしょうか。 |
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道 発言番号:99 名前:SRKWブッダ 46歳 2006年12月27日21時45分 もし人が、自ら道を求め、自ら道を見出し、それを歩むならば、彼は他の人のためにもよく生きているのだと言ってよいであろう。 もし人が、自ら道を求め、自ら道を見出し、それを歩むならば、彼は疑惑を超えて、人生の意味を見出すに至ると期待され得る。 円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至る道は、海のように果てしなく広大で平らかな道である。 人は、精励と名づく羅針盤によってその彼方の岸に至る。 それゆえに、こころある人は自分ならざる何ものにも依拠することなく、ただ自らに依拠して道を歩み、究極の境地に到達せよ。 *** |
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RE:道 発言番号:100 名前:BABAa 25歳 2006年12月28日14時50分 私は、浅はかな欲に駆られ、愚をなす人です。口先だけで、行為の伴うものではありません。しかし、自ら、自らと、あなたが再三おっしゃられたのを、何度も何度も聴いた以上、それを護らないわけにも参りません。 あなたのように、よく耐え忍ぶものになれるよう精進します。 大変、ありがとうございました。 あなたの説かれた四徳を心に留めて置きます。生涯それを忘れ去ることは無いでしょう。それが浮かんでこなくとも、それは心に刻まれたはずです。その意味が理解できなくとも、それが跡形無く私の心から消え去ることはないでしょう。もし、それが全く消え去るときが来たのなら、私が無に往したときだけです。 海を渡れば、舟や櫂は必要としなくなるように、道を終えたときには、四徳は完成されたもの、成し遂げられたものとして、私の心の果てとなるでしょう。 もはや、誰がブッダであるとか、ここにブッダに見えたとか、そういうことに囚われないこととします。ブッダが現れれば敬うけれど、それには執着しないこととします。 大変、大変、ありがとう御座いました。 又ご縁があれば、お話交えたいと思います。そのとき聴けるであろう理法を、楽しみにしております。では・・・ |
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