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提案者基調 |
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とりあえず、お答えです。 発言番号:2 名前:ケンタロウ 43歳 2004年05月29日12時05分 共同幻想という概念をどこから持ってこられたのか知りませんが、この概念だけで、歴史を総括することはできません。 >あなたは、何を考えているか全くわからない人が隣に住んでいても怖くありませんか? 逆にあなたの隣人も、あなたが何を考えているか全くわからないのですよ? 確かに、そういう状況はいくらでもありえます。しかし、だからと言って、 >あなたの隣人は、理不尽にもあなたの朝食を奪うためにあなたを殺すかもしれない。 あなたは、当然にしてその朝食を守るためにあなたの隣人を殺すかもしれない。 とは、必ずしもなりません。こんなことをしていたら、とっくに人類は絶滅しているでしょう。 20年位前に読んだ、栗本慎一郎著「パンツをはいたサル」に、全く見知らぬ集団同士が、たまたま隣り合ってしまった場合、紛争を未然に防ぐ方法として、贈り物をしあうことがある、というようなことが書かれてありました。 例えば、A集団とB集団の居住地域の境界のあたりに、峠があったとしたら、その頂上あたりに、どちらかが、黙って、食料などをたくさん置いておく。相手方は、それを持ち帰り、そこの奴隷か何かに、食べさせてみる。 食べてみて、大丈夫だし、うまい、となれば、今度は、自分達も、同じように、峠の頂上あたりに、自分達の食料か何かを置いておく。 こういうことを何度か繰り返すうちに、互いに相手が、敵意を持たないことを確認しあえる。 全部は覚えていないのですが、そんなような話でした。 これは、象徴的な話ですが、似たようなことは、どこでも、わりと日常的に行なわれています。日本人が、中元、歳暮など、贈答しあうのもその例です。 この「贈り物をしあう」と言う方法は、敵意がないことを示しあい、紛争を未然に防ぐ手段としては、非常に優れていますし、太古の昔から、人間は、ちゃんと、そういう知恵を持っていたということです。 贈り物をしあうことで、交流が生まれればしめたものですが、交流が生まれない場合もあります。 交流がなければ、即、紛争か、というと、無論、そうはなりません。 「敬遠」と言う平和維持法があります。 敬いつつ遠ざける、というのは、表面的には、ニコニコ握手するが、日常的には、全く交流がない状態です。近所づきあいというのが、それに当たるでしょうか。 道端で会えば、一応、挨拶くらいはするが、食事に誘い合うなんてことは、ほとんどありません。それでも、滅多なことでケンカにはなりません。言わば、放っときあうと言うことです。不干渉主義と言ってもいいでしょう。これも、平和維持のための偉大な知恵です。 ちなみに、戦国時代には、婚姻関係を結ぶことで、無益な戦いを防いでいました。これは、贈り物の代わりに、「嫁」という名の「人質」を送りあった、と考えてもいいかもしれません。 それでも敵対関係を解消できなければ、戦闘になってしまったわですが、戦国武将とて、なんでもかんでも戦闘で解決しようとしていたわけではないのです。 人質を使った紛争防止法は、徳川時代にも受け継がれました。各大名の江戸屋敷には、常に、大名の嫁か、子供が置かれていたことはどなたもご存知でしょう。 >『ヒトであること』を共同幻想にする事とは、『個体差』を100%無視して「あなたも私も同じ人間。だから、あなたと私はすべて同じでなければならない」という事を全人類に浸透させるという事に他なりませんから、個人の幸福追求の自由などは全く封殺されます。 「あなたと私は全て同じでなければ、個人の幸福追求の自由は封殺される」とおっしゃりたいようですが、「あなたと私は全て同じ」と思う人がいるでしょうか。 言い古されてはいますが、「あなたと私は違う」からこそ、他人の幸福追求には口出しせず、互いの存在を許しあうことができるといえます。 例えば、あなたが、何かの趣味に没頭していたとします。他人に、「あんたはおかしい。つまらんことに没頭するな」と口出しされれば、腹が立つでしょう。放っておいてほしいでしょう。 他人が、「私とこの人は違うんだ」と考え、そのままにしてくれるからこそ、あなたの幸福は保証され、あなたは、好きなことに夢中になれるのです。 >朝食の例では、「いや、オレは一人分の朝食をちゃんと食べたい。だからこの朝食があなたの家にあったとしてもオレが先に見つけたのだから、あんたはガマンしてくれ。」と言う事や、「これはあなたの家にある朝食ではなくて私の家にある朝食だから私のものだ。だからあなたがどんなにおなかが空いていたとしてもガマンしてくれ。」と言う事が絶対に言えなくなる、という事なのですよ。 これは、弱肉強食の論理でしょうか。 弱肉強食を克服してきたのが、人類の歴史と言っていいと思います。 自由、平等、生存権、社会権、社会保障などは、弱肉強食の冷酷さを克服してきた結果であり、あなた自身、それらの恩恵を受けていることを忘れてはならないでしょう。 >「ヒトであること」を共同幻想にする事とは、世の中が100%『狂人』ばかりになるという事なのですよ。 なぜなら、「狂人であるかないか」という事柄は、正常な人と異常な人を認識するための『共同幻想』が成立しているからこそ言える言葉なのです。 理論的には、これで『戦争』はゼロになります。 しかしそのかわりに、『殺人』が日常茶飯事となる事でしょう。 『ヒトであること』を共同幻想にする事とは、まさにこういうことなのです。 ここの部分は、ものすごく飛躍があるというか、共同幻想に執着しすぎているように思います。 私が言っている「狂人」は、精神錯乱状態にある人のことであって、その集団の常識や共通認識から外れている人のことを言ってるわけではありません。 言い換えれば、私が言うところの「狂人」でない人が起こす殺人は、その集団の常識や共通認識から外れた認識を持った人が起こすと言えます。まさに、「人を殺すな」と言う共通認識を無視するからこその殺人です。それでも、彼は、決して「狂人」ではありませんし、共同体の共通認識に反したことで、罰せられます。 もちろん、殺人の理由は他にもいろいろありますし、それは、犯罪心理の分野です。 >我々は「日本の法律と道徳を守って生活している事」「日本語を使って他の人とのコミュニケーションをする事」「あらゆる意味で貧しいより豊かな方を好む事」「人は人を殺してはならないという事」etc.etc.…を『共同幻想』として抱いています。 だからこそ議論やケンカが成立するのです。 なんで、「だからこそ」になっちゃうんでしょうか。 人は、生活するために、他人と利害関係にあります。その利害を調節するために法律があり、利害を分かり合うために言語を利用する。 議論は必要ですが、それは、ケンカを未然に防いだり、ケンカを終結させるためです。議論とケンカをごっちゃにしてはいけない。 >国家・民族・人種・言語・習慣・法や道徳… これらの共同幻想が異なったヒトとヒトの間では、最終的には戦争でしか互いの主張を通す事は出来ないのです。 この主張が誤りであることは、もう説明の必要はないでしょう。 >ウソだと思ったら日朝関係を見てみるがいい。 アメリカとテロ組織の関係を見てみるがいい。 中国と台湾の関係を見てみるがいい。 ヒトが地球に誕生してきてからの「戦いと殺し合いの歴史」を見渡してみるがいい 「戦いと殺し合い」だけが歴史ではありません。 むしろ、戦いと殺し合いをどうすれば無くせるかを模索しつづけたのが、人類の歴史と言っていいでしょう。 この半世紀の間だけでも、数え切れないほど戦争は起きましたが、現在、戦争状態にあるのは、多分、イラクくらいのものです。これも、戦争ではない、という人がいるくらいです。 これだけ、戦争が減ったのは、国際連盟、国際連合、多くの不戦条約、停戦条約など、戦争を防いだり、終わらせるための努力が続けられてきた結果です。 日朝関係については、過去の紛争や戦闘がなぜ起きたのかを考えることは重要ですし、その後の経緯にもいろいろ問題はありますが、とりあえず、大規模な殺し合いが終わっていることは評価すべきでしょう。 今後に関して、キム・ジョンイルがどういう出方をするか分かりませんが、少なくとも、戦争に持ち込むことは考えにくいと思います。 独裁者と言うのは、他の人民が犠牲になっても、自分だけは生き残りたいと考えるものです。だから、富を独り占めにして、安楽な生活をむさぼるのです。人民の犠牲の上に、自分の安楽があることを独裁者自身がよく知っているのです。 戦争すれば、その安楽が一挙に失われます。そんな愚かなことをキムさんがやるでしょうか。 アメリカとテロ組織の関係は、まさに、私が述べてきたことを無視していることが原因です。特に、アメリカ人が、その愚かさに気づくまでは、この戦いは続くでしょう。 しかし、そろそろ、アメリカ人も、愚かさに気づきつつあるように思えます。アラブとの関わり方を間違っているのではないか、という風に。 中国と台湾の関係は、政治的には、緊張状態にあるように見えますが、経済や人的交流の場では、すでに、ほとんど壁はありません。 中国は、いまや、世界経済を無視しては自らの存立はありえないことをよく知っています。西側資本を、どんどん受け入れています。 中国を純然たる共産国家だと思ったら、大間違いです。 共産主義では、利子、配当などの不労所得(働かずして手に入る富)を認めないのですが、中国は、とっくの昔に、株式を公開しました。 共産主義の理論は資本主義の否定から出発するのですが、株式は、資本主義そのものです。 中国は、台湾を攻撃すれば、西側社会から、総スカンを食うことを十分に承知しています。だから、香港の場合と同じように、一国二制度という、なりふり構わぬやり方を提案しているのです。 一国二制度などというのは、矛盾の塊です。しかし、中国共産党は、その矛盾を認めるしかないと考えるようになっているのです。これも、紛争を未然に防ぐ、ひとつのやり方だと思います。 現実の歴史の流れを共同幻想というたった一つの概念でくくっても意味はありません。 今後戦争が起きないと言う保証はできません。今でも、パレスチナ問題を始め、地球上の至る所で民族紛争があり、いつ、戦争に発展するか分からない状態にあります。 しかし、それらの紛争を、一つ一つ解決していく能力や手段を、人類は、確かに持っています。 最後に、私は、ケンシロウではなくて、ケンタロウです。 「北斗の拳」は、全部読みましたがね。 |
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訂正です 発言番号:3 名前:ケンタロウ 43歳 2004年05月29日13時42分 上のレスの中で、一箇所、矛盾点がありましたので、訂正させてください。 >議論は必要ですが、それは、ケンカを未然に防いだり、ケンカを終結させ るためです。議論とケンカをごっちゃにしてはいけない。 という部分です。 ケンカを終結させるのは、第三者の介入でした。裁判制度が、被告側、原告側に分かれて、論争し、最終的には、第三者である、裁判官が判決を下す、というのと同じ理屈です。 ケンカも議論の一種と考えてもいいのですが、ここでは、一応、ケンカを、暴力を伴う争いごと(殴り合いとか、暴力団同士の抗争とか)と考え、議論を、あくまでも話し合うこと、と分けて考えたいと思います。 従って、議論は、ケンカを防ぐ手段としては有効だと考えます。 |
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もっともっと大きな視点から見て下さいな。 発言番号:4 名前:東照権現 34歳 2004年05月30日20時42分 なるほど、思っていたよりはマトモな方みたいですね。 >20年位前に読んだ、栗本慎一郎著「パンツをはいたサル」に、全く見知らぬ集団同士が、たまたま隣り合ってしまった場合、紛争を未然に防ぐ方法として、贈り物をしあうことがある、というようなことが書かれてありました。 『パンサル』は読んでいたようですね。 しかし、あなたは意識的にか無意識的にかはわかりませんが、『パンサル』の最も重要なテーゼには触れていませんね。 『パンサル』においては、人間には遺伝的にプログラミングされた攻撃性があり、その存在を無視して外から道徳やモラルを押し付けても、決して戦争や殺戮はなくならない。というテーゼを基礎としています。 そして「贈り物」はあくまでその「回避」のために行われるのであって、ヒトは本質的には自らと異なる共同体とは相容れない性質を持っている。としています。私もこの説を強力に支持します。 私の言う『共同幻想』とは、『ヒトが無意識下において他のヒトと共有できる一体感』を指しています。 すると、 >あなたは、何を考えているか全くわからない人が隣に住んでいても怖くありませんか? >逆にあなたの隣人も、あなたが何を考えているか全くわからないのですよ? >確かに、そういう状況はいくらでもありえます。しかし、だからと言って、 >あなたの隣人は、理不尽にもあなたの朝食を奪うためにあなたを殺すかもしれない。 あなたは、当然にしてその朝食を守るためにあなたの隣人を殺すかもしれない。 >とは、必ずしもなりません。こんなことをしていたら、とっくに人類は絶滅しているでしょう。 このあなたの主張では、隣人と『共同幻想』を分かち合っているのですから当然にして妥当となります。 私が主張しているのは、例えて言えばコロンブスが初めて新大陸に上陸した時のような状況を指しています。 コロンブスは、第一次航海で西インド諸島の先住民達と一応の融和に成功し、現地に少数の部下を残してヨーロッパに帰還しました。 そして時を待たずして第二次航海を敢行したのですが、現地人との融和に成功していたはずが彼の部下達は全て皆殺しにされていたのです。 確かにこの間に何が起こったのか、実証する術はありません。 しかしただ一つ言えるのは、“融和に成功したからといってヒトがヒトを殺さないとは限らない”という事ではないでしょうか。 それゆえ私は、「隣人が何を考えているか全くわからない(『ヒトが無意識下において他のヒトと共有できる一体感』が全くない状況)状態において、普通の生活など決してできない」という事を申し上げたつもりなのです。 私は、現代ではこれが『政教分離と政教一致』として現れてきているのではないか、と思っています。 アメリカやヨーロッパ、その他多くの『政教分離国家』と、多くのイスラム文化圏での『政教一致国家』の対立がそれです(現時点でこの二つを切り分けてしまう事はやや性急なのかもしれませんが、私は敢えて切り分けてしまいます)。 このそれぞれは、自らの抱く「共同幻想」が異なるために、根本的には相容れない性質を持っていると私は考えています。 >例えば、A集団とB集団の居住地域の境界のあたりに、峠があったとしたら、その頂上あたりに、どちらかが、黙って、食料などをたくさん置いておく。相手方は、それを持ち帰り、そこの奴隷か何かに、食べさせてみる。 >食べてみて、大丈夫だし、うまい、となれば、今度は、自分達も、同じように、峠の頂上あたりに、自分達の食料か何かを置いておく。 >こういうことを何度か繰り返すうちに、互いに相手が、敵意を持たないことを確認しあえる。 >この「贈り物をしあう」と言う方法は、敵意がないことを示しあい、紛争を未然に防ぐ手段としては、非常に優れていますし、太古の昔から、人間は、ちゃんと、そういう知恵を持っていたということです。 >贈り物をしあうことで、交流が生まれればしめたものですが、交流が生まれない場合もあります。 >交流がなければ、即、紛争か、というと、無論、そうはなりません。 >「敬遠」と言う平和維持法があります。 >敬いつつ遠ざける、というのは、表面的には、ニコニコ握手するが、日常的には、全く交流がない状態です。近所づきあいというのが、それに当たるでしょうか。 >道端で会えば、一応、挨拶くらいはするが、食事に誘い合うなんてことは、ほとんどありません。それでも、滅多なことでケンカにはなりません。言わば、放っときあうと言うことです。不干渉主義と言ってもいいでしょう。これも、平和維持のための偉大な知恵です。 はい。地球がまだ広大で、共同体と共同体の『世界』が物理的に隔てられていた時代は、この手段も非常に有効であったでしょう。 しかし、チンギス・ハーンの大遠征〜大航海時代以降、この様な手段はだんだん通用しなくなっていきました。 つまり、『征服民による非征服民の隷属化』が長期間かけて慣例化し、それが19世紀末まで延々と続いていたのです。 20世紀はまさに、この『慣例との戦い』の世紀であったと言っても良いでしょう。 “弱肉強食”から“国際協調”へ、それこそ人類は血で血を洗って努力を続けてきたのです。 国際協調という名の『共同幻想』を全世界で共有する事が、100年以上経っても我々にはまだ出来ていないのです。 (尚、わが国での戦国時代や徳川政権の例も挙げられていますが、これは元々「共同幻想」(言語・生活様式・武士としての価値観など)を共有化した上での闘争であったに過ぎないので、ここでは適切ではありません。) >『ヒトであること』を共同幻想にする事とは、『個体差』を100%無視して「あなたも私も同じ人間。だから、あなたと私はすべて同じでなければならない」という事を全人類に浸透させるという事に他なりませんから、個人の幸福追求の自由などは全く封殺されます。 >「あなたと私は全て同じでなければ、個人の幸福追求の自由は封殺される」とおっしゃりたいようですが、「あなたと私は全て同じ」と思う人がいるでしょうか。 >言い古されてはいますが、「あなたと私は違う」からこそ、他人の幸福追求には口出しせず、互いの存在を許しあうことができるといえます。 >例えば、あなたが、何かの趣味に没頭していたとします。他人に、「あんたはおかしい。つまらんことに没頭するな」と口出しされれば、腹が立つでしょう。放っておいてほしいでしょう。 >他人が、「私とこの人は違うんだ」と考え、そのままにしてくれるからこそ、あなたの幸福は保証され、あなたは、好きなことに夢中になれるのです。 はい。私はもっともっと大きな概念での「共同幻想」を想定しています。 趣味や趣向程度の小さな違いでは、我々は互いを尊重する事が出来ます。 しかし、もっともっと大きな概念。。例えば『政教分離・一致』『自由経済と計画経済』『文化、生活様式・道徳やモラル』などにおいては大きな齟齬を生みます。 アフリカのとある部族では、初対面の相手にツバを吐きかける事が相手への謙譲の意思を示す行為となります。 韓国では犬を食べ、中国では熊の掌や猿の脳みそが最上級の料理とされ、日本料理の納豆は西洋人の多くから敬遠され、日本人の多くはブルーチーズを平気な顔をして食する事は困難な人が多いのです。 アラスカのとある先住民では男性同士の結婚が当たり前であったり、チベットでは一妻多夫制であったりします。 これらの違いに対して、全ての日本人がすぐにこれらを尊重する事が出来るでしょうか。 少なくとも、しばらくの間は生理的違和感を払拭しきれないのではないでしようか。 そしてこれらを最も細分化した状態…つまり「ヒトの個体差」は、最終的にはすぐには尊重できない(全く尊重できない人もいるでしょうし、すぐに理解を示す人もいるでしょうが)のではないかと私は主張しているのです。 身近な例ではちょうど、自分の成功例に固執するがために上手く部下を指導できない上司のように。 また、どこかのスレッドであなた自身が言っていた、アメリカ人に脅かされた話と同じように。 >朝食の例では、「いや、オレは一人分の朝食をちゃんと食べたい。だからこの朝食があなたの家にあったとしてもオレが先に見つけたのだから、あんたはガマンしてくれ。」と言う事や、「これはあなたの家にある朝食ではなくて私の家にある朝食だから私のものだ。だからあなたがどんなにおなかが空いていたとしてもガマンしてくれ。」と言う事が絶対に言えなくなる、という事なのですよ。 >これは、弱肉強食の論理でしょうか。 >弱肉強食を克服してきたのが、人類の歴史と言っていいと思います。 >自由、平等、生存権、社会権、社会保障などは、弱肉強食の冷酷さを克服してきた結果であり、あなた自身、それらの恩恵を受けていることを忘れてはならないでしょう。 >「ヒトであること」を共同幻想にする事とは、世の中が100%『狂人』ばかりになるという事なのですよ。 >なぜなら、「狂人であるかないか」という事柄は、正常な人と異常な人を認識するための『共同幻想』が成立しているからこそ言える言葉なのです。 >理論的には、これで『戦争』はゼロになります。 >しかしそのかわりに、『殺人』が日常茶飯事となる事でしょう。 >『ヒトであること』を共同幻想にする事とは、まさにこういうことなのです。 >ここの部分は、ものすごく飛躍があるというか、共同幻想に執着しすぎているように思います。 >私が言っている「狂人」は、精神錯乱状態にある人のことであって、その集団の常識や共通認識から外れている人のことを言ってるわけではありません。 >言い換えれば、私が言うところの「狂人」でない人が起こす殺人は、その集団の常識や共通認識から外れた認識を持った人が起こすと言えます。まさに、「人を殺すな」と言う共通認識を無視するからこその殺人です。それでも、彼は、決して「狂人」ではありませんし、共同体の共通認識に反したことで、罰せられます。 >もちろん、殺人の理由は他にもいろいろありますし、それは、犯罪心理の分野です。 私の主張の仕方がまずかったのか、あなたの想定している概念が小さすぎるのか、私とあなたの認識には格差がありますね。 しかし、『戦争は本当に罪悪か?』という最大限のテーゼを扱う以上、その概念は最大規模のものを想定していただきたいですね。 >我々は「日本の法律と道徳を守って生活している事」「日本語を使って他の人とのコミュニケーションをする事」「あらゆる意味で貧しいより豊かな方を好む事」「人は人を殺してはならないという事」etc.etc.…を『共同幻想』として抱いています。 >だからこそ議論やケンカが成立するのです。 >なんで、「だからこそ」になっちゃうんでしょうか。 >人は、生活するために、他人と利害関係にあります。その利害を調節するために法律があり、利害を分かり合うために言語を利用する。 >議論は必要ですが、それは、ケンカを未然に防いだり、ケンカを終結させるためです。議論とケンカをごっちゃにしてはいけない。 >(訂正)ケンカを終結させるのは、第三者の介入でした。裁判制度が、被告側、原告側に分かれて、論争し、最終的には、第三者である、裁判官が判決を下す、というのと同じ理屈です。 >ケンカも議論の一種と考えてもいいのですが、ここでは、一応、ケンカを、暴力を伴う争いごと(殴り合いとか、暴力団同士の抗争とか)と考え、議論を、あくまでも話し合うこと、と分けて考えたいと思います。 >従って、議論は、ケンカを防ぐ手段としては有効だと考えます。 ここもそう。 議論の応酬やケンカの延長線上に争いがあるのだとすれば、戦争すらもコミュニケーションの一つと見なす程の大きな概念を想定していただかないと、我々の議論はいつまで経っても平行線をたどります。 さて、上記以外の世界情勢についての個々論については別の機会に譲りたいと思います。 最大限のマクロな視点でこの議論をしたいものですから。 ただし一点だけ。。 >現実の歴史の流れを共同幻想というたった一つの概念でくくっても意味はありません。 >しかし、それらの紛争を、一つ一つ解決していく能力や手段を、人類は、確かに持っています。 人間存在をくれぐれも過大評価なさらぬように。 個々の紛争を解決する事は出来るでしょうが、それを“ゼロ”にする事は決して出来ないのです。 >最後に、私は、ケンシロウではなくて、ケンタロウです。 >「北斗の拳」は、全部読みましたがね。 おっと失敬しました。失礼の程お許しを。 |
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確かに、認識が違う。 発言番号:5 名前:ケンタロウ 43歳 2004年05月30日23時56分 >なるほど、思っていたよりはマトモな方みたいですね。 私をまともだと言ったのは、あなたが初めてですね。ほんとですか? 気をつけたほうがいいですよ。 >ヒトは本質的には自らと異なる共同体とは相容れない性質を持っている。としています。私もこの説を強力に支持します。 確かにそうですね。私もそう思います。これも何かの本で読んだことですが、人間は、集団を作ると、他の集団の人間を人間とはみなさなくなるのだそうです。 いわゆる、差別意識を持ってしまうわけですが、これが、紛争の源でしょう。 しかし、その差別意識を克服することで、紛争を減らしてきたことも事実です。 >『ヒトが無意識下において他のヒトと共有できる一体感』 無意識という言葉を不用意に使うべきではないと思います。 人間は、ある共同体の中で生まれ、しつけや教育を通して、その共同体にふさわしい構成員として、育てられるのです。いつのまにか、知らぬうちに、構成員になる、というわけではありません。 その一体感を、家族愛、連帯感、郷土愛、愛校心、愛社精神、愛国心などと、と呼んでいるのですが、これらは、無意識に生まれるのではなく、しつけや教育を通して、植え付けられるのです。 従って、意識的にこれらを捨て去ることも可能ですし、一体感を持たずに生活することも可能です。 ただ、普通の人は、小野田さんやロビンソン・クルーソーのように、完全な孤独の中で生きることは苦痛なので、適当に、他人と関わりながら生きることになります。 しかし、一方で、一人の時間を持たなければ、精神、肉体ともに正常を保つことはできません。一人暮らしの気楽さを知っていれば容易に理解できます。 >アメリカやヨーロッパ、その他多くの『政教分離国家』と、多くのイスラム文化圏での『政教一致国家』の対立がそれです。 この対立は、キリスト教側の攻撃性が生み出しているものです。 イスラムや仏教は、基本的に、来るものは拒まず、去るものは追わず、です。ところが、キリスト教は、ヨーロッパから遠く離れた極東にまで押しかけてくるほどのお節介さを持っています。 キリスト教徒は、「自分が正しいと信じることは、他人にとっても正しい」と勝手に考える、言わば、ライトマン症候群的精神構造をしています。これが、対立の真相です。 >つまり、『征服民による非征服民の隷属化』が長期間かけて慣例化し、それが19世紀末まで延々と続いていたのです。 20世紀はまさに、この『慣例との戦い』の世紀であったと言っても良いでしょう。 いいえ、違います。被支配者の支配者に対する反抗の歴史は、はるか古代からあります。 ローマ帝国内でキリスト教が急速に広まったのは、「私がお仕えするのは神のみ」という意識が、ローマ皇帝への反逆精神を生み、幾多の弾圧を経ながらも、ついには、キリスト教容認へとつながったのです。 大航海時代以後の被征服民の隷属は、「文明社会による、非文明社会隷属化」とすべきです。しかも、単純な慣例化ではなく、抵抗に対する力づくの征服です。 力づくの支配は、常に、反逆の圧力を内在させており、いずれ破綻することは、歴史が何度も証明してきました。民族独立闘争は、20世紀になって、突然起きたわけではありません。 文明国側による支配が始まった時点から、すでに民族独立闘争は準備されていたのです。 征服された側は、おとなしく征服されたままになっているわけではありません。支配する側も、常に、「アメとムチ」に代表されるように、知力を尽くさなければなりませんでした。 >“弱肉強食”から“国際協調”へ、それこそ人類は血で血を洗って努力を続けてきたのです。 ここは、私も同感です。 >国際協調という名の『共同幻想』を全世界で共有する事が、100年以上経っても我々にはまだ出来ていないのです。 国際協調への努力と続けてきた、とせっかく言っているのに、なんで、それが共同幻想になるのでしょうか。 国際協調は、違いを認めることが前提です。例えば、日本とベルギーが同じだなんて、誰が思うでしょうか。 >尚、わが国での戦国時代や徳川政権の例も挙げられていますが、これは元々「共同幻想」(言語・生活様式・武士としての価値観など)を共有化した上での闘争であったに過ぎないので、ここでは適切ではありません。 当時の日本の状況を全く理解していません。 例えば、薩摩と松前の人間は、同じ日本人だという認識は全くありませんでした。言葉もほとんど通じませんでした。この状況は、幕末まで続きます。 例えば、長州がイギリスと戦争したとき、戦火を眺めていた九州や四国の人間は、まったく無関心でした。「同じ日本人が戦っている」「日本が危機だ」などという考えは全くありませんでした。完全に、対岸の火事だったのです。 >韓国では犬を食べ、中国では熊の掌や猿の脳みそが最上級の料理とされ、日本料理の納豆は西洋人の多くから敬遠され、日本人の多くはブルーチーズを平気な顔をして食する事は困難な人が多いのです。 アラスカのとある先住民では男性同士の結婚が当たり前であったり、チベットでは一妻多夫制であったりします。 これらの違いに対して、全ての日本人がすぐにこれらを尊重する事が出来るでしょうか。 なぜ尊重する必要がありますか。互いに、放っておき合えばすむことです。他人と、文化や習慣を共有しなければ、生きられないというのは、ウソです。放っておきあうこと、干渉しないこと、これが、平和維持の原則です。 関わろうとするから、面倒が起きるのです。理解しあうことなど、不可能ですし、理解する必要もありません。 例えば、仏教徒は仏教徒のままで、イスラム教徒はイスラム教徒のままでいればいいのです。違いを認める、とはそういうことです。理解しようと努力することではありません。 仏教徒が無理してイスラム教徒になる必要などないのです。 >しかし、『戦争は本当に罪悪か?』という最大限のテーゼを扱う以上、その概念は最大規模のものを想定していただきたいですね。 概念に大小は関係ないでしょう。個人間の争いも、国家間の紛争も、根は同じです。互いに干渉しあい、相手を支配しようとする欲求が、争いを生むのです。 >個々の紛争を解決する事は出来るでしょうが、それを“ゼロ”にする事は決して出来ないのです。 紛争ゼロは確かに難しいでしょう。しかし、個々の努力を怠ってはなりません。現在も60億人もの人間が生存していると言う事実が、人類が、平和を求めた証明です。 |
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お願い 発言番号:6 名前:ケンタロウ 43歳 2004年05月31日08時44分 ちょっと、お願いです。 私は、このところ仕事が暇だったものですから、長いレスを書けたのですが、また忙しくなるので、一度に、大量のレスはできません。 反論がおありでしょうが、できれば、断片的にお願いします。 あるいは、長い反論をいただいても、私のほうからの再反論は、断片的にしかできないと思います。 それと、申し訳ないのですが、私とあまり関わると、あなたまで、周りから相手にされなく恐れがあります。その辺のリスクもお考えになった方がよろしいかと・・・(杞憂でしょうか) また、基本的に、立場が対立するもの同士の討論は、最終的には、物別れに終わるものです。その過程で、けんかになる可能性もありますし、実際、私はあっちこっちで、罵声を浴びせてきました。 国会で、ヤジが飛んだり、台湾の国会議員の暴力好きは、つとに有名です。イギリス国会で、野党側と与党側の席の間に、広くスペースが取ってあるのは、サーベルが届かないように、ということだと、聞いたことがあります。 本来なら、公正な第三者の介入が絶対に必要だろうと思います。だから、国会には、議長がいるわけです。また、裁判では、最終的には、第三者である、裁判官が判決を下します。 しかし、ここではそういうシステムはありません。討論会と言っておきながら、第三者がいないというのも、困ったことだと思います。 だから、多分、あなたとは、平行線をたどりつづけるでしょう。物別れに終わったときは、それはそれで仕方ないことです。あるいは、互いに捨てぜりふを残して、あばよ、となってしまう可能性大です(私だけか・・・)。 こういったことを前提にしていただきたいと思います。 |
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……………… 発言番号:7 名前:東照権現 34歳 2004年06月01日00時48分 …あのですね。。 >それと、申し訳ないのですが、私とあまり関わると、あなたまで、周りから相手にされなく恐れがあります。その辺のリスクもお考えになった方がよろしいかと・・・(杞憂でしょうか) これは、あなたの討論姿勢が全てのカギになります。 少々あなたの他の板でのレスを読ませていただきましたが、恐縮ではありますが、討論に適切な言葉の使い方としては恐ろしく稚拙です。 主張は、その言葉の使い方ひとつで印象がガラッと変わってしまいます。 挑発ひとつするにしても、それが議論を活性化させることもあり、逆に罵詈雑言の塊となってコミュニケーションを破壊する事もあるのです。 >また、基本的に、立場が対立するもの同士の討論は、最終的には、物別れに終わるものです。その過程で、けんかになる可能性もありますし、実際、私はあっちこっちで、罵声を浴びせてきました。 >国会で、ヤジが飛んだり、台湾の国会議員の暴力好きは、つとに有名です。イギリス国会で、野党側と与党側の席の間に、広くスペースが取ってあるのは、サーベルが届かないように、ということだと、聞いたことがあります。 その通りです。 しかしあなたは、この主張をした時点でこのスレッドでのあなたの主張とは全く矛盾した発言をした事になります。 つまり、『ヒトとヒトとの差別意識の克服こそ人類に繁栄をもたらしてきた』とあなたは主張していますが、その一方で上記のような『差別意識の克服』などでは全くない『議論が物別れに終わる』事をあなたは認めているからです。 >本来なら、公正な第三者の介入が絶対に必要だろうと思います。だから、国会には、議長がいるわけです。また、裁判では、最終的には、第三者である、裁判官が判決を下します。 >しかし、ここではそういうシステムはありません。討論会と言っておきながら、第三者がいないというのも、困ったことだと思います。 確かにその通りですね。 しかしそれは、あくまでこちらの管理人さんが決める事。 私やあなたは、管理人さんによって提供されている『場』を利用しているに過ぎません。 『場』を利用しているに過ぎない存在が、管理人さんが求めもしないのにその運営について口をさしはさむ事は明らかに間違っています。 なぜなら、その運営に文句があるのであれば(管理人さんからの利用者としての意見を求める意思表示がない限り)、このサイトから去るか自分で討論サイトを運営すればそれでよいからです。 >だから、多分、あなたとは、平行線をたどりつづけるでしょう。物別れに終わったときは、それはそれで仕方ないことです。あるいは、互いに捨てぜりふを残して、あばよ、となってしまう可能性大です(私だけか・・・)。 捨て台詞を吐く吐かないはあなたの勝手です。 ただし議論において、『仕方ない』などという言葉を簡単に吐く事を、私には理解できません。 なぜなら、我々は明らかに日本語を使って意思の疎通をしているのであり、その日本語による議論をマナーに乗っ取ってキチンと使っていさえすれば、通常は物別れするにあたって板が荒れたとしても、それは大火災にはならずボヤ騒ぎで済むものだからです。 捨て台詞を吐いた瞬間、あなたはこの議論に負けた事になる。 議論は勝ち負けではないという人もいるでしょうが、本来それは誤りであり、討論参加者達が充分な自制を持って討論に参加していれば、皆が『新しい認識を得た』という趣旨での勝者になれるからです。 あなたのレスの中での『仕方ない』というセリフは、その『討論参加者の自制をもった討論』が出来ないからこそ、そのセリフが出るのであって、逆にそこさえ認識できれば議長などいなくても議論はできるのです。 >こういったことを前提にしていただきたいと思います。 いや、それはできません。 なぜなら、これらのあなたの主張はご自身の都合だけから出ている言葉であり、このサイトのここでの議論が私やあなただけでなく不特定多数の人々の目に触れている事を度外視しているからです。 したがって、私は私の主張したい事をあなたの前提は無視して書き込みいたします。 もしあなたが今後もスレッドに参加するおつもりなのであれば、ご自身のペースを守って書き込みしてください、としか私には言う事は出来ません。 尚、 >私は、このところ仕事が暇だったものですから、長いレスを書けたのですが、また忙しくなるので、一度に、大量のレスはできません。 >反論がおありでしょうが、できれば、断片的にお願いします。 >あるいは、長い反論をいただいても、私のほうからの再反論は、断片的にしかできないと思います。 全くかまいませんよ。 そもそも、ネット上で他者と何かを語るのは、こういった制約があるのは普通なのですから。 しかし、これをあなたの立場を理解したとは思わないでいただきたい。 レスが長かろうと短ろうと、あなたは私とコミュニケーションを取りたいと願い、実際にレスをされました。 という事は、この掲示板においてのあなたの行動は、本来あなたのリアルでの生活とは全く関係のない事でありましょう。 したがって、『リアルが忙しいからレスができない』というのは全くの『言い訳』に過ぎず、今になってこんな事を言うのであれば、最初からこの板に書かなければ良かっただけの話なのです。 仕事が忙しくなる事など普通は充分に予見できる事なのですから、それをこの場にて公表する事に何の意味もありません。 その上であなたが断片的なレスしか出来ないというのであれば、それはそれであなたの事情ですから、私から何かを申し上げる筋合のものでもありません。 |
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わかりました。 発言番号:8 名前:ケンタロウ 43歳 2004年06月01日19時07分 反省しております。 では、私の発言番号5に対する反論をどうぞ。 |
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。。。。。。。。。。。。 発言番号:9 名前:東照権現 34歳 2004年06月01日21時22分 >では、私の発言番号5に対する反論をどうぞ。 こんな事をわざわざ書かなくてもそういたしますよ。 ただ、仕事を持っているのはあなただけではないので。 あなたに“マイペースで書いてください”と言った以上、私もマイペースで書かせていただきます。 しばらくお待ちください。 |
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さて、続きです。 発言番号:10 名前:東照権現 34歳 2004年06月06日20時27分 >なるほど、思っていたよりはマトモな方みたいですね。 >私をまともだと言ったのは、あなたが初めてですね。ほんとですか? >気をつけたほうがいいですよ。 いえいえ、あなたよりもっとすごい粘着質的な討論者とも議論した事もあるので。 その人達よりはくみし易そうだと思っているだけです。 >ヒトは本質的には自らと異なる共同体とは相容れない性質を持っている。としています。私もこの説を強力に支持します。 >確かにそうですね。私もそう思います。これも何かの本で読んだことですが、人間は、集団を作ると、他の集団の人間を人間とはみなさなくなるのだそうです。 >いわゆる、差別意識を持ってしまうわけですが、これが、紛争の源でしょう。 >しかし、その差別意識を克服することで、紛争を減らしてきたことも事実です。 私は、人類はここを『克服』してきたのではないと思っています。 後述の“征服民と非征服民”の部分とも関連しますが、「征服民による秩序の樹立の後に、非征服民によるレジスタンスが起き続けていた」のではないでしょうか。 この『克服』を世界で最初に試みたのは恐らくガンジーではないかと。 しかし彼の“非暴力・不服従”でさえも、相手がヒトラーであれば完全に失敗した事でしょう。 それほどまでに、共同体間のヒトの対立は根深いものなのではないでしょうか。 >『ヒトが無意識下において他のヒトと共有できる一体感』 >無意識という言葉を不用意に使うべきではないと思います。 >人間は、ある共同体の中で生まれ、しつけや教育を通して、その共同体にふさわしい構成員として、育てられるのです。いつのまにか、知らぬうちに、構成員になる、というわけではありません。 >その一体感を、家族愛、連帯感、郷土愛、愛校心、愛社精神、愛国心などと、と呼んでいるのですが、これらは、無意識に生まれるのではなく、しつけや教育を通して、植え付けられるのです。 >従って、意識的にこれらを捨て去ることも可能ですし、一体感を持たずに生活することも可能です。 >ただ、普通の人は、小野田さんやロビンソン・クルーソーのように、完全な孤独の中で生きることは苦痛なので、適当に、他人と関わりながら生きることになります。 >しかし、一方で、一人の時間を持たなければ、精神、肉体ともに正常を保つことはできません。一人暮らしの気楽さを知っていれば容易に理解できます。 そうでしょうか? 『パンサル』を読んだあなたであれば、上記の主張が実はつじつまが合わない事であることが容易にわかるでしょう。 ヒトは、その生活様式を誰かから学んできたのではなく『種として選択してきた』のだと私は考えます。 『パンサル』の著者はその事を、交換・性・ノイローゼ・法律・道徳という、人間に特有な性質について指摘しています。 しつけや教育すべき事柄をたった一人の天才が思いついたところで、それは共同体には決して浸透しません。 共同体がその天才をノイローゼだと判断し、天才は「秩序を破壊する者」として潰されるだけだからです。 よって、『ヒトが無意識下において他のヒトと共有できる一体感』は、ヒトがその進化の過程において『種として選択した』ヒトの“本質”なのではないかと私は考えます。 その本質を捨てる事が出来る(?)のは、現代に生きる我々が『個人の尊厳』を保証されているからに過ぎず、それを“捨てる事が出来る”と思い込んでいるだけなのだと私は考えます。 >アメリカやヨーロッパ、その他多くの『政教分離国家』と、多くのイスラム文化圏での『政教一致国家』の対立がそれです。 >この対立は、キリスト教側の攻撃性が生み出しているものです。 >イスラムや仏教は、基本的に、来るものは拒まず、去るものは追わず、です。ところが、キリスト教は、ヨーロッパから遠く離れた極東にまで押しかけてくるほどのお節介さを持っています。 >キリスト教徒は、「自分が正しいと信じることは、他人にとっても正しい」と勝手に考える、言わば、ライトマン症候群的精神構造をしています。これが、対立の真相です。 まず私はこれを、“宗教間対立”とは考えていません。 『政教分離』によって「宗教的権威と世俗的権力が分立している“社会”」と、『政教一致』によって「宗教的権威と世俗的権力が一致している“社会”」の対立だと考えています。 政教分離側は、その権威と権力の分立から『聖俗の分離』が生じ、『俗』の部分によって利潤極大化の論理が生まれ、政教一致側には権威と権力が統合されていたので『聖俗の一致』によって利潤最大公約数化(勝手にこう呼びますが)が起きたのではなかろうかと。 一方の共同体が「他を押しのけてでも利益を得る」という事を“種として選択”した以上、隣り合った共同体がどんなに闘争を好まなくても、否応なくそれに巻き込まれます。 すると、巻き込まれた方も自衛しようとしますから闘争はどうしても避けられない。 ここに“善悪”の概念を挟み込むから話がややこしくなるのです。 ヒトの本性は“利己主義”です。 一見利他的に見える行動も、そこに何らかの“利己”を見出すからこそ、その行動を取るのであって“純然たる利他”など絶対にあり得ません。 >つまり、『征服民による非征服民の隷属化』が長期間かけて慣例化し、それが19世紀末まで延々と続いていたのです。 20世紀はまさに、この『慣例との戦い』の世紀であったと言っても良いでしょう。 >いいえ、違います。被支配者の支配者に対する反抗の歴史は、はるか古代からあります。 >ローマ帝国内でキリスト教が急速に広まったのは、「私がお仕えするのは神のみ」という意識が、ローマ皇帝への反逆精神を生み、幾多の弾圧を経ながらも、ついには、キリスト教容認へとつながったのです。 まあ、そうですね。 単純なるレジスタンスであれば、中国で「紅布の乱」が紀元前からあったわけですし。 しかし、広域的な共同体間の征服と非征服という概念での両者の対立は、後述するようにモンゴル帝国時代にそのルーツがあるのでは、と私は考えております。 >大航海時代以後の被征服民の隷属は、「文明社会による、非文明社会隷属化」とすべきです。しかも、単純な慣例化ではなく、抵抗に対する力づくの征服です。 >力づくの支配は、常に、反逆の圧力を内在させており、いずれ破綻することは、歴史が何度も証明してきました。民族独立闘争は、20世紀になって、突然起きたわけではありません。 >文明国側による支配が始まった時点から、すでに民族独立闘争は準備されていたのです。 >征服された側は、おとなしく征服されたままになっているわけではありません。支配する側も、常に、「アメとムチ」に代表されるように、知力を尽くさなければなりませんでした。 ですから、その「文明社会による非文明社会隷属化」の核となったのは『文明』という共同幻想の質が共同体ごとに異なっていたからだと私は考えます。 『文明を持つ』事は人類が種として選択してきた事だとしても、その文明がいかなる共同幻想を持つかは、人類が置かれた生存領域の状況に左右された事でしょう。 人類はアフリカで誕生し、中東から北へ移動していったヨーロッパ人の祖先と、東へ移動していったアジア人の祖先とに別れました。 北へ向かったヨーロッパ人の祖先たちは比較的早期に厳しい自然にさらされ、その克服のために“競争原理によって高い能力を有する者が勝ち残る”という共同幻想によって発展していったのに対し、東に向かったアジア人の祖先たちは比較的温暖な自然に適応して“競争原理よりは協調の論理によって共同体全体の生存を図る”という共同幻想を持ったのではないでしょうか。 そして、大航海時代に征服民となったヨーロッパ人は、競争原理によって磨きぬかれた最先端の文明を持っていたために“弱肉強食”の自然の摂理が働いたに過ぎません。 さらに言えば、征服民がその樹立した秩序を維持するのに、非征服民を知力を尽くして統治する事は至極当然の事です。 >国際協調という名の『共同幻想』を全世界で共有する事が、100年以上経っても我々にはまだ出来ていないのです。 >国際協調への努力と続けてきた、とせっかく言っているのに、なんで、それが共同幻想になるのでしょうか。 >国際協調は、違いを認めることが前提です。例えば、日本とベルギーが同じだなんて、誰が思うでしょうか。 あなたは後述の部分で上記について矛盾した記述をなさっていますので、そこで指摘いたします。 >尚、わが国での戦国時代や徳川政権の例も挙げられていますが、これは元々「共同幻想」(言語・生活様式・武士としての価値観など)を共有化した上での闘争であったに過ぎないので、ここでは適切ではありません。 >当時の日本の状況を全く理解していません。 >例えば、薩摩と松前の人間は、同じ日本人だという認識は全くありませんでした。言葉もほとんど通じませんでした。この状況は、幕末まで続きます。 薩摩と松前などという極端な例を引けば、それはその通りですよ。 ただし、その二つは直接関わっていたわけではなく、地理的な隔たりを通して中央政権を介して極々間接的な関わりを持っていたに過ぎません。 それに、そもそも津軽海峡以北は、それこそ『異民族』だったわけですから。 もっと言ってしまえば、東北地方以北は「みちのく=道の奥」に通じて“文化的に遅れていた”という蔑みすらもあったわけですし。 しかし当時の武士達は、薩摩から津軽まで全国一律に自分の領地の守備に命を懸ける“一所懸命”という概念を共通して持っていたのですよ? しかもそれは、武士が登場した平安時代中頃からその登場と同時に生じ始めたのではないですか? これを私は『共同幻想の共有』だと申し上げているのですが。 >例えば、長州がイギリスと戦争したとき、戦火を眺めていた九州や四国の人間は、まったく無関心でした。「同じ日本人が戦っている」「日本が危機だ」などという考えは全くありませんでした。完全に、対岸の火事だったのです。 平民レベルで見れば、それはその通りでしょう。 しかし確実に、中央政権や武家階級ではその危惧は明確にありました。 だからこそ明治維新があったわけですし。 (もっとも、私個人としては明治維新を真の意味での『革命』だとは思っていませんが) >韓国では犬を食べ、中国では熊の掌や猿の脳みそが最上級の料理とされ、日本料理の納豆は西洋人の多くから敬遠され、日本人の多くはブルーチーズを平気な顔をして食する事は困難な人が多いのです。 アラスカのとある先住民では男性同士の結婚が当たり前であったり、チベットでは一妻多夫制であったりします。 これらの違いに対して、全ての日本人がすぐにこれらを尊重する事が出来るでしょうか。 >なぜ尊重する必要がありますか。互いに、放っておき合えばすむことです。他人と、文化や習慣を共有しなければ、生きられないというのは、ウソです。放っておきあうこと、干渉しないこと、これが、平和維持の原則です。 >関わろうとするから、面倒が起きるのです。理解しあうことなど、不可能ですし、理解する必要もありません。 >例えば、仏教徒は仏教徒のままで、イスラム教徒はイスラム教徒のままでいればいいのです。違いを認める、とはそういうことです。理解しようと努力することではありません。 >仏教徒が無理してイスラム教徒になる必要などないのです。 ここが前述した矛盾です。あるいは、現実を無視して飛躍した主張です。 私は前回レスで書いたように、チンギス・ハーンの大西征の時代から現代まで一貫して『地球は縮み続けてきた』と思っています。 無論それは、人間や情報の交流という趣旨においてです。 すると必然的に、それまで交わる事もなかったであろう『共同体』どうしが隣り合った地域で生存していく事になります。 それまでの時代は、確かに隣り合った共同体同士は小競り合いを続けながらも、最終的には互いの不干渉によって互いの平和を維持してきたのでしょう。 しかし、その時代以降は共同体間の穏やかな交流だけでなく、人間個人間のダイナミックな交流も少しずつ徐々に盛んになっていき、大航海時代を迎えて“何を考えているか全くわからない共同体同士が交じり合う時代”になってきた。 人間の本性は“利己主義”ですから、競争の原理によって鍛えられたヨーロッパの征服民は更なる富を求めて非征服民を隷属化する。 20世紀初頭において、地球はたった10ヶ国ほどの先進国による植民地として切り分けられ、アジア諸国はその植民地分割闘争の最終舞台として位置づけられていました。 よって、その闘争において生存するために当時の日本の世論は『脱亜入欧』のスローガンの下に軍国化せざるを得なかったのです。 しかし、世界は第二次世界大戦の終結と、そのほぼ同時に現れた核兵器という“最終兵器”が出現するに及び、先進国同士の闘争による共倒れの危険性を悟り、これ以後直接的な武力闘争による植民地の分割よりも経済力を基準とした間接的・擬似的な国家間闘争の時代に移行していきます。 この闘争においては、部分的には『協調』が何よりの武器となります。 互いの生活習慣や文化を理解して尊重し、そこに『金銭的・物理的利益』という新たな共同幻想を構築する事が闘争に勝利するための方法論として確立しました。 したがって、あなたの言う「共同幻想が理解できないのであれば干渉しあわなければ良い」という主張は全く現実的ではなく、人類は「新しい国家間闘争に勝利するために、異なる共同幻想を理解し尊重しあわなければならなくなった」わけです。 そして、その方法論を実現するための手法として“共産主義”と“資本主義”という共同幻想の対立があったのであり、前述した通り戦争は大規模な『国家間闘争』ではなく先進国の支援による中小国家の対立による『地域紛争』化していったのです。 >しかし、『戦争は本当に罪悪か?』という最大限のテーゼを扱う以上、その概念は最大規模のものを想定していただきたいですね。 >概念に大小は関係ないでしょう。個人間の争いも、国家間の紛争も、根は同じです。互いに干渉しあい、相手を支配しようとする欲求が、争いを生むのです。 はい。その欲求は『決してゼロには出来ない』というのが、私の根本的なスタンスです。 ヒトは、必ず他を支配してその利益を極大化しようとします。これはヒトの習性であり誰にも止める事は出来ません。 しかし、私とあなたの二人だけような極小の概念であれば、この制御は至って簡単です。 それが関わる人々が多くなり、その性質も多様化するにしたがって、どんどん困難になっていきます。 (現に他のスレッドにおいてあなた自身が経験しているように。) 概念の大小は、この問題を議論するにおいて重要な規定事項です。 >個々の紛争を解決する事は出来るでしょうが、それを“ゼロ”にする事は決して出来ないのです。 >紛争ゼロは確かに難しいでしょう。しかし、個々の努力を怠ってはなりません。現在も60億人もの人間が生存していると言う事実が、人類が、平和を求めた証明です。 ここには、ほぼ同意できます。 個々の努力を継続する事で始めて、我々は平和を享受できるのです。 しかし、同時に避けられない闘争による避けられない犠牲も絶対的に存在する。 これは、今後どんどん多様化しつつも矮小化していくことでしょう。 重要なのは、この『避けられない闘争』がいかなるときに発生するか…ここを見失わない事です。 これを認識できて初めて、多くの日本人は“エセ平和主義者”から脱却する事ができるのですから。 |
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いやはや 発言番号:11 名前:ケンタロウ 43歳 2004年06月08日22時14分 こりゃ、長いよ まとめて答えるか、断片的に答えるか、考えます。 |
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でもまぁ、 発言番号:12 名前:東照権現 34歳 2004年06月08日22時36分 長いって言っても、長いのは引用部分ですからね。 >や、>がついている部分をすっ飛ばして読んでもらえば、そんなに長文でもないでしょう。 実際、私はこれを確か30分くらいだったかな?で書いたわけですし。 まあ、マイペースでどうぞ。 |
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は? 発言番号:13 名前:原田和美 25歳 2004年06月09日17時55分 何も複雑に考える事ないですよ。 総合的に国益になるなら→善 総合的に国益にならない→悪 国際社会の地位を悪化しない→善 国際社会の地位を悪化する→悪 自国の損害が割に合う→善 自国の損害が割に合わない→悪 これらの条件に合致していれば戦争でもなんでもやってください。目的合理性があって、それにメリットがあればそれでいい。『戦争』は政策手段なので善悪なんてものは無いです。そんなものは構成の歴史が決定する事です。 政策的に有効なのか無効なのか? 政治家はその一点から決定すれば言いだけの事です。 |
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もー少し考えてみましょう。 発言番号:14 名前:東照権現 34歳 2004年06月09日22時12分 >何も複雑に考える事ないですよ。 >総合的に国益になるなら→善 >総合的に国益にならない→悪 >国際社会の地位を悪化しない→善 >国際社会の地位を悪化する→悪 >自国の損害が割に合う→善 >自国の損害が割に合わない→悪 >これらの条件に合致していれば戦争でもなんでもやってください。目的合理性があって、それにメリットがあればそれでいい。『戦争』は政策手段なので善悪なんてものは無いです。そんなものは後世の歴史が決定する事です。 >政策的に有効なのか無効なのか? >政治家はその一点から決定すれば良いだけの事です。 ベースとなる考え方としては、まさにこの通りだと私も思います。 しかし、その“基準”が問題なのです。 私も戦争について『善悪』で語る事は、本来ナンセンスだと考えています。 しかし、これを語っているために無為に長大化しているスレッドが現にあります。 ちなみに、上記の条件に全て合致する政策など存在しません。 国益を一方的に追求すれば国際社会における地位は低下し、国際的地位を悪化させまいとすれば一定のリスクを覚悟しなければならず、総合的な国益を測るには、その一方で必ずツケを払わなければならない存在がいるからです。 つまり、いかなる政策であっても『不可分性』が存在するのです。 複雑に考える事ないと仰ってはいますが、複雑に考えざるを得ないのがこの問題なのですよ。 |
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オッ、 発言番号:15 名前:ケンタロウ 43歳 2004年06月09日22時44分 ついに、第三者が入りましたね。 >これらの条件に合致していれば戦争でもなんでもやってください こんなこと言う人に限って、本当に戦争になって、前線に行けと言われれば、あたふたするものよ。 もちろん、私だって、あたふた致しますが、だからこそ、戦争を防ぐにはどうすべきかを考えなければならない、と思うわけです。 で、現実に、戦争は減ってきているのですから、その理由もあわせて、考えてみましょう。 |
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政治家として相応しい外交姿勢の心得はこれだ! 発言番号:16 名前:原田和美 25歳 2004年06月11日08時20分 中国の尖閣諸島及び、石油資源強奪という現実と下記の文にある模範的な理想を比較してみると、日本とそれを支える政治家、そして国民が情けなく思えてくる。 【名言集】 一、隣接する国は互いに敵対する。 二、敵の敵は戦術的な味方である。 (←“戦略的”ではないことに注目してください) 三、敵対していても、平和な関係を作ることはできる。 四、国際関係は、善悪でなく損得で考える。 五、国際関係は利用できるか、利用されていないかで考える。 六、「優れた陸軍大国が同時に海軍大国を兼ねることはできない(その逆も然り)」 七、国際政治を損得で見る。善悪を持ちこまない。 八、外国を利用できるか考える。 九、日本が利用されているのではないか疑う。 十、目的は自国の生存と発展だけ 十一、手段は選ばない 十二、損得だけを考える。道義は擬装である。 十三、国際関係を2国間だけでなく,多国間的に考える。 十四、油断しない 十五、友好,理解を真に受けない 十六、徹底的に人が悪い考えに絶つ 十七、科学技術の発達を考慮する 「国家に真の友人はいない」 キッシンジャー 「隣国を援助する国は滅びる」 マキャべリ これは某所で発見したものをコピペしたものですが、まあ参考にすべきでしょう。当方は典型的な理科系の研究職なので、あまり政治に関心も知識もありません・・が、日本の現況には関心はあります。お時間に余裕があれば私も参加させてください。 |
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的確 発言番号:17 名前:ケンタロウ 43歳 2004年06月12日15時01分 原田さんの掲げた【名言集】は、どれも的確です。もう、私が申し上げることは何も無い(そんなこと言っちゃいけないか・・・)。 基本的に、私は、友好とか、理解とかいうことを信じていないので、究極の平和維持法は、互いに無視しあうことだと考えます。 民主主義というのは、一民族、あるいは、一国家内でのみ可能であって、国際的には、いくら国連が頑張っても、民主主義は無理でしょう。方向としては、民主主義に向かうべきだとは思いますが、現実には、互いに背を向け合うことの方がより効果的だと思います。 東照権現さんの質問に答えないで、道草食っちゃって、スミマセン。 |
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では私も道草を。 発言番号:18 名前:東照権現 34歳 2004年06月12日23時45分 →ケンタロウさん 一つだけ指摘を。 >基本的に、私は、友好とか、理解とかいうことを信じていないので、究極の平和維持法は、互いに無視しあうことだと考えます。 >民主主義というのは、一民族、あるいは、一国家内でのみ可能であって、国際的には、いくら国連が頑張っても、民主主義は無理でしょう。方向としては、民主主義に向かうべきだとは思いますが、現実には、互いに背を向け合うことの方がより効果的だと思います。 では、あなたはなぜ私とレスを交換するのでしょう? しかも、私のスレッド以外に他のスレッドでも散々演説をしたり意見交換をなさっていますよね? あなたは私や他の討論者と『平和維持』をしたくないのでしょうか? 私は日本人ではないかもしれない。 日本語を使える外国人なのかもしれないのですよ? あなたの意見をあなた自身が本当に妥当だと思っているのであれば、あなたは一切のご自身の意見発信をすべきではない。 しかし、実際にはそれが妥当ではないからこそ、あなたは自分の意見を発信したくて仕方がないのです。 それは、あなたの意思であって同時にあなたの意思ではない。 あなたの「ヒト」の部分が、他者とのコミュニケーションを求めてやまないからです。 この『他者とのコミュニケーションを求めてやまない』という事も、ヒトの習性なのです。 平和維持を目的として互いに背を向けあう事など、ヒトには決して出来はしない。 その現実を直視した上で、モノを言ってくださいな。 >東照権現さんの質問に答えないで、道草食っちゃって、スミマセン。 いえいえ、私も道草させていただきましたから、これでおあいこですね。 |
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イヤーン 発言番号:19 名前:ケンシロウ 29歳 2004年06月13日22時07分 戦争って何ですか。? |
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お答えです。 発言番号:20 名前:ケンタロウ 43歳 2004年06月14日20時53分 上の人は、何なんでしょ。 私には、敵が多いみたいだから、このくらいは我慢しますか。 まず、発言番号18について、一言。 「究極の」という言い方には説明が必要でした。 私が、一番最初に申し上げたように、平和維持法には、いろいろあります。贈り物を贈りあったりというように、何らかのコミュニケーションをとることが、先決です。 しかし、敵対してしまった場合は、無視しあうしかないと思います。そういう意味で、「究極の」と言ったのです。 例えば、職場で、職員同士がお互いに嫌い合ってしまった場合、どっちも仕事をやめなるわけに行かないし、周りの迷惑になるから、口げんかをすることも、殴り合いをすることもできないというのであれば、互いに無視しあうしかありません。顔を合わせない、口を利かない、といった具合に。 まさに、一触即発の状態ではあっても、「一触」を回避するためには無視しあうしかありません。これが、冷戦ということです。 原田さんの「名言集」にもあったように、「敵対していても、平和な関係を作ることはできる」というのが、これに当たるのではないでしょうか。ここで言う平和とは、仲良くすることではなく、とりあえず、ケンカしない状態、あるいは、戦争しない状態という意味に私は受け取ります。 したがって、今後の国際関係も、もちろん、敵対しないようにコミュニケートすることが大切ですが、敵対してしまったら、無視しあう、という方向性しかないと思います。でないと、戦争や紛争はいつまでたっても無くなりません。 >それほどまでに、共同体間のヒトの対立は根深いものなのではないでしょうか。 そうです。だから、無視しあうしかないのです。私の言う、差別意識の克服とは、互いに、関わらないようにすることです。 理解しあうとか、尊重しあうとか、そんなことではありません。尊重だなんて、そんな面倒なことする必要はありません。 勘違いしてほしくないのですが、無視する=ないがしろにする、ということではありません。そのままにして置いてあげる、いちいち口を出さない、ということです。 だいたい、ケンカというのは、親しい者同士の間で起きるものです。夫婦、親子、兄弟、親友、カップルetc.いやでも関わらざるを得ないから、けんかになるのです。隣の家の人と滅多にケンカにならないのは、普段、できるだけ関わらないようにしているからです。 殺人事件だって、通り魔や、無差別殺人などを除けば、ほとんどが、家族や知人の間で起きています。 >ヒトは、その生活様式を誰かから学んできたのではなく『種として選択してきた』のだと私は考えます。 『種として選択してきた』とはどういう意味ですか。環境に適応してきた、という意味ですか。それとも、遺伝ということですか。 長い年月をかけて環境に適応し、子供は、親からその適応の仕方を学ぶ、ということじゃないんですか。それがしつけとか教育とか言うことです。無意識にやってるわけじゃない。 >よって、『ヒトが無意識下において他のヒトと共有できる一体感』は、ヒトがその進化の過程において『種として選択した』ヒトの“本質”なのではないかと私は考えます。 その本質を捨てる事が出来る(?)のは、現代に生きる我々が『個人の尊厳』を保証されているからに過ぎず、それを“捨てる事が出来る”と思い込んでいるだけなのだと私は考えます。 個人の尊厳が保証されているから、一体感を捨てられる、という考え方は無茶です。 人間は、集団を形成しなければ、安全保障ができないし、社会生活が送れないが、一日中他人と関わっていたのでは、精神異常を来たす。だから、一人の時間を持たなければならない、ということです。別に、今に始まったことではありませんし、尊厳とか、一体感とか、そういう問題ではありません。 >『政教分離』によって「宗教的権威と世俗的権力が分立している“社会”」と、『政教一致』によって「宗教的権威と世俗的権力が一致している“社会”」の対立だと考えています。 政教分離側は、その権威と権力の分立から『聖俗の分離』が生じ、『俗』の部分によって利潤極大化の論理が生まれ、政教一致側には権威と権力が統合されていたので『聖俗の一致』によって利潤最大公約数化(勝手にこう呼びますが)が起きたのではなかろうかと。 ここの部分は、何を言いたいのかよく分からん。今のパレスチナ問題や、イラク問題のことを言ってるんですか。それとも、何か別の時代の話ですか。 現代の話をしているんだったら、政教分離云々は関係ないですね。パレスチナ問題はユダヤ問題(あるいは、差別問題)であり、イラク問題は、石油問題ですから。 >ヒトの本性は“利己主義”です。 これがあなたの本音ということでしょうか。私は、人の本性は○○だ、と言い切ることはできません。 利己的になることもあれば、そうでないこともある。 >人類はアフリカで誕生し、中東から北へ移動していったヨーロッパ人の祖先と、東へ移動していったアジア人の祖先とに別れました。 北へ向かったヨーロッパ人の祖先たちは比較的早期に厳しい自然にさらされ、その克服のために“競争原理によって高い能力を有する者が勝ち残る”という共同幻想によって発展していったのに対し、東に向かったアジア人の祖先たちは比較的温暖な自然に適応して“競争原理よりは協調の論理によって共同体全体の生存を図る”という共同幻想を持ったのではないでしょうか。 そして、大航海時代に征服民となったヨーロッパ人は、競争原理によって磨きぬかれた最先端の文明を持っていたために“弱肉強食”の自然の摂理が働いたに過ぎません。 さらに言えば、征服民がその樹立した秩序を維持するのに、非征服民を知力を尽くして統治する事は至極当然の事です。 面白い説です。だいたい、文明社会は、非文明社会に対して暴力的なので、弱肉強食と言えなくも無い。ただ、人類は弱肉強食を是正してきたことを認めるべきです。そこには、「弱」の側の根強い抵抗があったからです。 >例えば、長州がイギリスと戦争したとき、戦火を眺めていた九州や四国の人間は、まったく無関心でした。「同じ日本人が戦っている」「日本が危機だ」などという考えは全くありませんでした。完全に、対岸の火事だったのです。 >平民レベルで見れば、それはその通りでしょう。 しかし確実に、中央政権や武家階級ではその危惧は明確にありました。 だからこそ明治維新があったわけですし。 幕末から維新にかけての意識変化を見落としています。 長州の周辺の藩や徳川幕府は、イギリスと戦っている長州に援軍を送りませんでした。中央政権や武家階級にとっても、やはり、対岸の火事だったのです。日本全体を共同体とする発想は、この時点では、まだありませんでした。 あなたの言う共同幻想とやらは、藩の中だけのことでしたし、同じ藩の中でも、農民と武士が仲間認識を持っていたわけではありません。したがって、戦国時代において、日本人全体が、まとまった共同体意識を持っていたと考えることはできません。 例えば、東京の人が福岡の人と同じ「日本人」だと思うようになったのは、明治になって、徴兵制がしかれてからです。 明治政府にとって、国民皆兵は悲願であり、まずは、全国どこでも言葉が通じるようにすることが急務でした。共通語というのはそのために広められたのです。軍隊にとって、全員に、明確に命令が伝わらなかったら、統制の取れた軍事行動は不可能ですから。 その結果、みんな、同じ日本人、と思うようになったというわけです。 >人類は「新しい国家間闘争に勝利するために、異なる共同幻想を理解し尊重しあわなければならなくなった」わけです。 そして、その方法論を実現するための手法として“共産主義”と“資本主義”という共同幻想の対立があったのであり、前述した通り戦争は大規模な『国家間闘争』ではなく先進国の支援による中小国家の対立による『地域紛争』化していったのです。 現代の経済戦争を勝ち抜くには、理解と尊重ではなくて、情報を得ることじゃないんですか。 例えば、A国の企業が、B国に工場を作る場合、B国の気候、風土、慣習、伝統などを調べるわけですが、それは、理解とか尊重とかということではないでしょう。とりあえず知っておかないと、ちょっとしたことでトラブルになるからです。 現地住民を雇うから、経営する側も彼らの習慣を真似なきゃならない、というわけではありません。食えない物は食えない。あなたは犬が食えるんですか。犬が食えないと韓国ではビジネスができないのですか。 現地の住民に、積極的に働いてもらうためには、仕事以外の面では、できる限り、そのままにしてあげることだと思います。 >ヒトは、必ず他を支配してその利益を極大化しようとします。これはヒトの習性であり誰にも止める事は出来ません。 これは、習性ではなく、意識の問題です。相手が対等の存在であると認めれば、支配欲は起きません。相手をさげすみ、馬鹿にするから、支配したくなるのです。 さっき、親しい者同士の間でケンカが起き易いと言いましたが、これも同じことです。例えば、夫が妻を見下して、自分の考えに従わせようとすると、妻が反抗して、けんかになるのです。 ここの文頭で述べた冷戦状態というのは、ケンカではありません。互いに力が拮抗していることを一応は認めており、もしケンカになれば、共倒れするしかないことを互いに知っているから、手を出さずにいるのです。 もし、どちらかが、強い権力を持っていれば(上司と部下の関係にある場合など)、弱い方が追放されるでしょう。 こういうことは、国家間でも同じです。したがって、概念の大小は関係ありません。 >しかし、同時に避けられない闘争による避けられない犠牲も絶対的に存在する。 そんなことは無いでしょう。どんな戦争も闘争も、あとから考えれば、避ける方法があったと気づくものです。あとから気づくということを何度も繰り返しながら、人間は学習していくのです。人間は、そんなに馬鹿じゃない。ただ、まだ、学習が足りないということです。 |
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戦争とは、 発言番号:21 名前:タキシード仮面 27歳 2004年06月15日22時00分 軍事的手段を以ってする政治の延長(フォン・クライゼウィッツ) これ以上でも以下でもありません。 |
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つづき。 発言番号:22 名前:東照権現 34歳 2004年06月20日22時36分 …まだ私の主張そのものををご理解いただけていないようですね。。 私の説明が悪いのでしょうか。。? >「究極の」という言い方には説明が必要でした。 >私が一番最初に申し上げたように、平和維持方には、いろいろあります。贈り物を贈りあったりというように、何らかのコミュニケーションをとることが、先決です。 >しかし、敵対してしまった場合は、無視しあうしかないと思います。そういう意味で、「究極の」と言ったのです。 >例えば、職場で、職員同士がお互いに嫌い合ってしまった場合、どっちも仕事をやめるわけに行かないし、周りの迷惑になるから、口げんかをすることも、殴り合いをすることもできないというのであれば、互いに無視しあうしかありません。顔を合わせない、口を利かない、といった具合に。 >まさに、一触即発の状態ではあっても、「一触」を回避するためには無視しあうしかありません。これが、冷戦ということです。 ↑ そもそも「職場」というのは、私が言うところの「共同幻想を共有する場」と言えます。 という事は、この職場の例では「共同幻想を共有する関係同士の緊張緩和の手段」という事ではないかと思います。 すなわち、私の主張する『お互いに何を考えているか全く分からないという関係の対立』ではない、という事ではないかと考えます。 私の言う『お互いに何を考えているか全く分からないという関係の対立』とは『互いが互いをヒトの形をしたインベーダーだとでも思っているような状況』を指します。 地球が縮小した今でこそ、このような人間観は少なくなりましたが“戦争に陥りかねないほどの緊張状態”においては、互いが互いを「人間だ」などとは思っていないものです。 だからこそ殺し合う事ができるのです。 共同体内において、他の共同体に属するヒトの形をしたインベーターを殺戮する事が『悪』だとは思われないのですから。 >原田さんの「名言集」にもあったように、「敵対していても、平和な関係を作ることはできる」というのが、これに当たるのではないでしょうか。ここで言う平和とは、仲良くすることではなく、とりあえず、ケンカしない状態、あるいは、戦争しない状態という意味に私は受け取ります。 >したがって、今後の国際関係も、もちろん、敵対しないようにコミュニケートすることが大切ですが、敵対してしまったら、無視しあう、という方向性しかないと思います。でないと、戦争や紛争はいつまでたっても無くなりません。 ↑ まず、私は「戦争や紛争はいつまでたっても(決して)無くならない」という見解を持っています。 それに、冷戦下であっても戦争は存在しましたよね。 米ソが直接戦わずとも、朝鮮半島やベトナムで両国はウラで糸を引いて、また時には前面に出て戦争当事国を操っていたのですよ。 「名言集」においての「敵対していても、平和な関係」とは、単なるけん制の状態だと私は考えます。 あるいは一時的な停戦というだけなのではないかと。 >>それほどまでに、共同体間のヒトの対立は根深いものなのではないでしょうか。 >そうです。だから、無視しあうしかないのです。私の言う、差別意識の克服とは、互いに、関わらないようにすることです。 >理解しあうとか、尊重しあうとか、そんなことではありません。尊重だなんて、そんな面倒なことする必要はありません。 >勘違いしてほしくないのですが、無視する=ないがしろにする、ということではありません。そのままにして置いてあげる、いちいち口を出さない、ということです。 >だいたい、ケンカというのは、親しい者同士の間で起きるものです。夫婦、親子、兄弟、親友、カップルetc.いやでも関わらざるを得ないから、けんかになるのです。隣の家の人と滅多にケンカにならないのは、普段、できるだけ関わらないようにしているからです。 >殺人事件だって、通り魔や、無差別殺人などを除けば、ほとんどが、家族や知人の間で起きています。 ↑ 対立は親しい間で起こる、とあなたは主張していますが、それはその通りだと私も思います。 (しかし、殺人事件については、実は通り魔や無差別殺人が増加してきているのが現実なのですが。) そこに、例えば石油のような戦略物資や、経済的利得などが絡んでいればなおさらです。 あなたはここを『“意図的に”無視しあう事が出来る』と思っていらっしゃる。 それはあなたが、個人の関係の延長線上に国家間の関係、民族間の関係を理解しているからです。 前回レスで書いたように、共同幻想を共有した上での個人対個人であれば、無視する事も出来るでしょう。 しかし、そこに関わる人間が増えてきて、利害関係や損得勘定が絡めば絡むほど、当然にして『無視できない』人々も増えてくるのです。 結果、国家間・民族間においては、敵対しようとも無視できない状況になるのだと私は考えます。 つまり、個人の関係と国家間・民族間の関係には、全く違う概念を適用しなければならないのです。 ですから私は、 『国家間・民族間の関係を個体差に至るまで反映させた状況(共同幻想を全く共有していないほどに個人間の関係を混ぜ合わせてしまった状況)での個人的関係においては、ヒトは絶対に安心して暮らすことは出来ない』 と、主張しているわけです。 この主張に近い国家が現にあります。アメリカです。 アメリカは種々雑多な人種・民族・宗教が混在し、その価値観も日本人には想像も付かないほどに多様化しています。 このような状況下では人々はカンタンには安心して暮らすことが出来ず、それゆえかの国では自衛のためと称しての個人での銃の保有が認められているのです。 あなたがいかに敵対者を無視しようと、敵対者の方がストーカーのごとくあなたに関わってきたとしたら、そして実際にあなたに危害を加えたとしたら、あなたには無視し続ける事が出来ますか? (つまり、この“ストーカー行為”が彼にとっての敵対行為だとしたなら、あなたには“無視”という方法では対応しきれるはずがないわけです) そして、この状況が平和を維持する方法などという事が出来ますか? >>ヒトは、その生活様式を誰かから学んできたのではなく『種として選択してきた』のだと私は考えます。 >『種として選択してきた』とはどういう意味ですか。環境に適応してきた、という意味ですか。それとも、遺伝ということですか。 >長い年月をかけて環境に適応し、子供は、親からその適応の仕方を学ぶ、ということじゃないんですか。それがしつけとか教育とか言うことです。無意識にやってるわけじゃない。 ↑ あなたは本当に『パンサル』を紐解いたのでしょうか? 『種として選択してきた』とは、ヒトがその生存のために遺伝子レベルの“内知”によって選択してきた、という意味です。 遺伝子レベルで選択してきた事なので、ヒト自身はそれが意識的に選択してきた事だとは全く考えません。 つまり、「気づいたらいつの間にか言葉を使っていた(このように暮らしていた)」という感覚を指します。 例えば言語。 ヒトを除いた類人猿達は、喉の形状が言葉を発するようには出来ていません。 そして当然ながら、彼らに言葉を使う習性はありません。(私が言っている『言語』は、彼らにとっての“コミュニケーション”を意味するものではなく、我々のような意思と情報の詳細な疎通や交換ができる“言葉”を指しています) しかし、ヒトだけが言葉を話せるように喉の形状が変化していった。 (余談ですが、その喉の形状の変化の代償として、ヒトには水が気管に入り込んでしまうという“むせる”という現象が生じるわれですが、類人猿達にはこの現象は起きません。) これはとりもなおさず、「たった一人の天才」によって言語が編み出され、それが共同体に広まっていったわけではない事の証明だと私は思います。 確かに、後天的な“しきたり”“タブー”などは親から子へ受け継がれてきたのでしょう。 しかし、その“しきたり”や“タブー”などのルーツは、ヒト全員が遺伝子レベルで無意識のうちに「いっせーのーせ!」で『採用した』のです。 「そんなバカな!」とあなたは思うかもしれない。 しかしよーく考えれば、このように考えないと生き物がいかにして習性を獲得してきたか、という事の説明がつかないのです。 ヒトは、言葉を使う事を『種として選択してきた』のです。 これは言葉に限らず、ヒトの生活様式全般に言えることだと私は思います。 再度書きますが、『パンサル』では 経済(交換)・性・ノイローゼ・法律・道徳 というヒトの『習性』について上記の事実を論証しています。 もう一度『パンサル』を紐解く事をオススメします。 >>>無意識という言葉を不用意に使うべきではないと思います。 >>>人間は、ある共同体の中で生まれ、しつけや教育を通して、その共同体にふさわしい構成員として、育てられるのです。いつのまにか、知らぬうちに、構成員になる、というわけではありません。 >>>その一体感を、家族愛、連帯感、郷土愛、愛校心、愛社精神、愛国心などと、と呼んでいるのですが、これらは、無意識に生まれるのではなく、しつけや教育を通して、植え付けられるのです。 >>>従って、意識的にこれらを捨て去ることも可能ですし、一体感を持たずに生活することも可能です。 >>>ただ、普通の人は、小野田さんやロビンソン・クルーソーのように、完全な孤独の中で生きることは苦痛なので、適当に、他人と関わりながら生きることになります。 >>>しかし、一方で、一人の時間を持たなければ、精神、肉体ともに正常を保つことはできません。一人暮らしの気楽さを知っていれば容易に理解できます。 >>その本質を捨てる事が出来る(?)のは、現代に生きる我々が『個人の尊厳』を保証されているからに過ぎず、それを“捨てる事が出来る”と思い込んでいるだけなのだと私は考えます。 >個人の尊厳が保証されているから、一体感を捨てられる、という考え方は無茶です。 >人間は、集団を形成しなければ、安全保障ができないし、社会生活が送れないが、一日中他人と関わっていたのでは、精神異常を来たす。だから、一人の時間を持たなければならない、ということです。>別に、今に始まったことではありませんし、尊厳とか、一体感とか、そういう問題ではありません。 ↑ そもそも私は『一体感は捨てられない』と考えています。 一人の時間が持てるのは、「一人であっても社会とのつながりは“感じて”いられる」からであり、それが失われてしまっている状態がいわゆる“引きこもり”なのではないかと私は考えています。 だからこそ、引きこもりの人々はあれほどまでに悩み苦しむのではないでしようか。 また、私が上記の主張をしたのは、あなたの“ヒトは一体感を捨てる事が出来る”という主張に対しての反論であり、『個人の尊厳が保障されているから一体感を捨てられる』などと私が考えているわけではありません。(それゆえ、わざわざ(?)までつけましたし、“思い込んでいる”という表現も使ったのですが…) >>『政教分離』によって「宗教的権威と世俗的権力が分立している“社会”」と、『政教一致』によって「宗教的権威と世俗的権力が一致している“社会”」の対立だと考えています。 >>政教分離側は、その権威と権力の分立から『聖俗の分離』が生じ、『俗』の部分によって利潤極大化の論理が生まれ、政教一致側には権威と権力が統合されていたので『聖俗の一致』によって利潤最大公約数化(勝手にこう呼びますが)が起きたのではなかろうかと。 >ここの部分は、何を言いたいのかよく分からん。今のパレスチナ問題や、イラク問題のことを言ってるんですか。それとも、何か別の時代の話ですか。 >現代の話をしているんだったら、政教分離云々は関係ないですね。パレスチナ問題はユダヤ問題(あるいは、差別問題)であり、イラク問題は、石油問題ですから。 ↑ ですから、ここも“”をつけて“社会”の対立であると私が考えている事を強調したつもりなのですが。。 イラク問題もパレスチナ問題も根本的には、イラク問題では石油をどの“社会”が支配するかの争いがそのベースだと思いますし、パレスチナ問題では宗教上の聖地をどちらの民族(“社会”)が支配するかがそのベースにあるからです。 (もっとも、この部分の記述にあたって私の念頭にあったのはイラク問題ですが) “社会”の持つ“共同幻想”が異なっているからこそ、このような対立が発生していると私は考えているのです。 >>ヒトの本性は“利己主義”です。 >これがあなたの本音ということでしょうか。私は、人の本性は○○だ、と言い切ることはできません。 利己的になることもあれば、そうでないこともある。 ↑ では、ヒトが純粋に利他的に行動する事例を挙げてみてください。 かのマザー・テレサであっても、利他的に行動する事が彼女(ら)にとっては精神的な利己だからだと私は思いますよ。 また“国境なき医師団”の行動も、彼らの職業観念を実現する事が彼らにとっては精神的な利己だからだと私は思っています。 もう一度繰り返しますが『絶対にヒトの本性は利己主義である』と私は主張します。 逆に言えば、あなたがこの部分の反論を論証できれば、私を論破する事が出来ます。 あなたもおっしゃっているように、ここが私の本音(=私の主張の根っことなる所)だからです。 >だいたい、文明社会は、非文明社会に対して暴力的なので、弱肉強食と言えなくも無い。ただ、人類は弱肉強食を是正してきたことを認めるべきです。そこには、「弱」の側の根強い抵抗があったからです。 ↑ 「弱」の側の根強い抵抗“だけ”では、今日のまがりなりにも民主主義が普及している状況は、決して実現していないでしょう。 なぜなら「弱」の抵抗に対して「強」の側からその行動理念を『理解する』存在が出てこなければ、その抵抗は決して支持されませんし「強」の側が「弱」の主張を受け入れる事もありません。 アメリカで言えば、リンカーンやケネディが出てこなければ奴隷解放運動や公民権運動は成立しなかった事でしょう。 「弱」側の根強い抵抗は、単なる“一揆”で終わってしまったと私は考えます。 >幕末から維新にかけての意識変化を見落としています。 >長州の周辺の藩や徳川幕府は、イギリスと戦っている長州に援軍を送りませんでした。中央政権や武家階級にとっても、やはり、対岸の火事だったのです。日本全体を共同体とする発想は、この時点では、まだありませんでした。 >あなたの言う共同幻想とやらは、藩の中だけのことでしたし、同じ藩の中でも、農民と武士が仲間認識を持っていたわけではありません。したがって、戦国時代において、日本人全体が、まとまった共同体意識を持っていたと考えることはできません。 >例えば、東京の人が福岡の人と同じ「日本人」だと思うようになったのは、明治になって、徴兵制がしかれてからです。 >明治政府にとって、国民皆兵は悲願であり、まずは、全国どこでも言葉が通じるようにすることが急務でした。共通語というのはそのために広められたのです。軍隊にとって、全員に、明確に命令が伝わらなかったら、統制の取れた軍事行動は不可能ですから。 >その結果、みんな、同じ日本人、と思うようになったというわけです。 ↑ …このような論点のすり替えをするから、あなたは他の討論者と対立してしまうのですよ。 私はなにも、「全国的に言葉が通じる=共同幻想の共有」などとは思っていませんし、言ってもおりません。 もっと“無意識的に形成される一体感”を指して共同幻想と言っているのです。 それに、『藩の中だけの事』という範疇での武家社会の共同幻想を想定したのでもありません。 武士が歴史に登場してきた平安時代にまでさかのぼって、全国一律に存在した(発生した)“一所懸命”という概念の共同幻想を想定したのですよ。 また、明治維新についても私は“革命”などではなく“支配者層の構造変化”だと思っています。 明治維新において、平民レベルの意識などは全くの蚊帳の外でした。 だからこそ革命などではないのです。 つまり、あなたは私の主張を全く曲解してしまっているのです。 (あるいは、この事があなたの意図なのでしょうか?) >>人類は「新しい国家間闘争に勝利するために、異なる共同幻想を理解し尊重しあわなければならなくなった」わけです。 >>そして、その方法論を実現するための手法として“共産主義”と“資本主義”という共同幻想の対立があったのであり、前述した通り戦争は大規模な『国家間闘争』ではなく先進国の支援による中小国家の対立による『地域紛争』化していったのです。 >現代の経済戦争を勝ち抜くには、理解と尊重ではなくて、情報を得ることじゃないんですか。 >例えば、A国の企業が、B国に工場を作る場合、B国の気候、風土、慣習、伝統などを調べるわけですが、それは、理解とか尊重とかということではないでしょう。とりあえず知っておかないと、ちょっとしたことでトラブルになるからです。 >現地住民を雇うから、経営する側も彼らの習慣を真似なきゃならない、というわけではありません。食えない物は食えない。あなたは犬が食えるんですか。犬が食えないと韓国ではビジネスができないのですか。 >現地の住民に、積極的に働いてもらうためには、仕事以外の面では、できる限り、そのままにしてあげることだと思います。 ↑ ここも論点のすり替えですね。そもそも、私の言う理解と尊重が、なぜあなたには“マネする”と受け取られてしまうのかが全く分かりません。 また、確かにちょっとした事でトラブルになるから知っておかなければならないのは、あなたの言うように情報です。 しかし、仕事の面で積極的に働いてもらうためには、彼らの行動原理を知らなければなりません。 おカネをたくさん払えば積極的に働いてくれるのか。 それとも、競争原理を導入しないとダメなのか。 逆に平等性を確保しないとダメなのか。 あるいはそのバランスなのか。 仕事時間中に神に祈る事を認めない場合、彼らはどう思うのか。 昼休みは日本人と同じく一時間でよいのか。また、それを一定に一律に与えるのが良いのか、シフト制が敷けるのか。 …これら諸々を現地社員とキチンと話し合う事が出来る事が、私の言う『理解と尊重』なのですが。 この『理解と尊重』を一定ラインまでは実現する事が前提で、さらにプライベートまで関わろうがそこから先は無視しようが一向に構わないのですよ。 >>ヒトは、必ず他を支配してその利益を極大化しようとします。これはヒトの習性であり誰にも止める事は出来ません。 >これは、習性ではなく、意識の問題です。相手が対等の存在であると認めれば、支配欲は起きません。相手をさげすみ、馬鹿にするから、支配したくなるのです。 >さっき、親しい者同士の間でケンカが起き易いと言いましたが、これも同じことです。例えば、夫が妻を見下して、自分の考えに従わせようとすると、妻が反抗して、けんかになるのです。 >ここの文頭で述べた冷戦状態というのは、ケンカではありません。互いに力が拮抗していることを一応は認めており、もしケンカになれば、共倒れするしかないことを互いに知っているから、手を出さずにいるのです。 >もし、どちらかが、強い権力を持っていれば(上司と部下の関係にある場合など)、弱い方が追放されるでしょう。 >こういうことは、国家間でも同じです。したがって、概念の大小は関係ありません。 ↑ ここもそう。 あなたは夫婦間の問題や対立が親しいからこそ起きるという“共同幻想を共有する関係においての対立”と“共同幻想を共有し得ない関係においての対立”という二つの概念をゴッチャにして議論をしてしまっています。 というか、あなたは私の主張そのものを理解できていません。 一体感を共有できない二者が敵対関係に陥った場合において、相手をさげすみ馬鹿にするのは習性であって回避できません。 『白人と黒人を幼少期から一緒に育てれば、人種差別につながる互いの偏見を解消する事が出来るのではないか』 という実験がありました。 その結果は、二人の子供は逐一ツマラナイ事でケンカを始め、しまいには「くろんぼ」「しろんぼ」と、互いの違いを攻撃しあうだけであったという結論でした。 つまり、人間とは自分と違う他の人間に対する生理的違和感を払拭し得ない存在なのだという事です。 そして、その生理的違和感は『無視しあえばそれで済む』などという生易しいレベルで解決する問題では絶対にないのです。 >>しかし、同時に避けられない闘争による避けられない犠牲も絶対的に存在する。 >そんなことは無いでしょう。どんな戦争も闘争も、あとから考えれば、避ける方法があったと気づくものです。あとから気づくということを何度も繰り返しながら、人間は学習していくのです。人間は、そんなに馬鹿じゃない。ただ、まだ、学習が足りないということです。 ↑ そう。避ける方法があったとしても、実際にはそれは実行できない事の方が多い。 それはヒトに学習能力がないからではなく、ヒトの生理的本能に根ざしているからだというのが私の主張です。 ヒトが学習し得るのは、「いかにして自分が利を得るか」と「いかにして敵を殺すか」という事だけです。 そして、その均衡によって初めて、かろうじて『仮の平和』が実現するだけです。 まだまだあなたの想定している概念が小さ過ぎます。 そして、まだまだ人間存在を過大評価してしまっています。 『戦争は本当に悪なのか?』という議論をするにあたっては、『ヒトの本性』を解明する事が必要だと私は考えます。 なぜなら、ヒトにとって歴史は戦う事で織り上げられてきたからです。 それが中断されている時期は、何らかの突出した存在による秩序が保たれていた時期だけです。 その突出した存在が弱体化すれば、秩序は麻のごとく乱れてしまうのです。 秩序が乱れてしまえば、ヒトは新たな秩序を求めてまた血で血を洗う。 そして、その争いに勝ち残った存在が新たな秩序を樹立する。 ですので、私はこのスレッドを『人間観』を語り合うスレッドに仕立て上げているつもりなのです。 |
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関係なくてすみません。気に成ったので書きます。 発言番号:23 名前:来 19歳 2004年06月20日22時57分 >長州の周辺の藩や徳川幕府は、イギリスと戦っている長州に援軍を送りませんでした。中央政権や武家階級にとっても、やはり、対岸の火事だったのです。日本全体を共同体とする発想は、この時点では、まだありませんでした。 あの〜 <徳川幕府は、イギリスと戦っている長州に援軍> ってありますが、幕末のことですよね? 徳川幕府が敵の長州藩に見方する訳が無いと思いますし、他藩も当時の長州藩に見方する筈がないのですが。。。 長州討伐をご存じないのですか?? これを例に出すのって可笑しいと思うのですが? 丁度、新撰組やってますよ。 |
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>来さん 発言番号:24 名前:東照権現 34歳 2004年06月20日23時32分 >徳川幕府が敵の長州藩に味方する訳が無いと思いますし、他藩も当時の長州藩に味方する筈がないのですが。。。 というかですね、我々が「日本人である」という意思(共同幻想)をいつ頃から持っていたか、という趣旨だと思うのですよ。 その意味では、幕府と長州が対立していようが、長州と英軍が戦っている状況において「長州藩も日ノ本の一員である」という意思があったのなら、長州に対して支援があっても良かったのでは? というのが彼の言いたい事だと思うわけです。 でもですね、私はその時期の事を問題にしたわけじゃないんです。 確かに江戸時代ってのは、中央政権と地方自治がビシッと分かれていて現代人が見習わなきゃいけない程に両者が明確に分立していたのは事実ですけど、私が言ってるのはそれ以前に「武士階級には無意識のうちに平安時代の頃から“一所懸命”という価値観を共有していたでしょ?」ってな事なのです。 それを彼は、彼特有の“論点のすり替え”で私に議論上対抗してきただけですから、私としては彼の策に引っかからなきゃいい話ですわ。 フォローありがとです。 |
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ちょっとだけ 発言番号:25 名前:ケンタロウ 43歳 2004年06月21日22時17分 >パレスチナ問題では宗教上の聖地をどちらの民族(“社会”)が支配するかがそのベースにあるからです。 これは、いくらなんでも曲解過ぎますよ。 パレスチナ問題は、19世紀ヨーロッパ内でのシオニズムと、20世紀初頭のイギリスによる二枚舌外交が原因だということくらいは知ってるでしょ? 聖地の奪い合いは、カムフラージュでしかありませんよ。 で、なんかの本に書いてあったけど、困ったことに、イスラエルの若者は、意外と、パレスチナ問題の歴史を知らないのだそうです。そして、教育によって、ただ単に、アラブ嫌いの感情を植え付けられているらしいです。 朝鮮半島での反日教育と同じです。 どうなっちゃうんでしょうね。 |
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原点に 発言番号:26 名前:ケンタロウ 43歳 2004年06月23日19時31分 ちょっと、原点に戻らせてください。 あなたのおっしゃる「共同幻想」というのは、「共同体意識というものは、所詮は、幻想に過ぎない、即ち、共同体意識というのは、もともとあり得ないことであって、あたかも、共同体意識を誰もが持っているかのように錯覚しているから、幻想でしかないのだ」と受け取ってよいでしょうか。 そして、誰もが、そのように幻想しているから、集団は成り立っているのだ、ということでしょうか。 この点について、確認のレスをお願いします。 |
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ケンタロウ、あんた馬鹿だろ? 発言番号:27 名前:ケンシロウ 29歳 2004年06月23日22時27分 あんた、馬鹿くせに賢い振りして能書き垂れてんだね。 |
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ケンシロウ君へ 発言番号:28 名前:ケンタロウ 43歳 2004年06月23日23時07分 はい、私は、馬鹿です。賢い振りをするのも好きです。だから、能書きたれます。 あなたも、能書き垂れてみてはいかがですか。楽しいですよ。 |
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…ん? 発言番号:29 名前:東照権現 34歳 2004年06月24日01時20分 >あなたのおっしゃる「共同幻想」というのは、「共同体意識というものは、所詮は、幻想に過ぎない、即ち、共同体意識というのは、もともとあり得ないことであって、あたかも、共同体意識を誰もが持っているかのように錯覚しているから、幻想でしかないのだ」と受け取ってよいでしょうか。 >そして、誰もが、そのように幻想しているから、集団は成り立っているのだ、ということでしょうか。 あれ? あなた『パンサル』読んだって言ってなかったっけ? |
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忘れた 発言番号:30 名前:ケンタロウ 43歳 2004年06月24日19時25分 「パンサル」を読んだのは、20年以上前で、手元には持ってません。だから、内容は、ほとんど何も覚えてません。 それに、このトピを見てる人も、「パンサル」を読んでるとは限らないので、他の人たちが「パンサル」を読んでるものとして発言するのはやめたほうがよいと思います。 申し訳ありませんが、「パンサル」を読んでないことを前提にレスしてください。 |
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ここ(100万人の・・)を大切にしたいので 発言番号:31 名前:拳 54歳 2004年06月24日21時34分 また横入りします・・・あぁ、つらい。 ケンタロウ君、君はそこら中で「恥を知れ」とか「荒らし」とか言われ続けて それに気付かない振りをしている事は皆が知っている。それを前提として 私の投げたボールは君に届かなかったようだね。 主題では無かったが、君の在り方・君の執拗さ・君の恥知らずな所作を いささか乱暴ではあったが、君のルーツにボールを投げたつもりだよ。 君の有様はかの将軍様と何ら変わらない恥知らずな所を露わにしている。 悪いのは自分ではない。貴方が・・・だから、自分はこうする(言う)。 この展開ばかりではないか。 いい加減にしたまえ。 パンサルは最初に君がこのトピで自らの議論の展開に用いるために使ったのでは? あぁ・・恥知らずな民族とはこのように情けないものかと・・・。 |
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